余禄 ヨナのこと
アッシリアの首都ニネベに行けという神の命令を受けて、その反対方向にあるタルシシュへ逃れようとしたヨナは、よく教会学校などでも教材として用いられる。
しかし、不名誉なその取り上げられ方に反して、預言者としての実力は相当なものだと思う。なぜなら、ニネベに再び送られた彼の、「この町は滅びる」という、ある意味でなげやりとさえとれるような宣告を聞いて、しかも行き巡るのに3日はかかるというところを、たった1日歩いて語っただけで、アッシリアの首都が、町を挙げて悔い改めるのである。
もちろんその背後に、彼を用いられる聖霊の働きがあるのだが、それにしたって、町中が耳を傾けざるを得ない迫力があったのは間違いないだろう。
一説には、魚の腹の中にいた3日の間に、魚の胃液で消化されて全身がただれてしまっており、その姿が神の裁きに対する恐れを具体的な事例として提示する役割を果たしたのだとも。だとすれば、彼はまさに自身の全存在を賭して神の言葉を伝えていった、炎の預言者だとは言えまいか。
しかも、ニネベが裁きを免れるということについて、そうなることは分かっていた、とまで言っている。つまり、霊的な洞察力や信仰はむしろ超人的ですらあるということだ。
では、そんな彼が、なぜ逃げ出さざるを得なかったのか。残忍な国と言われているアッシリアを恐れたのか。否。船が嵐の中で沈みそうになっているというのに船底で眠り、たけり狂う海の男と立ちの前で平然と、この嵐は自分のせいだと言い、挙句に自分を海にほうり込めばいい、と言ってのけるところを見ると、その胆力はやはり尋常なものではない。
恐らくヨナは、ニネベを敵国としてしか理解しておらず、神の目にも悪しき都としてのみ映っているはずだと思っていたのではないだろうか。だからヨナ書は、ニネベに対する神の気持ちを伝える言葉で唐突に締めくくられている。ヨナがこの書を通して最も伝えたかったのは、神が人をどのような眼差しで見ているのかということではないだろうか。
作品中に、ナアマとセブルという架空の登場人物たちとのやりとりを描いた。純真な子どもたちと交わりを持たせることで、人の生きる町としてのニネベ、という目線を強調してみた。
母国を害する敵に対する人間的な憎しみと、そこに住むいたいけな子ども達への親しみという葛藤に悩むヨナは、ニネベを愛する神の愛を知った時に、悔い改めたと同時に憎しみからの解放を体験したのではないだろうか。ニネベをにらみつけるように監視していた彼のまなざしが、やわらかなものに変えられた風景は、私たちの目にも優しく映る。
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