第18話 マルコ

 海は穏やかに凪いでいた。マルコは船室には降りずに、甲板の上で風に吹かれていた。バルナバの話では、キプロスまではこの調子なら半日とかからずに到着できるだろうとのことだった。エルサレムで生まれ育ったマルコにとってはいまだ慣れない海上の旅だが、キプロス生まれのバルナバには馬に乗るよりも当たり前の日常のようだ。

 そのバルナバの、穏やかな横顔をちらりと見て、マルコは小さく肩をすくめた。幼い頃から兄のように慕ってきたこの従兄弟は活動的で、しかも親切を絵に描いたような男だった。特に自分たちがアンティオキアでキリスト者と呼ばれるようになってからは、あちこちを駆け回って他人の世話を焼いていた。そのバルナバが、あんなに怒る姿を見ることになるとは、想像もしていなかった。


 アンティオキアで、先に教えを述べ伝えた町を再び訪れる旅に出ようという話が出た。バルナバは先の旅と同じく、マルコを伴うと言ったし、マルコ自身も当然そうなるのだろうと思っていたが、パウロがこれに強硬に反対した。

 先の旅ではいくつもの町を巡ったが、厳格なパリサイ派だったパウロが改心したことを快く思わない連中が、行く先々につきまとって、一行の妨害をしてきた。リステラに至っては、郊外に引き出されてそこで石を投げつけられた。バルナバをはじめ、その場にいた一同はどうすることもできず、途方に暮れて倒れ伏したパウロを見ていたのだが、しばらくすると突然起き上がり、立ち上がると町中に戻って行ったのだ。

 マルコもその一部始終を見ていた。絶対に死んだと思っていた。イスラエルでは石打ちは死刑の扱いだから、裁判にもかけずに石を投げたのは当然重大な犯罪になる。しかし、リステラでその法は通じない。だから逆に、投げつけられた石も、イスラエルでのそれのように、確実に命を奪ってしまうような大きな石ばかりではなかった。この辺り、同胞ばかりではなく、たきつけられたギリシア人たちも少なからず混じっていたことが幸いしたのかもしれない。しかし、それでも皮膚が裂け、血が飛び散る様子は少し離れていてもはっきりと見えた。たった今、自分に石を投げつけてあわよくば殺してしまおうとした連中がいる町に、戻るなど論外だった。しかも、そこからデルベという町に行って教えを語った後、再びリステラを経由して旅を続けている。

この男は正気じゃない。戦慄と共に、マルコは悟った。だから、パンフィリアで一行から離れて一人、エルサレムに戻った。


「あんなことをしていては、あの人は早晩、殺されてしまいます」

 自宅に戻ったマルコは、そこで集まっている信者たちの指導者であるペテロに報告した。マルコにすれば、パウロの生き様は危うく見えて仕方がない。同時に、あれほど明晰で、彼らの師の教えを明らかに伝えることができる人物は、他にいない。パウロが殉教してしまうことで、教えが正しく伝わらなくなるのではないかということを心配していた。

 そもそも、かつてエルサレムを訪ねてきたバルナバを、ペテロたちに引き合わせたのはマルコだった。ならば、そのバルナバが間を取り持ったパウロが、自分たちの仲間になって活躍していることについても、間接的とは言え、自分も無縁ではない。使徒たちの柱であるペテロから、少し慎重に動くよう助言してもらった方がいいだろう、と思ったのだ。

けれども、マルコに同意してくれるはずの、気さくで陽気な大使徒の口から出てきたのは、意外な言葉だった。

「確かにその通りだ、マルコ。しかし、大切なのはわしらが思うようにではなく、神の命じられるままに進むことだ。パウロに教えを伝えるために遣わされたアナニヤは、彼が御名のために苦しむことになるという主の言葉を聞いたそうだ」

 穏やかにそう言ったペテロの目は、マルコをまっすぐにとらえていた。マルコ自身は、早くに弟子となっていた両親とは違って、師の姿を何度か見たくらいだった。師の教えについてはほとんど、このペテロから聞かされた。マルコにとっては、師父のような存在だった。だから、ペテロがそう言うなら、パウロの在り方についても、受容し、従う他はない。覚悟を決めて、アンティオキアに戻った。

 ところが、パウロの方が、一旦離脱したマルコのことを、認めてはくれなかった。そのことにはとても傷ついたが、しかしそれよりもマルコが衝撃を受けたのは、そのパウロに激しく反発したバルナバの姿だった。

 マルコを伴ったバルナバは、陸路をとったパウロと袂を分かって、前回と同じく船でキプロスに向かった。

「これから、どうなるんだろう」

 思わず、マルコは胸の中にわだかまっている不安を口にした。

「どうにもなりやしないさ。私たちの主の教えは、変わらない。そしてその教えを伝えて回るという使命も、私もパウロも全く同じだ。マルコ、大切なことは、一人でも多くの人々がこの教えを聞き、弟子になることなんだ」

 海を見つめたまま、バルナバは言った。栗色の髪が、潮風に流れていた。

 自分は色々なことを考え、心配しているが、この二人が見ているのはそれとは比較にならないくらいに大きなものなのかもしれない。もしかしたら、パウロと反目してまでマルコを伴って船上の人となったバルナバは、そんなことをマルコに教えようとしてくれているのかもしれない。

 本当に大切にすべきことはなんなのだろうか。もう一度、ペテロから聞いた主の物語を、一から振り返ってみよう、とマルコは思った。

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