第20話 ヨハネ
都とはいえ、ローマやギリシャの町々と比べれば、華やかさにおいて見劣りがする。領主の好みだったのか、ローマの様式を真似たらしい建造物が所々に見られるが、町全体に統一感はなく、雑然としている。それに、崩れた建物と乾燥した気候のためか、土埃がひどい。
この町で起こった反乱は、つい先年鎮圧されたばかりだった。そのためか、道を尋ねても答えが返ってくることはあまりなかった。明らかに異国から来たと分かるナザリウスのことを、ローマの軍属か何かと勘違いしているのだろうか。町全体に漂っている荒んだ空気が、気持ちを焦らせた。一刻も早くあの人を見つけて、ここから離れなければ。
ただそれでも、ネロ帝の下で行われていた迫害に比べれば、なんということはない。大火事で焼き尽くされ、廃墟と化した町の辻々で、縛り付けられた人間が松明代わりに燃やされた。同信の仲間たちの断末魔の声と、人間が焼かれていく悪臭が充満している様は、正しくこの世の地獄と言えた。
その地獄に、最後の使徒と言われるあの人を、なんとしても連れ帰らなければならない。行くにせよ、とどまるにせよ、地獄。重い足を引きずりながら、町の南にあるシオン門のすぐ近くに来た。
「ここだろうか」
大祭司などの豪奢な屋敷が並ぶ地域のようだが、そこは他の屋敷ほどぜいたくな造りではなく、大きいが質素な家だった。門をたたき来訪を告げると、中から女中らしき婦人が顔を出した。やはり、顔には警戒がにじみ出ている。
「ヨハネはおられるでしょうか」
「……どなたでしょう」
険しい表情のまま、婦人が問い返した。中には踏み込ませないという気負いが前面に出ている。ナザリウスは、かがんで地面に魚のシンボルを描いた。
「ペテロの従者だった、ナザリウスと言う者です」
「それを証すものがおありですか」
その警戒がかえって、目当ての人物がここにいるということを証明していた。
「お客様かね、ロデ」
奥の方から、声が聴こえた。声と同時に姿を見せた男は長身で、薄暗い室内でもかなり堂々とした体躯であることが見てとれる。一目で、訪ね求めた相手であることが分かった。ナザリウスが仕えていたペテロと同じ、元はガリラヤ湖の漁師だったはずだ。
「あなたが」
「私がヨハネだ」
すでに70に近い老人のはずだが、目には強い光が宿っている。
「ナザリウスと申します。ペテロから、この杖を預かりました」
手にしていた杖を見せると、ヨハネはそれを手に取ってしばし懐かしむように目を細めた。
「確かにペテロの杖に違いない。よく訪ねてきてくれた。さあ、入ってくれ。ロデ、申し訳ないが、2階の広間を使わせてもらうよ」
そう言って、奥へと先導した。
「ここはね、あの方がとらえられる前の晩、皆で過越の食事をした部屋なのだ」
聞いたことがあるどころではない。ナザリウス自身も含め、この道を信じている者たちが週の初めごとに集まって守っている、聖なる儀式の原点だった。
「ローマはどんな様子かね」
座を勧めながら、ヨハネが言った。
「町の再建はまだ途上ですが、ネロ帝が自害して、教会への迫害も、少し落ち着いてはいます」
「聞いたところでは、君がペテロの最期を見届けてくれたということだったが」
ナザリウスは一度目を閉じ、気持ちを落ち着けた。思い出すと、今でも息が苦しくなる。
「ご立派な最期でした。兵士が手に釘を打ち付けようとしたとき、自分はかつてあの方がとらえられた時に、逃げ出してしまった。同じ死に方をする資格などない、と言われました。それで十字架を逆さに立てさせて、頭を下にして磔になられました」
それから数年が経つというのに、いまだに声の震えを抑えることが出来ない。
「そばで見ているのも、つらかったろう」
ヨハネはナザリウスの目を見ながら、静かな声で言った。そんな風に言われたのは初めてだった。
「私もかつて、あの方が磔になった時に側で見ていたからね。我が身を割かれる思いだったよ」
ヨハネは、当時あの場所にいて、師の十字架刑を見届けていた唯一の弟子だった。その痛みを誰よりも知っているのだろう。
「ペテロは皆に懇願されて、一度ローマを後にしたのです。私も同行していました。ところが、アッピア街道をいくらも行かないうちに引き返されたのです」
「そこであの方にお会いした。その時にペテロは覚悟をしたのだな。私も、聞いたことがあるよ。それで、君はペテロの最期の様子を伝えるために、来てくれたのかね」
ナザリウスは、意を決して告げた。
「ローマのみならず、使徒たちが皆殉教された今、偽教師たちが入り込んできて混乱が起こっています。教会を正しく導く人が必要なのです」
使徒たちの中でただ一人、この老人だけが生き残っている。ナザリウスは自らの過酷な申し出に気が咎めた。しかし、老使徒はかつての盟友の杖に目を落とし、そっと撫でながら答えた。
「私は、あの方の母上のことを託された。しかし、母上はすでに天にお帰りになり、私がここにとどまる理由はない。あの方が我が体と呼ばれた教会を守るためなら、どこへでも行こう」
その声に迷いは感じられない。ローマへと引き返すペテロの目と似ている、とナザリウスは思った。
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