第16話 ネヘミヤ

 城壁の上に立つと、都の大通りからそのままつながる石畳の道が、広がる原野にまっすぐに延び、地平線の彼方に吸い込まれている。ダリヨス大王が作らせたと言われているこの王の道は、帝国の領土を東西に貫いて、地中海沿岸のサルデスにまでつながっているはずだ。仮のどこかの軍隊がこの道を攻め上ってきたら、そのまま王宮の鼻先にまで迫ることができるが、誰もそのようなことを恐れる気配はない。それだけこの城壁が堅牢に造られているということに加え、王の目と耳と呼ばれる巡察史が国内をくまなく調べ上げており、反乱の可能性など煙が立つ前に王都に届いて鎮圧されてしまうという状況も手伝っている。

 このスサで生まれ育ったネヘミヤには、当然のように続いてきたその繁栄と人々の安らかな暮らしが、変わるはずのないものであるかのように感じられた。しかし、国の繁栄を象徴するかのようなこの城壁も、いつか崩れ去る日がやってくるのだろう。考えたこともなかった現実が、ネヘミヤの頭を混乱させていた。


「そんなにひどいものなのですか」

 弟のハナニが、エルサレムからはるばる訪ねてきたという数人の旅の者を連れてきた。今朝の話である。

「城壁は崩れ、門は焼け落ちたままです。神殿は完成したものの、いつ攻め込まれるか分からない不安の中で、町は廃墟のような状態が続いています。周辺の住民たちからは侮られ、農作物は荒らされ、時に略奪にも遭うという有り様で」

 偽りを言っている様子ではなかった。疲れ果てたその表情は、ただ旅の疲れだけではない、深い悲しみと絶望の中でなんとか生き延びてきたということを示していた。地図の上でしか見たことのないその町は、広大な荒野の向こう側にある。恐らく、急いだとしても1月以上はかかるであろう道のりを、その窮状をスサにいる宰相に知らせるために、命がけで旅をしてきたのだろう。

「モルデカイ様には折をみて伝えておきましょう。ただ、その状況を変えるというのはなかなか難しいかもしれません。あなた方は、とにかくここで休んでいてください」

 それだけを告げ、ハナニに彼らを労うように伝えて、逃げるように屋敷を後にしたのだった。


 祖父がまだ幼い頃、自分たちの故国であるユダは、バビロニアに攻め破られた。その時、有力者だった祖父は、虜囚としてこのスサに曳かれてきた。その後ペルシャのキュロス王がバビロニアを滅ぼし、王族をはじめとする同胞の帰還が許された。父が生まれた頃の話だと聞かされている。そして、先王の妃エステルをはじめとして、この国でも多くの有力者を送り出したユダの民族は、国の形は違っても、多くの財を得て、豊かに暮らしていた。宰相モルデカイに見出されて王の献酌官となったネヘミヤ自身も、その一人だった。

 同じような、豊かで平和な暮らしが、故国にも戻っているものだと、漠然と思っていた。どうすれば、救えるのだろうか。城壁の上を歩きながら、ネヘミヤは何度も天を仰ぎ、頭を振ってため息を吐いた。ともすれば、叫び出しそうになる。もしこの城壁が崩れ去ったら、この町の人々は恐慌をきたすだろう。略奪を恐れて、逃げ出す者も多いだろう。自分たちの故国の都を覆っている現実は、そういうことだった。

 ここから命令を出されただけでは、その恐れは解消できない。誰かが赴き、実際に石を積み上げる必要があるのだ。しかし、一体誰が行くというのだろうか。困難で、命の危険も伴う。払わなければならない犠牲はあまりにも大き過ぎた。どれくらい、そうしていただろうか。気付けば、空が赤くなり始めていた。ネヘミヤは献酌官として、王の晩餐に出なければならない。重い足を引きずりながら、王宮に向かった。


 王宮は無数に焚かれた灯火に照らし出され、いつに変わらず華やかで淫靡な空気で満たされていた。謹厳な宰相のモルデカイなどはこの雰囲気を苦手としていたが、ネヘミヤは、夜が更けてゆく中揺れる炎に影が躍る様子を見ることが、嫌いではなかった。

 しかし、今夜ばかりはこれまでとは全く異なったものとして映っている。まだ見ぬ故郷の町の風景が、重くのしかかっていた。こことは対照的に、灯火どころか炊ぐ火すら見当たらぬ廃墟が、月の明かりにさらされて、死の静寂に包まれているのであろう。

「どうした、ネヘミヤよ。お前がそのような憂いた顔を見せるとは」

 気付くと、王の眼差しがネヘミヤに向けられていた。

「申し訳ございません。王の御前にも関わらず」

 ネヘミヤは、王が自分を案じていることに気付き、狼狽した。アルタクセルクセスは、好戦的な先王と違って思慮深く、むしろ温和な統治者だった。そして幼い頃から近くに仕えてきたネヘミヤのことを、友と呼んで憚らない。献酌官であるからには毒見役として身をもって王を守るだけでなく、その食卓を宰領し、王の重荷を少しでも軽くすることが役割であると自ら任じてきていた。それが、王に心配りをさせてしまうなど、言語道断である。

「申してみよ。隠さなくとも、よい。余に隠し事など、無用だ。滅多なことで、そのように塞ぎ込むお前ではあるまい」

 王の心遣いは、ネヘミヤに沁みた。この王に、思いを伏せ続けることはできない。暫時目を閉じ、やがて口を開いたネヘミヤは、このスサでの暮らしも財も、そして王の側に仕え続ける平穏な日々をも打ち捨てる決心をしていた。

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