第4話 ヨシュア

 天幕の中で、ヨシュアは長い間身じろぎもせず、考え込んでいた。

「あなたの履いているものを脱げ」

 と主の軍の将を名乗る男は確かに言った。師であり主でもあったモーセが、かつてホレブ山の上で聞いたという神の言葉と同じだった。はっきり覚えている。

 天幕の隅には、モーセとともに整理し、書き上げた巻物を納めた瓶が、いくつも並んでいた。その中に、モーセがミデヤンの荒野のはずれのその場所で、神の召しを受けたという記録も確かにある。なにせ、それを記録として残しておくべきであると強く勧めて、その語る言葉を書き留めたのは他ならぬヨシュア自身だったのだ。書き留めただけでなく、何度も読み返し、そらんじていた。その内容だけが、ヨシュア自身を支えてきた。


 生まれた時から、奴隷だった。物心のつく頃には過酷な労働に駆り出され、少しでも気をゆるめれば容赦なく鞭が飛んできた。日中の灼けるような暑さの中でろくに水を飲むこともできず、毎日何人もが泥の中に倒れこんだ。そして大抵がそのまま命を落とし、谷底に投げ捨てられていった。ひどいことを、とは思ったが、それが理不尽であるとは考えなかった。自分たちの民族すべてが奴隷で、それ以外の選択肢などなかった。

 先祖はカナンという地方から移り住んできたと言い伝えられていたが、もちろんその頃のことを直接知る者はなく、父も、その父も、やはり同様に奴隷として生まれ、生きてきた。

 ところが、そんなあり方を変えようとした男がいた。ミデヤンの荒野から来たという。初めは誰も、取り合わなかった。そんなことができるはずがないとヨシュア自身も思っていたし、奴隷以外の生き方など、想像することもできなかった。

しかし、一本の杖だけを手に、男は何度もファラオと掛け合った。ナイルの水が血になったり、いなごや雹が襲ったり、いくつもの災害が男の言葉通りに訪れ、やがて長子が一斉に死ぬという悲劇が起こるに及んで、ファラオは追い立てるようにして、ヨシュア達全員を去らせた。

 幼なじみのカレブと共に、民族を挙げての逃避行に加わりながら、ヨシュアは、世界は変わりうるのだという事実を、驚愕とともに受け止めていた。


「どう思う、ヨシュア」

「まず、逃げ切れんな。先頭を見ろ。ファラオ自身が追って来ている。相当怒っているぞ、あれは」

 見渡す限り広がる原野を埋め尽くすように、ファラオの軍勢が展開していた。前方には海がある。悪いことに、少し陸が付きだしているところに入り込んだため、正面と左側を海に阻まれ、海沿いに逃げたところで身を隠す場所すらない。

 ろくに武具も持っておらず、追いつかれたら抗いようもないが、せめて民の防壁になろうと、ヨシュアやカレブが若い世代を率いて群れの一番後列に集まっていた。

「絶体絶命だ。やっぱりエジプトを抜け出せるなんて、ただの思い過ごしだったんだ」

 シャファテが吐き捨てると、他の者たちも皆、頭を抱えた。

「何かないのか。何とかできないだろうか、ヨシュア」

 カレブが彼らの様子を見ながら、悔しそうに言った。

「船があれば、幾人かでも逃れさせられるのだが、それ以外には」

 それ以上はヨシュアにも何も思いつかなかった。あの人も海を前にして、絶望しているのだろうか。ミデヤンから来た男のことを、何となく思い出した時だった。地鳴りのような低い音が響いたかと思うと、群れの先頭の方からどよめきが起こり、それはどんどんヨシュア達のいる方に広がってきた。それと共に、全体が前へ前へと進み始める。

「何だ、何が起こったんだ」

 カレブと顔を見合わせて、ヨシュアは先頭に向かって駆けた。その先は、海。まさか、追い詰められて海に飛び込もうとでもしているのか。しかしそんな禍々しい空気ではない。

 ほどなく、海岸に着いた。民は止まらずに進み続けている。その先に、海はなかった。正確に言えば、民が進む先の海が割れて、陸となっているのだ。おびただしい数の同胞たちが、我先にと海底に現れた通路に殺到していた。

 あっけにとられてその異様な光景を見ていると、必死に海底を進んでいく人の群れの中で、泥に足を取られたのか、転んで立ち上がれないでいる老人がいた。

 ヨシュアが駆け寄って抱え上げると、ミデヤンから来た男、モーセだった。悪路とはいえ、歩く事さえままならない老人はしかし、その目に強い光を宿して、たった一人で同胞をその肩に背負わんとしていた。ヨシュアは胸を衝かれ、せめてこの老人の身を支えよう、と思った。


 あれから40年が経った。荒野をさまよいながら、ヨシュアはモーセのことを先生と呼び、身近に仕えてきた。少しでも、その重荷を軽くできれば、と思っていた。民の中で反抗してくる者の前には、自らが盾となって立ちふさがってきた。

 そして数か月前、モーセはヨシュアに使命を託し、天に帰っていった。

 ヨシュアは40年にわたるモーセの使命の最後の仕上げの部分だけを、代理として仮に引き継いだつもりだった。しかし、神はモーセに告げたと同じ言葉を、ヨシュアに与えた。それは、モーセを召し出したように、自分をも召し出すということなのだろうか。

「先生……」

 それ以上は言葉にできず、ヨシュアはモーセの残した杖を握りしめた。夜明けが近づいている気配がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る