第15話 ダニエル

 月明かりが川面を照らしていた。男はユーフラテス川の両岸を結ぶ橋の上にかがみ込むようにして、飽きもせずにその川面を眺めている。ただ、伸び放題のひげと薄汚れた顔に張り付いているその目が、実際には何を捉えているのかははかりかねた。

ダニエルは、石を投げて届くほどの距離に佇んで、その男の様子をじっと見ていた。体にわずかにまとわりついているだけの布切れは、あちこち破れている上に泥まみれで、元がどのような形状であったのかを想像すらさせないほど無残なぼろ布と化してしまっている。

「こんなところにおられたのですか、ベルテシャツァル様。宴の準備は整って、諸侯も皆様お集まりでございます」

 橋のたもとの城門から声がした。国の重要課題について決裁を下すべき王が正気を失って、久しい。現王を廃して新たな王を立てよ、という意見が多数である中、王は必ずいやされるのでそれまで待つようにと、強硬に譲位を保留させてきたのは、ダニエル自身だった。神が王の夢枕に現れ、幻を見せた。夢を読み解くという特殊な能力を与えられたダニエルには、それが王の錯乱を指しており、同時に神の定めた時に必ず正気を取り戻すということが分かっていた。その時には、かつての王ではなく、神の主権を理解した、敬虔な人格へと変えられているのだということも。だから今、譲位は避けなければならなかった。重臣や諸侯が反対していても、本来王が下すべき決断をダニエルが滞りなく下し続けることで、なんとかそれらを抑え込んでいた。

 周辺諸国に気付かれ、付け込まれたりすれば国が亡びる可能性もある。自分一人だけでなく、国の命運まで賭けた、綱渡りのようなものだったが、それでも、待つだけの価値のある回復のはずだった。

「すぐにまいりましょう」

 事実上の宰相の役割を果たしているダニエルは、その激務にやせこけた自らの頬をさすりながら、城門に向かって踵を返した。数歩進んでから振り返ると、男は二人のやりとりなど耳に入っていないかのように、微動だにせずに同じ姿勢で川面を眺め続けていた。

 ネブカドネツァル。かつて男はそう呼ばれ、恐れられていた。大国エジプトを破り、イスラエルの都であったエルサレムを破壊し、このバビロニアを揺るぎない大帝国に仕立てた。戦だけではなく、占領した国々から様々な知識や技術を貪欲に吸収し、目を見張るような豪奢な建造物や、空中庭園と呼ばれる壮麗な庭園を造ってみせた。

 為政者として、これほどの手腕を持った王はかつて存在しなかったし、恐らくこれから後にも現れないだろうと思われた。少年だったダニエルを見出し、ベルテシャツァルという名を与えて諸官の長にまで育て上げたのも、この男だった。それが言葉はおろか、人としての立ち居振る舞いの一切を失って、獣のように野をさまようようになってしまっていた。


 宴は早々に切り上げられた。かつては諸侯が集まれば夜通し行われていたものだが、それでなくとも王が不在の中では大騒ぎをするわけにいかず、自粛のムードが濃かった。加えて日中の会議で、譲位を敢行させよという意見をダニエルが強硬に抑え込んだために、険悪な空気が流れていて出席者が引き上げてしまい、自然と散会にならざるを得なかった。

「本当に王は元にお戻りになるのか、ベルテシャツァル。すでに7年が経とうとしている。諸侯の不満を抑えるのもそろそろ限界が来ているのではないか」

 広間に残されたダニエルの前に、バビロン州の長官シャデラクが近寄ってきてささやくように言った。ダニエルは幼い頃から共に育ってきたこの友人の顔をしばらく見つめた後、

「……一緒に来てくれ。君に見せたいものがある」

 と言って宴の間を後にした。王宮に隣り合った総督府が、ダニエルの居室兼執務室となっていた。別に与えられている屋敷には、ほとんど帰ってはいない。

「神は7つの時が過ぎるまで、と言われたのだ。だから、もう間もなく、王は元通りになる」

 シャデラクに椅子を勧めながら、ダニエルは言った。

「それは何度も聞いたさ。しかし、そうだとしても、それほどまでにこだわる理由が分からないよ、ダニエル。王への忠誠心というわけでもなかろう」

 そう言ってシャデラクは、日頃は口にしない、本当の名を呼んだ。

「その名で呼んだということはつまり、本当のところを話せということだな、シャデラク。いや、ハナンヤ。分かっている。そのつもりで、君を呼んだのだ」

 ダニエルはそう言って、寝台の下から巻物のおさめられた箱を取り出した。

「これは、神が私に告げられたことを記したものだ。王がこのようになられるということも、あらかじめ記してある」

「それはそうなのだろうな。君のことだ、驚きはしないさ」

 言いながらハナンヤと呼ばれたシャデラク長官はダニエルの開いた巻物をのぞき込んだ。羊皮紙に、ダニエルらしい丁寧な文字が並べられている。

「肝心なのは、その先のことなんだ」

「これは……」

 一読したハナンヤは眉をひそめ、顔を上げてダニエルを見つめた。

「ネブカドネツァル王は敬虔さを取り戻し、国を建て直すが、ほどなく死ぬ。しかし、その後に国は乱れ、滅びることになる。その時が、エルサレム再建の始まりとなる。私は神から告げられたその預言の実現のために、譲位を留めているのだ」

 灯火のゆらめきが、ダニエルの顔に深く刻まれたしわを別の生き物であるかのように揺らし、複雑なその心の内をはかり難くしているように思われた。

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