第22話 ユダ

 屋上からは、神殿の壁が夕日に照らされて赤く浮き上がって見えていた。一日を終えようとする安らかな時間だったが、町全体を包む殺伐とした空気のためか、その赤は血の色であるかのように、思われた。

 昨年の春、ローマ帝国の総督府が神殿の宝庫から大量の金を持ち出させたことがきっかけだった。暴動は瞬く間にユダヤ全土に広がり、鎮圧に向かったシリア総督の軍がカイザリヤからベテホロンで撃退された。国中が、今こそローマ帝国を倒し、独立を勝ち取るのだという異様な興奮に包まれていた。もとより徹底抗戦を主張していた熱心党だけでなく、パリサイ派やサドカイ派までがそれまでの対立を棚上げにして、共闘することで一致していた。

「ユダ、ここにいたのですね」

 柔らかな声に振り返ると、ロデが梯子から顔を出していた。古くからこの家で女中として働いてきたが、今は教会の執事たちを助けて、食事の配給を宰領している。仕えてきたマルコの母の影響で、早くから信仰を持ち、使徒たちと行動を共にしてきた。

「あなたが諸教会にあてた手紙を書いていると聞きました」

「国中の教会が、混乱しつつあります。使徒たちが世界中に出て行っているところを悪魔が狙っているようです」

「戦のことですか」

 ペテロたちは決して戦ってはいけない、剣を持つ者は剣に滅びると強く主張しているが、教会の中にもローマ帝国の支配と戦うべきだという意見が出始めている。打倒ローマ帝国はユダヤ人たちの長い間の悲願であったし、ローマの都で起こっている激しい迫害が、やがてこの国にまで及ぶのではないかという恐怖もある。

「戦のことなら、そう長くは続かないでしょう。皇帝が派遣した部隊に、あっという間にガリラヤが制圧されたそうです。このエルサレムが囲まれる時も、そう遠くはない、と思います。あの神殿の石が積まれたままで残されることはない、と言われていましたから」

「あの方の預言ですね。私は直接聞けなかったのですが、あなたもその場所におられたのでしたか」

「いや、わたしは、その時にはまだ、兄のヤコブと一緒にナザレにいました。教えを直接耳にしたことはほとんどありません」

 ユダは神殿の壁の、その向こう側を見るようにして、目をすがめた。なぜ、一緒にいる間に耳を傾けようとしなかったのだろう。そんな思いにしばしば襲われる。しかし、そんなことは今更考えても意味がない。

「でも、ステパノが石打ちに遭った時にはあなたは信者となっていました。前から一度聞きたいと思っていたのですが、あの方がおられた時には信じていなかったというあなたが、どうして信じるようになられたのですか」

「兄ですよ。同じように信じていなかったヤコブが、復活した主に出会った。わたし自身は残念ながら会うことはできなかったのですが、文字通り命がけで教えを広めようとしたヤコブの姿を見れば、疑う余地はないでしょう」

 その兄、ヤコブは5年前に殉教した。ユダはその一部始終を見ていた。首を落とされる瞬間まで賛美をしており、身体から切り離されて地面を転がった頭部は、確かにヤコブのものには違いなかったが、そこにヤコブはいなかった。ヤコブ自身が繰り返し証言していたように、肉体から解放されて、神の国に移されたのだということが、はっきりと分かった。

「復活はまぎれもない事実ですし、神の国はわたしたちと共にある。そのすべてを否定する者たちが、教会を混乱させようとしています」

 ギリシアに古くからある思想が、形を変えて入ってきた、とユダは見ていた。ヤコブが、そして使徒たちをはじめとする大勢の信徒たちが、命をかけて伝えできた福音を、汚してはならない、と思っていた。

「そのような者たちから、教会を守らなければなりません。戦も迫害も大変なことですが、信仰が損なわれることは、永遠の命の希望が汚されるということです。わたしは、そのような混乱の中から、信徒たちを救い出さなければならないと思っているのです」

 それが、今生かされている自分にできることだ、とユダは確信していた。たとえ火の中にこの手を差し入れるようなことであっても、決して失われてはならないものがあるのだ。

「その働きを、私たちにも手伝わせていただきたいのです、ユダ。エルサレムやこの国にある主の教会を守り続けるのは私たちの戦いでしょう」

 ロデは穏やかな微笑みをたたえながらもその目に強い光を宿していた。どこかで見たことがある目だ、とユダは思った。

「けれども、危険です。戦が終わるというのは、この都が落ちるということです。あなたも、早く避難したがいい」

「ユダ、あなたがヤコブの変えられた姿を見たように、私は牢から助け出されたペテロを見たのです。鎖につながれ、何重にも閉じられた門を通り抜けて。その手紙を書き写して、諸教会に届けましょう。パウロが書き送った手紙も、同じように皆が持っています。昔のように、集まって直接互いの顔を見ながら話すことが、もうできないのでしょうから」

 確かに、何通もの手紙がそうして大切にされている。かつて先祖のモーセや預言者たちの書いたものが安息日の度に朗読され、神の約束を伝えてきたように。長兄でもあった人の、生き様と死に様を示していたように。そう考えた時、ユダはロデの目が、母マリヤのそれと同じなのだということに、不意に気付いた。思わず見つめ直したその瞳は、大丈夫、と語っていた。

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