第17話 マタイ
夜半のガリラヤ湖は、穏やかに凪いでいた。月の光が波に反射して、無数の小さな光となって湖面に広がっている。目に入る風景のある種の賑やかさに比べ、その光をたたえた細波が船底を叩く音だけがかえって湖上の静寂を際立たせていた。陸からは十分に離れて、野の獣の声は届かず、小さな漁船に乗り込んだ一同は、ずっと沈黙したままだった。誰しもが疲れ切った肉体とある種の高揚感に満たされながら、互いに誰かが口を開くのを待っていた。今宵目の当たりにした偉大な奇蹟を、ふさわしい言葉で表現する術を持たなかったからだ。
「一体、何人くらい、いたかね」
漸く昇り始めた月が中天にかかる頃になって、この船の持ち主でもある漁師のシモンが、呟くように言った。
「先生は皆を50人ずつにして座らせるようにおっしゃった。俺たちはそれぞれに8つか9つくらいの組にパンを配って回ったから、ええと」
弟のアンデレが答えようとしたが、なかなか出てこない。見ていたレビが、
「一人400から500、ということは全部で5000人前後ってところだろうな」
と引き取った。
「さすがに計算は早いんだな、レビ」
ナタナエルが皮肉な笑みを浮かべながら言った。レビの言動にはいちいち突っかかっていく傾向がある。生真面目なこの男にしてみれば、取税人などという立場に身を置いていたレビの事は母国を裏切った人間としか映らないようだった。
「5000人か。痛快じゃないか。村の人間が総出で集まったっていう感じだな。俺たちだけだったら、明日の朝までかかっても数えられなかった。なあ、アンデレ」
険悪な雰囲気になりかかっていたのを、シモンが引き取って元に戻す。しかし、ナタナエルは引き下がらず、
「数を数えることについては、商売で鍛えられているんだろうからな」
と続けた。せっかく兄ちゃんが割って入ったのに。アンデレがそんな感情をあらわにしてナタナエルをにらみつけ、口を開きかけたとき、今度はケリヨテ人ユダが割って入った。
「全く、漁師だの愛国主義者だの、あんたらがよく同じ船に乗っているもんだな。これだけバラバラな人間が集まって一緒にいるっていうのは、それだけで奇蹟だと思うよ」
「他人事みたいに言うじゃないか」
「まあ、他人事だよ。俺はケリヨテ人だからな。ガリラヤ人のあんたらの事は、ちょっとは客観的に見られるのさ」
船のすぐ近くで、パシャっという、何かが湖面を跳ねた。同心円に広がるはずの波紋は、波に揺られてすぐにかき消される。
「少し風が出てきたみたいだな」
アンデレが小さくつぶやくと、レビは不安げな目を向けた。
「荒れるのかね」
「雲はないから嵐にはならないと思うけど、突風が吹くことはあるかもな」
アンデレが冷静にそう言うと、レビは頭を抱え込んだ。
「君らは慣れているのだろうけれど、私は船は苦手でね。乗らずに済むものなら、一生乗りたくはないのだが」
「気の毒だが、今更引き返しもできないしな。それにしても、ガリラヤ人は誰でも船を乗りこなすもんだと思っていたよ。あんたみたいなのもいるんだな」
ガリラヤ地方に来るまで船を見たこともなかったはずのユダが、不思議そうに言う。当の本人はいたって平気な様子だ。
「そもそもあんたは、どうして先生のところに来たんだ。他の皆んなもよく分からんが、あんたが一番分からん。豪勢な暮らしを投げ出したんだろう」
自身も、ガリラヤ湖の周辺に暮らしていた弟子達の中では十分異質なユダが、自分のことは棚に上げて、レビに尋ねた。
「私かね。先生は、ついてきなさい、と直接私に話しかけてくれたんだ」
「それはここにいる全員に共通していることじゃないか。俺でさえ、そうだ」
「私はね、こう見えて愛国者なんだよ。取税人にだって、なりたくてなったわけじゃあない。若い頃、小遣い銭欲しさに荷運びを手伝ったことがあるんだが、その相手が取税人だったらしい。要するに成り行きでね。どちらかというとむしろ後悔していたんだが、一旦始めてしまうと、引き返すことはできない。誰も信用してくれなくなるからな。いつも徴税所に座っていたのは、そこで特別に仕事があるからでも、気に入っているからでもない。他に居場所がなかったからさ。でも先生は、そんなことにはお構いなしって感じで、話しかけてくださったんだ。自分は正しい人を招くためでなく、罪人を招くために来たのだってね。それだけさ。私には十分な理由だったのだよ」
レビが自身のことをそんな風に話したのははじめてのことだった。その場にいた全員が、耳をそばだててそれを聞いていた。徴税所にいつも座っているレビ。取税人が集まってきて、彼をかしらと仰いでいた。それを喜んでいる、裏切り者の頭領だと誰もが思っていた。しかし、レビ自身の心の中はそうではなかったという。
「にわかには信じられんが、先生がそんな風に言われていたことも確かではあるな」
ナタナエルが一語一語、確かめるように応じた。
「身動きも取れなくなっていた私に、先生は居場所を与えてくださったんだ。シモンがペテロなら、私のことはマタイと呼んでくれ」
「マタイか。神の賜物という意味だな。与えられた居場所だと言いたいのか」
心なしか、ナタナエルの口調は穏やかなものに変わっていた。
風が強くなり、船が大きく揺れ始めた。マタイは答える代わりに船のへりをつかんで、湖に向かって盛大に吐いた。
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