第9話 イザヤ
夜が更け、荒野の闇は一層深くなってきた。マヘルは集めてきた柴を二つに折って、火にくべた。炎がかすかに揺れ、火の粉が舞う。ベエル・シェバの外れの荒野だった。
イザヤは岩の上に腰かけて、目を閉じたまま、沈黙していた。炎が揺れる度に、深く刻まれたしわだけが生き物のように動いて見えたが、当の本人は身じろぎ一つしていない。
その預言者としての生涯のほとんどをエルサレムで過ごしてきたこの老人は、弟子たちに自らの預言の言葉の全てを託した後、マヘル一人を伴って、旅に出た。
あまりに動かないので、マヘルは少し心配になって、師であり父である老人の顔をのぞきこもうとした。
「預言者エリヤがかつて、アハブ王から逃れ、この地で神の使いと出会ったのだそうだ。大昔の話だがな」
ふいに話し始めたのでマヘルは軽く驚いたが、やはりイザヤは微動だにしていない。ただ真っ白なひげだけがかすかに揺れ、確かに話しているのだということが分かるくらいだった。
「確かその後、彼は神の山ホレブに向かったとか。我々も、ホレブに向かうのでしょうか」
行き先も目的も何も聞かされていない。
マヘルは、手元にあった柴をさらにもう一本、焚火に放り込みながら言った。
「そういうわけではない。私の働きは終わった。だからエルサレムを離れた。それだけだ」
エルサレム、という言葉に、あるかなきかの、嘆きがのぞいている。
「やはり、エルサレムはこれから……」
「滅びる。アザルヤが、祭司ゼカリヤの死後も王位を継いだ志を忘れなければ、少し変わっていたのかもしれんが」
すでに幾度となく聞いてきたことだった。アザルヤ王の父アマツヤは、イザヤの父アモツの兄弟だった。従兄弟であるイザヤは、アザルヤ即位と同時に預言を始めた。
「アザルヤがウジヤと名を変えたころから、この国は滅びに向かっている。その流れは止められない」
やはり、その言葉には嘆きが含まれている。この偉大な預言者は、80年以上にわたって、歴代の王の近くで神の言葉を語り続けてきた。しかし、その中身は、単に滅びをのみ、物語ってはいなかった。
「やがて現れるダビデの子孫が、国を永遠に導く、とも言ってこられました。ただ厳しい裁きの宣告ばかりではありませんでした」
「あれはウジヤが死んだ年のことだった」
イザヤは微かに顔をあげ、遥か遠くになった昔に心を飛ばしているようだった。
「私は、幻を見た」
「幻、ですか」
マヘルはイザヤが、これまで語ってこなかった重大なことに触れようとしていることを感じて、思わず座り直した。
「神殿だった。しかし、我々が知っているような形ではない。至聖所の幕はなく、祭壇の奥には玉座があった」
「それは……」
神の箱が置かれているはずの、神殿の最も聖なる場所に、玉座。何を意味しているのだろうか。マヘルは身震いをした。
「座しておられる方の周りをセラフィムが飛び交っていた。二つの翼で顔を覆い、さらに二つの翼で体を覆い、残る二つの翼で飛びながら、その御方を賛美していたのだ」
神の御側で仕えるセラフィムが、顔と体を覆い隠さねばならない相手とは。イザヤは目を閉じ、上げていた頭を垂れて、細い声で言った。
「座しておられたのは、天地の全てを創造なさった、我らの神御自身だった。体中の震えが止まらなかった。直視することもかなわぬ栄光の御姿に、私は滅びを覚悟せざるを得なかった」
その場面を、マヘルには想像することもできなかったが、岩のように静まって動かなかったイザヤの声はかすかに震えており、たき火の炎の他は動くものとてない夜の荒野に、聖なる緊張が広がっていくのが分かった。
「私は絶望のあまり、思わず叫び声を上げていた。私は死ななければならない。唇の汚れたもので、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である神をこの目で見てしまったのだから、とな」
自分ならば耐えられまい。叫び声を上げるどころか、その場で息耐えてしまっても不思議ではない、とマヘルは思った。
「ところが、だ。セラフィムが飛んできて、祭壇から燃える炭をひとつつかんで私の唇に押し当てたのだ。てっきり焼き尽くされるのかと思ったが、聞こえてきたのは予想を覆す言葉だった」
イザヤが言葉を切った。マヘルは、自分が息をすることも忘れてしまっていることに気づいた。しばしの沈黙の後、マヘルは尋ねた。
「なんという、言葉だったのですか」
「見よ、この炭火がお前の唇に触れたので、お前は赦された。セラフィムはそう行ったのだ」
イザヤの声は裏返っていた。マヘルが驚いて見ると、その頬には、涙が流れ、炎に照らされて光っていた。
「ウジヤが、道を外した。その子のヨタムも、恐らく神に従おうとはしないだろうと分かっていた。だから神は憤り、イスラエルをただ滅ぼされるのだとだけ思っていた。しかし、その幻を通して私は、神がその怒りの先に、民を赦そうと願っておられることを知らされたのだ」
「……それが、救い主としてやがて来る、ダビデの子孫、という預言に」
「そうだ。マヘル。あの幻を見せられた後、私は神から改めて預言者として遣わされたのだ。ダビデの子孫が来るという約束を伝えるために、な」
イザヤはそれだけを言って、再び岩に戻った。荒野には、たき火が爆ぜて、薪の崩れる音だけが、こだましていた。(十)
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