第7話 バルク

 日が落ちてから砦の上に立った。対岸に無数の篝火が広がっており、運河の水面に立つ波が、その明かりに照らされて大蛇の鱗のように光っている。日中には、砂ぼこりに隠されてはっきりとは見えなかったネブカドネツァルの軍勢が、皮肉なことに暗くなると篝火という形でくっきりとその姿を現わしていた。

「こうして見ると、壮観なものですな」

 いつの間に来たのか、鎧を付け、剣を帯びたザメディ将軍が隣に並んでいた。

「将軍、出撃されるのですか」

 バルクは、将軍が夕刻に見かけた時にはまだ平装でいたことを思い出して言った。

「いや、備えているだけですよ。ああして夜営をしてはいますが、いつ夜襲をかけてくるかもしれませんのでね。バルク殿こそおやすみにならないのですか」

 ザメディ将軍は、彼方に広がる軍勢の方に顔を向けたままで、答えた。バルクはかすかな苦笑を浮かべながら、小さくかぶりをふった。

 

 ネブカドネツァルが軍を発して、エジプトに向かったと知らされたのは、ほんの数日前だった。バビロニアの支配を確実にするために、抵抗勢力であるアモンやモアブを掃討しながら来るだろうから、少なくとも3か月や4か月はかかると思われた。しかし、その予想はあっさりとくつがえされた。

 しかも斥候の知らせに遅れることわずか数日で、エジプトのとば口にあるこのタフパヌヘスに、全軍で殺到してきた。まるで無人の原野を進むかのようだった。モアブやアモンは、小規模と言えど古くから独立を守ってきた民族である。この速さは、彼らの抵抗などものともしないほどに強大な力を持ったということの、証拠に他ならなかった。

 同行してきたユダヤ人たちは皆、色を失って騒ぎ立てている。そんな中で休める由もなかった。


「せっかく我らを頼ってきていただいたのに、あなた方には申し訳なく思っています。逃げ延びさせて差し上げる暇もございませんでした」

「そのようなことは。私たちの方こそ、このような時に足手まといになるのではと心配しております。どうか私たちにはお構いなく、存分に闘われますように」

 本心からの言葉だった。自分たちはここへ来るべきではなかった。エレミヤが再三警告していたにも関わらず、ヨハナンに率いられたユダの残りの民は、エジプトにまで来てしまった。そしてあろうことか、その大預言者を、剣で斬り殺してしまったのだ。彼らはバルクがバビロンと通じており、預言者エレミヤはバルクにそそのかされて語っているとすら断じたのである。


「明日の朝、我々は討って出ます」

「なんと。この砦に拠って闘われないのですか」

ザメディ将軍が如何に歴戦の猛将だと言えども、ここを守っている兵だけで砦を出れば、あの大軍勢の前に押し潰されるだけということは目に見えている。

「我らは、カルケミシュで一度敗れたのです。あの大敗で失ったものを回復するには、まだ時間がかかります。どうやらネブカドネツァルは、その時間を与えてくれるつもりはなさそうだ」

「では将軍は……」

「砦にこもれば、少しは時間が引き伸ばせるかもしれませんが、それだけの事です。しかし我々が外に出て闘えば、砦そのものは無傷で済みます。その時は遠慮なく、バビロンに降られるといい。あなたが、いや、エレミヤ殿がこのエジプトについて語られたことは聞いております。できればその預言はこの剣で覆したかったのですが、叶わないようです。ならばせめて、あなたがただけでも」

 いつの間にか、ザメディ将軍はバルクに向き直って立っていた。驚くほど穏やかな目をしていた。

 エレミヤは、神を信じようとせずエジプトに頼る同胞たちに、神の裁きを宣告した。それは、ネブカドネツァルによってエジプトごと蹂躙されるという内容だった。この砦の下に石を置き、

「この場所に、ネブカドネツァルはその王座を置く」

 と言ったのである。それはエレミヤにとって最後の預言となったが、将軍の耳にも入っていたのか。バルクは老将軍を見つめ返しながら、かけるべき言葉を探しあぐねていた。


 言葉通り、ザメディ将軍は夜明けと共に出撃して行った。そして、運河を渡るなり、凄まじい勢いでネブカドネツァルの軍に食い込み、鮮やかにこれを断ち割って進んで行った。それはまるで船の舳先が水をかき分けるようで、バルクはその様を凝視していたが、やはり長くは続かなかった。湖に注がれた墨が、やがて緩やかに溶けてなくなっていくように、徐々にその姿は見えなくなっていった。

 ほどなく元の陣容を取り戻したネブカドネツァルは、その全軍に渡渉を開始させた。大地が、動き出したかに見えた。

 

 ほぼ時を同じくして、砦のたもとで騒ぎがあり、裏側から、駆け出ていく小さな集団があった。ヨハナンたちが、脱出を図ったのだろう。しかし、到底間に合わない。恐らく、あっという間に捕捉されるだろうということは想像に難くない。

 バルクは同胞が呑み込まれる姿を見るに忍びず、砦の中の、エレミヤの居室に入った。人の気配のしないその内部は、哀しいほどに、静まり返っていた。

 主を失った部屋には、ほとんど荷らしき物は残されていなかったが、木箱が2つだけ、隅に置かれていた。その中に納められているのは、羊皮紙の巻物だった。エレミヤが語った預言の言葉を、バルクが書き写した物である。

「これだけは、守らなければ」

 バルクは、砦への侵入を開始したらしい軍勢のざわめきを聞きながらそこに座り、ついに捕囚となっていく自らの姿を想像しながら、待つことにした。

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