第6話 ヨナ

 ほんの2ヶ月ほど前までは、灼けつく日差しに参っていたものだが、季節が移り、近頃ではほとんど毎日が、雲に閉ざされていた。間もなく訪れる季節には、かなり厳しい寒さがあるとも聞いた。

 ヨナはチグリス川のほとりに立って、鈍色の川面をぼんやりと眺めていた。

「やっぱりここにいたんだね、ヨナ」

 屈託のない、明るい声が、川の流れ以外の音がしない静寂を破った。

「ナアマ、いつも済まないなあ」

 ヨナは振り返って少年を見た。その手にはパンが数枚と、魚の干物が入ったカゴを抱えている。

「今日は、セブルは一緒ではないのかい」

 ヨナは、キラキラ透き通って光る少年の瞳を少々眩しげに見ながら言った。

「セブルは来られないんだ。今日はお父さんが久しぶりに帰ってくるって言ってたから」

「セブルのお父さんは、どこかに行っていたのかい」

「戦争だよ」

 ナアマは言葉短かに答えた。いつも明るいこの少年は、戦に関する話題だけは、寂しげな目をしてあまり多くを話さない。ヨナはナアマと一緒にパンを届けてくれる少女が、久しぶりに、そして無事に戻ってきた父親に、幸せそうに甘えている姿を思い浮かべて、本当に良かったと心から思った。


 彼らがパンを届けてくれる様になったのは、まだ暑い頃だった。町の東にある丘の上に立って、ニネベを睨みつけるようにして立っていたヨナに、恐る恐る話しかけてきた。

「おじさんは、どこから来たの?」

 はじめに口を開いたのは、セブルの方だった。ヨナは、まだ幼い二人の突然の訪問に、不意をつかれた。

「何か用かね」

「おじさんのおかげで、町中のみんなが優しくなったんだ。戦争だって休もうってことになった」

「……どういうことだい」

「ひどいことばっかりしてたのをやめないと、神さまがお怒りになるんだって。おじさんがそう教えてくれたから、悪いことをやめるんだって。そう言ってた」


 ヨナは、自分のことを善意の人だと無邪気に信じているらしい2人に答えることが出来ずに、黙ってしまった。そんな風に町が変わることを、望んでいたわけではない。むしろ、人々が耳を貸さずに神に滅ぼされることを、期待していた。だから、悔い改めを迫るようなことは言わなかった。ただ、あと40日すれば神がニネベを滅ぼされるという、裁きの宣告のみを語った。それなのに、事もあろうにニネベの人々は、荒布をかぶって一斉に悔い改め始めたのだ。


 戦えば敵の死体を山の様に積み上げ、剥いだ皮を城壁から吊るすと噂されていた。神を恐れない、残忍な国の都だった。

 ヨナの愛する故国イスラエルは、このアッシリヤによってやがて滅ぼされる。幾人もの仲間の預言者たちが、警告とともに告げてきた事実だ。ニネベが神の怒りによって滅びてしまえば、侵略はなくなるか、少なくとも遅らせられる。イスラエルの滅びも先延べになる。

 だから、神の警告をニネベに伝えに行くようにと示された時には、気づかないふりをしていた。それが無視しきれないほど明確に、強く迫ってきた時に、ヨナには逃げ出す他に道を見出せなかった。

 しかし、タルシシュに逃れる船から放り出され、海に投げ込まれた結果、ヨナは魚の腹の中に3日の間呑みこまれることになった。皮肉なことに、ニネベの民は、魚の胃液でただれてしまったヨナのその顔を見て、神の裁きに対する恐れを実感したのではないかと思われた。


 ナアマとセブルは、大人たちからパンを預かって、ヨナに届けるために来ていた。それは単に幼子の気まぐれではなく、民がヨナを受け入れているという事実を表していた。

 彼らはヨナの見た目にとらわれることなく、すぐに打ち解けて色々な話を聞きたがった。ヨナは苦笑しながら、自分の国の話や仲間の預言者たちのことを話してやったが、彼らはその一つ一つを、目を輝かせて聞いていた。


 ニネベの悔い改めなど、表面的なものに違いない。すぐに元に戻り、予告した通りに神の裁きに遭うに違いない。そう考えて町を監視していたヨナにとっては、二人の存在は迷惑で仕方がなかった。

 苦々しいヨナの心は、彼らの純朴な瞳に責め立てられていた。そして、そんな中で、神からの語りかけをはっきりと聞いたのだ。

「わたしはこの大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには数多くの家畜と、右も左もわきまえない12万以上の人間がいるではないか」


 本当は分かっていた。かつて、イスラエルの削られた領土をヤロブアム2世という王が取り戻す、と預言した。それは彼が善王だったからではない。神のあわれみに他ならない。その神がニネベに警告を与えるために自分を遣わすのだ。滅ぼすためでなく、救うために違いない。


 神のことばを直接聞いて、ヨナはニネベへの呪詛に囚われていた自身の心の有り様を、はっきりと悔い改めた。そうして初めて、ナアマとセブルの故郷が滅ぼされなかったことを、素直に喜んでやることができた。


「やっぱりもう行っちゃうのかい」

 ナアマが寂しそうに言う。

「ここでの仕事はおわったからね」

 長い付き合いというわけではない。しかしヨナ自身も、不思議なほどに別れ難さを感じていた。帰国のために、再び遡っていくことになるチグリス川の景色をなんとなく、眺めた。来た時にも通ってきたはずなのに、なぜか見覚えがない。雲の切れ目から差し込む光が、その川面に映って星空のように、輝いていた。

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