第8話 エズラ
宰相の住まいはさすがに壮麗で、王宮を除けばスサでは一番の広さだった。エズラは従者に曳かせた荷車をどこに待たせようかと考えていたが、門をくぐった先にも石畳の通路は広く儲けられていて、屋敷の正面までそのままで進めることが出来そうだった。
色とりどりのタイルが敷き詰められた美しい噴水の横を通り過ぎ、母屋に差し掛かろうとしたとき、声がかかった。
「エズラ殿、モルデカイ様がお待ちでございます。こちらへ」
屋敷に仕えているらしいその男は明らかにペルシア人で、この国を支配しているはずの民族の人間が、捕囚として曳かれてきた者の屋敷で仕えているというのも皮肉な話だった。
屋敷の東側に案内されると、宰相の私的な住まいにつながっていて、モルデカイ自らが立って出迎えてくれている。今や王母として、絶大な権力を持つエステルの、養父だった。
「よう参られた、エズラ殿。最後にお会いしたのはいつのことであったか」
「王の即位の際ですから、もう7年になります」
「そんなになりますか」
目を閉じて嘆息したモルデカイの顔には深いしわが刻まれ、この数年の並々ならぬ苦労を物語っていた。エズラよりもいくつも若かったはずだが、ずいぶん年老いた印象を与えている。娘婿であった先王のクセルクセスは野心にあふれ、絶えず周辺の諸国への外征を繰り返していた。その軍費を捻出するのも宰相の役割だったが、その死後に遺志を引き継ごうとする将軍たちと、先王への不満を持っていた廷臣たちとの間を取り持つことにずいぶん苦労していたのだろうということが想像できた。
エズラの気遣うような目線に気付いたのか、モルデカイは顔を上げ、エズラの後に控えている荷車に近寄った。
「これが例の、律法の書ですか」
「いえ、これは律法ではありません。エレミヤの預言や哀歌を収めたものです。王宮の書記官であったというバルク殿から、お預かりしました」
エズラは、まだ幼い少年の頃、自分に薫陶を与えてくれた老人の、肩に置かれた手を思い出しながら答えた。幼心にも、小さく枯れたその手の熱かったことは強く印象に残っている。エズラ自身の神に対する信仰と様々な知識の基礎は、あの数年間でバルクから与えられたと言っても過言ではない。
エルサレム陥落後、エジプトで捕らえられてバビロンに連行され、自らの持ち物を全て失っても決して手放そうとしなかったのがこれらの巻物だったそうだ。エレミヤの言葉をバルク自身が書きとめたものだが、バルクは死ぬ前に、エズラにこれらを託し、守るようにと命じたのだ。
「神殿が再建されてずいぶんになりますが、エルサレムの民の暮らしがあまり変わっていないという話をよく耳にするのです。エズラ殿はモーセの律法に従うことが重要だと常々教えておられる。単刀直入に申します。エルサレムに行って、そこに住む者たちにもそのことを聞かせていただくわけには、いきますまいか」
エズラは、モルデカイの穏やかだけれども強い意志をたたえた目をまっすぐに見返した。
「律法について尋ねたいから、とお使者の方は仰られていましたが、ご用件はそういうことでしたか」
「騙すようなことになって申し訳ありません。ただ、私が王を差し置いて勝手に派遣の話をするわけにはまいりません。しかし、あなたに相談した上でなければ勝手に王に話を持ち上げることもできないと思ったもので」
エルサレム。エズラは、まだ見ぬ故郷であるその町のことを思った。バビロンで生まれ、長じてこのスサに移ってきた。キュロス王はバビロニアを滅ぼしはしたが、その仕組みから民までほとんどすべてをそのまま引き継いだ。ためにエズラは、この国随一の律法に関する学者としての地位を確保し続けることができた。
「幼いころの私に神のみこころに従うことを教えてくださったバルクは、エジプトで捕虜となった後もエレミヤの預言の書を守り続けて来られました。私たちの民族を選び、モーセをはじめとする預言者たちを通して神が語られたことばは、決して失われてはならない、と。私はあの方の志を何とか引き継いでいきたいと思っているのです。宰相のお申し出は、願ってもないことです」
困難で危険も伴う旅になるだろう。けれども、かつて国が滅びようとしていた頃に神のことばを取り次ぎ、守ろうとした預言者たちの苦難を思えば、何ほどのこともない、とエズラは思った。
「それを聞いて安心いたしました。ツァドクの子孫であられるエズラ殿が行ってくだされば、きっとエルサレムはかつてのような神の都としてよみがえるでしょう。ところで、これらの巻物はエレミヤの預言の書だと言われましたが、モーセの律法の書はいずれにあるのでしょうか」
「この国にはございません。エホヤキン王の時に神殿から持ち去られた書の多くは何とか集めましたが、それらは歴史や預言の書ばかりでした」
「では、律法はすでに失われてしまっていると」
「ご安心ください。エルサレム陥落のことを予測していたバルク殿が、隠されたのです。私がその場所を、お聞きしてあります。かの地に上れば、まずそれを掘り起こすところから始めましょう」
モルデカイは深くうなずき、手を打った。どこからともなく、はじめにエズラを迎えたペルシア人の家令が現れた。
「すぐに王宮にまいりましょう。王の命令書を出していただきます」
できることは何でも協力する。宰相の、そんな決意が伝わって来ていた。
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