第5話 サムエルとナタン

 サムエルが倒れた。ラマで預言者たちを教えている最中に、崩れるように椅子から落ちたと言う。

「あの人らしいな」

 知らせを受けた時、ナタンはダビデとともにエンゲディの荒野にいた。ラマはエフライムの山地の向こう側になる。サウル王に追われ、一旦和解したものの、いつまた攻囲を受けるか分からないダビデだった。側を離れることははばかられたが、ダビデ自身がナタンにすぐにかけつけるようにと命じたのだ。何と言っても、ダビデを見出し、次代の王として油を注いだ張本人である。ナタンを預言者として、ダビデの側近に任じたのもサムエルだった。ダビデにすれば、本来なら自身が駆けつけたい思いで一杯だろうが、要害から動けばサウル王に余計な刺激を与えることになるため、せめてナタンを、と思ったのだろう。

 追われてでもいるかのように、急いでエフライムに向かった。山を越える際に振り返ると、原野の向こう側にはアラバの海が光っているのが見えた。

 ナヨテはラマの地方でも小さな村だった。サムエルは祭司エリの死後にラマに戻ってから、ナヨテに預言者たちを集め、教えていた。サウル王に追われたダビデがサムエルを頼って逃げてくるまでは、ナタンもその中の一人だった。

 サムエルはナヨテで、小さな天幕に寝ていた。使者がエンゲディにたどり着き、ナタンがやってくるまで時が経っていたので、もしかしたら、と不安にかられていたのだが、意外に元気で、ナタンが訪ねてきたことを知ると寝台の上に身を起こして迎えてくれた。

「ナタンよ、その巻き物を開いてみよ」

 ナタンの顔を見るなり、サムエルが言った。天幕の隅に積み上げてある羊皮紙を指差している。指示通りにそのうちの一つを取り上げ、紐解いた。 記されてあったのは、女預言者デボラの物語だった。200年近く、昔のことである。

「ヨシュアに率いられてこの地に入って以来、この民は神の命令によって歩んできた。それが行き届かず道をそれると、様々な敵が起こされ、民の叫びに答えた神の器がさばきつかさとしておさめてきた。それらの巻き物には、そのさばきつかさたちの物語を記してある」

「あなたがエリのもとにいた頃から、さまざまなことを書き記しておられたことは知っていましたが、こんなに古いところまでとは」

 ナタンは素直に驚いた。サムエル自身は、幼い頃から祭司エリのところに預けられ、仕えてきたことは知られている。昼夜分かたず奉仕をしながら、なおこのような作業をしていたとは。

「この国は神が直接治めてこられた。私たちがその御言葉を取り次ぎながら。しかし、民は王を求めた。それで、神の命により、私がサウルに油を注いだ。吉凶いずれにせよ、これからこの国は大きく変わる。だから、節目にあって、ここまでの国の歩みを書き留めておくべきだと思ったのだ」

「これはこの国にとって貴重な資料になるのでしょうね」

 ナタンは慎重に、巻き物を閉じた。

「しかしさらに変化があったのだ」

 サムエルはナタンが巻き物を仕舞うのを見てから、再び横になり、目を閉じた。やはりずいぶん弱っている様子だった。

「変化、とは」

 ナタンは体を屈め、師父の口もと近くまで耳を近づけて言った。

「ダビデだよ、ナタン。神はサウルを退けられた。そして次の王としてダビデを立てよと言われた」

 無論そのことはよく分かっている。そのためにこそ、ナタンはサムエルの元を離れたのだ。

「ダビデは他の王とは異なる。彼の子孫から世界中の民を導く者が現れると、神が告げられたのだ」

「それも、知っています、サムエル。ダビデに仕えよと命じられた時に、あなたが言われた。しかし、これらの巻き物とどうつながるのです」

「この国の歩みだけでは足りぬ。ダビデがどこで生まれ、どの様に見出されたのか。彼の系譜を引き継いでいくためにはその起源から、明らかにされなければならない」

 なるほど、少し見えてきた、とナタンは思った。荒野での逃亡生活を共に過ごしている自分も、ダビデの家系までは知らない。王権が安定するためには、ただ力さえあれば良いというものではなく、長く続く中で、侵すべからざる権威をまとっていかなければならない。

「しかし私には、それらを書き記すだけの体力が残されていない。だからナタン、お前が私から聞いたことを記録して欲しいのだ」

 まるで、ナタンがやってくるのを知っていて、心待ちにしていた様に、サムエルは言った。

「お話しください。確かにそれを、私が文字に起こしましょう」

 ナタンは、このために自分がここに送られたのだということを悟った。そして、大急ぎで羊皮紙と墨を用意させ、サムエルが口を開くのを待った。

「ダビデは、モアブ人の女の血を受けている」

「なんと。主の集会に加わってはならないと言われている、あのモアブ人ですか」

 ナタンは思わず反応してしまっていた。そしてこれから語られるであろう神の計画が、すでに自分の想像をはるかに超えたものであることを、確信した。

「ベツレヘムにエリメレクという人物がいた……」

 サムエルは、寝台の上で目を閉じたまま、自身の命を搾り出すように、語り始めた。ナタンは、もはや余計な言葉は挟むまいと思った。集中し、一言一句聞き漏らしてはならない。そう決意した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る