第14話 アサフ

 山頂付近に、石が積み上げられた城壁が見えはじめた。ガテからベテ・シェメシュを経てここに至るまで、三万と言われる軍がぴったりと付き添い、一行の道のりを警護してきた。しかし、このシオンの山のふもとからは、祭司たちを中心とした民が沿道を埋め尽くしている。

 山に差し掛かってすぐに、全軍に休止が命じられた。肥えた子牛が引かれてきて、ほふられる。盛大に血を流しつくした子牛がその場に倒れ伏すと、再び進発の号令がかかった。子牛はすぐに切り分けられ、火にくべられていく。一行が数歩進んだところで再び休止、子牛の捧げ物、ということが繰り返された。

 何度目かの休止が命じられた頃には、火にくべられた一頭目の肉が焼けはじめている。生臭い血の臭いと、肉の焼けるこおばしい香りが一帯を漂った。アサフにとっては、自分の一族が担ってきたその役割のために、幼い頃から慣れ親しんできたものだった。事実、ふもとから山頂付近まで、一定の間隔で並べられた焚火の周りに神妙な面持ちで控えているのは、同じレビ族の男たちだった。

 先頭を歩いている男が振り返り、アサフの目を見て、小さくうなずいた。それを合図に、アサフは手にしたシンバルを続けざまに打ち鳴らした。角笛や太鼓の音がこれに続き、呼応するように、神を賛美する歌声が一斉に響き始める。

 アサフに合図を送った男も、先頭を歩きながら歌い始めた。歴戦の勇者であり、ここにいるすべての者を支配する王であるはずの男の歌声は、その強面の外見からは想像ができないほど透き通った、少年のような甲高い響きを持っていた。アサフは、その旋律の中に自分がいることを、不思議なことと感じていた。


 神の箱をダビデの町に運ぶという命令が発せられたのは、一月前のことだった。レビ部族の一人として、アサフ自身も当然その事業に参加するものだとは思っていたが、それはあくまでも運搬に関わるもので、直接担ぐという役割ではなくとも、その周りに付き従って歩くのだろうと、漠然と考えていた。

 しかし、一族の頭から命じられたのは、幼馴染のヘマンとともに、歌い手として喜びの声を上げよ、ということだった。にわかには想像も出来なかった。

「君は歌うことに長けている。だから当然の人選だと思ったけれど、私は歌とは無縁だ」

 ガテに向かう道すがらで、ヘマンはアサフと合流してきた。ヘマンが属するケハテ族の町々は、アサフのゲルション族の住まいとは南北に隣接している。国の北端に住むアサフたちにとっては、国内に分散しているレビ族の中でもヘマンたちが最も近しい存在になる。

「僕が長けているのかどうかは別として、君が歌とは無縁だというのは当たっているな」

 ヘマンは少々にやにやしながら、ひげに覆われたアサフの顔を見て言った。アサフは無骨な自分とは対照的な、内実共に繊細な友人を見返した。

「いけにえの動物を解体したり、全焼のいけにえのための薪を割ったりというような、力仕事ならばある程度の自信もある。それに、モーセの律法なら他の者に引けを取らず、暗唱している。しかし、楽器など触れたこともないんだぞ」

 どう考えても自分がそんな役割に選ばれる理由が分からない。しかし、一族の長老が決めたことならば従う義務がある。その義務感だけで、随行してきていた。

「いいさ。そう固く考えずに、心のままに歌ってみればいい。それに、君は律法に対して真面目で熱心だ。その点は誰よりも優れていると思う。少なくとも、神の前に賛美の歌を歌うには、それが最も大切なことだと思うよ」

「そうは言ってもだな」

 アサフは、当惑しながらも、内容は別として、この穏やかな友人と一緒に奉仕ができるということにいくばくか心躍るものを感じてはいた。


 焼けた肉が配られ始め、アサフ達を中心に奏でられる歌声が大きくなると、先頭を歩いていた王が、踊り始めた。嬉しくてたまらない、というように、子どものようにはしゃいでいる。

 無理もないな、とアサフは思った。少年の頃に神の預言者サムエルから召し出され、サウル王に仕えたと聞いている。しかし、何故か、乱心した王に疎まれ、命を狙われることになった。今年で確か、38歳になるはずだ。実に20年以上を戦いの中で生き延びてきて、ようやくダビデの町と呼ばれる要害都市を建設した。

 今、その町に神の箱を運び入れる。目の前で踊っている男が、名実共にイスラエルの王として、国の平定事業を完成させる時が来たということだ。

 アサフ自身は、戦を好まないので、誰が王位に就くかなどということにさして関心を持ってはいなかった。しかし、ダビデは神に対する信仰を強く持ち続けている男だった。その点だけは、好意を持つことができる。もし彼が、神の命令を守り続けるならば、この国は祝福を受ける。その点に、期待しよう、と思っていた。

 踊りは徐々に激しさを増し、それに合わせて歌声も大きくなっていく。思わず、アサフのシンバルを打ち鳴らす手に力が入った。同時に、自分でも驚くほどの大きな声で歌っていた。これまでこんなことを経験したことはなかった。隣では、ヘマンがやはり手を打ち鳴らしながら、歌っている。よく見ると、その頬は濡れていた。

 ダビデ王が、ついに上着を脱ぎ捨てた。全身で表現しているその喜びが、アサフの腹の底にまで響いてきた。風景が、にじんで見えた。歌、神、賛美。アサフは自身を包み込んでいるものを、やはり全身で感じていた。(十)

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