第21話 ヤコブ
ヤコブは怒っていた。だから言ったんだ。兄さんはやり過ぎたんだ。うまく言葉にならない、激しい感情が胸の内で渦巻いていた。
兄が家を出たのは3年と少し前のことだった。会堂や路傍で、神の国が近づいたと人々を教え始めたのだ。昔から驚くほどに頭の良い兄だった。祭司の家系ではなくても、ラビにはなれる。だから、はじめのうちは、世に出たいと思うならガリラヤの田舎ではなく、エルサレムがあるユダヤに出るべきだと思っていたし、直接そう言ったこともある。病人を治したり、悪霊を追い出したりすることもできたようで、大勢の人が集まってきていた。
しかし、規律を重んじるパリサイ派の学者たちと対立し、彼らのことを公然と批判をするようになってからは、単なる律法の教師では済まなくなっていった。人々の間ではローマを追い払う救世主ではないかと期待する噂が流れ始め、兄の周りに不穏な空気が漂っていることが分かった。
母や弟たちと一緒にナザレに連れ戻そうと何度か説得を試みたが、神の御心を行う者こそ兄弟であり姉妹だとはねつけられた。このままだとあらぬ疑いをかけられて捕えられる危険がある、と心配していた。
その兄が。心配していた通りに捕えられ、エルサレム郊外で処刑されたという知らせが届いた。数日前のことだ。しかも、強盗と人殺しで捕らえられていた犯罪人と一緒に磔にされたのだという。そうなると、今回の旅に同行していたはずの母の安否も気になる。とにかくヤコブは、母を迎えるためにもエルサレムに急行することにした。
ナザレからエルサレムまでは、大抵は一旦ガリラヤ湖に出て、ヨルダン川沿いを3日か4日をかけて下る。間にあるサマリヤの地方を迂回するためだった。そこに住むサマリヤ人を、ユダヤ人は避けていた。しかし、先を急いだヤコブは、そのままサマリヤを横切って一直線にエルサレムを目指すことにした。暗いうちに出発し、夕刻になる前にナザレとエルサレムのちょうど中間にあるスカルという町に着いた。
「ずいぶん疲れておいでのようですね。どうされたのですか」
水汲み場で休んでいたところに、声をかけられた。サマリヤの町にユダヤ人が休めるところはない。水だけでも飲んで次の町に急ごうとしたのだが、汲み上げるものが置かれていなかったため、途方に暮れていたのだ。
しかし、声の主はそのまま井戸に自分の持っていた桶を投げ入れると、結びつけてある縄を引き上げて、ヤコブの目の前に差し出した。
「汲むものがなくて、お困りだったのでしょう。よろしければ、どうぞ」
ヤコブは、声をかけられたこと以上にその行動に驚いた。何故、サマリヤ人が。
「どこかに、お急ぎなのですか」
「ええ、エルサレムに。……ところで、最近ナザレ人のイエスという人物が処刑されたのを、ご存知ですか」
知らないふりをして尋ねてみた。
「よく存じております。あの方は私たちのところにも教えを語ってくださっていましたから。確かに亡くなられましたが、よみがえられたとも聞きました」
ヤコブは混乱した。一体、この女は何を言っているのだ。
「何を根拠に、と思われるのでしょう。あの方は私に、永遠の命の水を与えると言って下さいましたから」
差し出された器から、水を飲んだ。一口舐めるだけのつもりだったが、止まらない。自分がこんなにも渇いていたのだということに、初めて気づいた。
「それはその人の言葉だけでしょう。根拠には、ならないのでは」
「私はあの方とお会いして、変わることができました。こうして、ユダヤ人であるあなたに水を差し出せていることが、その証とは思われませんか」
話にならない、とヤコブは思った。
「実は私は、そのナザレの人の、身内なのです。亡骸を葬るために、エルサレムに急いでいるところなのです」
言ったところで、意味はない。葬るという言葉を口にすることで、水をさしてやろうという、少し残酷な気持ちがあったのかもしれない。しかし、その言葉で動揺したのは、ヤコブ自身だった。不意に現実感が迫ってきて、得体の知れない感情が湧き起こった。兄を、葬る。それまで怒りだと思っていたものが、恐怖に変わり、やがてヤコブは自分の頬が濡れていることに気がついた。
「兄さん」
たまらず、声に出していた。激しい感情は、悲しみへと変わりつつあった。
「……身内と言われましたか。それなら、エルサレムではなく、ガリラヤに向かわれるべきです。あの方はよみがえられた後、ガリラヤに行くと弟子の皆様におっしゃっていたそうです」
何を言っているんだ、この女は。ヤコブは返事もせずに立ち上がり、町の外れに向かって歩き出した。こんなところで油を売っていられない。道は左右に分かれている。右はエルサレムに向かうが、左はガリラヤ地方に戻る道になっていた。よみがえってガリラヤに。何を馬鹿な。そう自分に言い聞かせながら、気が付けば、ヤコブの足はガリラヤ地方への道を下っていた。何をしているんだ、自分は。頭で考えていることと、自分の体がまるで違う動きをしている。
ふと、暮れかけた道の向こう側に、人影が見えた。その人影はヤコブを待っているかのようにじっとたたずみ、こちらを見ている。
「兄さん」
多少の距離があっても、見間違えるはずもなかった。思わずヤコブは、迷いを振り切るように、駆け出していた。
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