余禄 メトシェラとノアとモーセのこと

 聖書の冒頭を飾るのはなんと言ってもモーセ5書で、著者はモーセと言われている。出エジプト記以降はモーセ自身が見聞きしたことだが、創世記だけは、違う。モーセが生まれるずっと昔の物語である。しかも、出エジプト記は創世記を締めくくるヨセフの物語について「ヨセフのことを知らない王が起こった」というところから始まっているということは、それ以前の物語は、一般に知られていることでもない、という事実を示している。

 ここで、単純な疑問が出てくる。モーセは一体どうやって、創世記を書き得たのか、ということである。後代の預言者たちのように、主から直接聞いたことをそのまま記したというなら分かるが、そのような記述にはなっていない。出エジプト記には「主が言われた」という表現がいくつもあるので、そう表現する習慣がなかったというわけではない。

 神の霊感によって書かれた、というのはなにか恍惚状態になって知らないうちに書いていたということではなく、彼等の置かれた背景の中で、彼らの意図と事情をもって執筆したということであって、後に聖書として用いられることになるとは、多くの場合自覚していなかったと言われる。


 ではどうやってモーセは、自身の生まれるよりもはるかに以前の、いや、人間そのものが誕生する以前の物語を書き得たのか。それは恐らく、彼らの民族の間に語り継がれてきた物語を拾い集めたということではないだろうか。

 人類創世の前のことを語り伝えることができるのは、ただ創造主ご自身しかいない。アダムとエバは当初、エデンの園にいて、創造主と親しく交わり、語っていた。そこで、どのようにして宇宙が造られ、自分たちが誕生したのかということについても、直接、聞いたに違いない。

 創造主から聞いたのであろう世界創世の物語は、そうして複数の子孫たちに語られていく中で、あるいは薄れ、あるいは変質していったことだろう。しかし、確かな形で受け継いだはずの人物がアダムの他にもう一人、いる。ノアである。大洪水で人類が彼の家族を除いて滅んだのだから、拡散したかもしれない物語は、ノアの時点で確かに一度、集約されたはずである。それがやがてモーセの時代にまで、伝わったのだろう。


 作品中では、あえてここでメトシェラという人物を描いてみた。

 何を思い、何を語ったのかは一切知られていない。ただ、一覧のように、アダムの生まれた年を0年として、創世記にあるその後の系図の年代を足して行くと、ノアに至るまでの9代の内で、一番最後まで生きており、その没年はノアの生涯の600年目すなわち、大洪水の年と一致しているということが分かる。


     生年   没年

アダム      0 930

セツ     130  1042

エノシュ    235  1140

ケナン     325  1235

マハラルエル  395  1290

エレデ     460  1422

エノク     622 987

メトシェラ   687  1656

レメク     874  1651

ノア     1056  1656


 つまり、アダムから、自らの息子レメクまでの全世代の死を見ており、神と共に歩んだエノクがいなくなったことも見ていたはずの人物ということになる。

 人類の死を見つめ、信仰者の生き様を見つめ、恐らくは大洪水の時に死んだメトシェラというのはどういう人物だったのだろうか。拡散したはずのアダムの物語を拾い集めてノアに受け継いだということにしてみた。あくまでも空想の物語ではあるが、そんな風に語り継がれた物語をやがてモーセがまとめたのだとすれば、創世記はなんとロマンティックな書物ではないだろうか。


 それにしても、モーセは80歳になってエジプトのファラオを相手にイスラエルを導き出し、男だけで30万人という彼らを裁きながら荒野の旅を導き続けた。そんな激務をこなしながら、なおかつ語り伝えられた創世の物語をまとめ上げたそのエネルギーの巨大さには、ただ感服する他ない。

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