第3話 ヨブ
ウツの地の全体が浮かれているように思えた。毎日のように、祝いの客が続いている。そうした客の一人一人に丁寧に礼を述べていたヨブは、ようやく今日訪れた客を送り出し、平原の西に沈みつつある夕陽を眺めながら、神に感謝の祈りをささげていた。
「それで、この子の名はもう決めたのかい、ヨブ」
いつの間にか、生まれたばかりの娘を抱いたエリフが、ヨブのすぐ背後に立っていた。その腕の中で娘はすやすや眠っている。
「エミマ、だ。娘だったらそう名付けようと決めていた」
「エミマ……鳩だな。決めていたとは?」ヨブは年若の友人を見つめて言った。
「大昔の、洪水の物語を覚えているだろう。大洪水が引き始めたことを、オリーブの葉をくわえて帰ってきた鳩がノアに知らせた。私にとってこの子はそういう存在だ」
エリフは、年来の友人であり師でもあったヨブの顔と、自分の腕の中で眠る小さな命とを交互に見た。度重なる事故と自身の重い病のため、すっかり髪の抜け落ちた頭は、実際の年齢よりもヨブを年老いた印象にさせていた。
そのヨブが、大洪水からの回復の象徴のような名をつけたということから、エミマの誕生はよほど大きな慰めとなったのだろうということが分かったし、同時にこの男を襲った試練の厳しさが改めて思い出された。
かつて、10人の子ども達と財産のほぼ全てを矢継ぎ早に失った。しかし、ここ数年で財産はほとんど回復し、子どもも新たに3人が与えられていた。
「全てを失ったというのに、よくぞここまで……」
エリフは自らも共に過ごしてきたその道のりを思い起こして、思わず言葉を詰まらせた。
「全てではないさ。神は私に妻と、エリフという友を残して下さった。だからこそ、あの後も歩んでくることができたのだよ。とりわけ、お前が若い者達を再び集め、カルディア人に略奪されたものを取り戻してきてくれた。それが足がかりとなったのだからな」
「あの時には私も命を落としかけたからな。彼らにだけはけじめをつけておかなければ、私も前には進めなかった。それに、そもそもラクダを用いることを私に教えてくれたのはあなただ。いずれにせよ放っておくわけにはいかなかった」
エリフはかつて、剣を振るうことしか知らなかった自分に、仕事を与え、神のことを教えてくれたヨブに返しきれない負債があるとも感じていた。
「私が病の中でつぶやき、エリファズたちとの論争で出口を見失っていた時にも、だ。あの時、途中から加わったお前の言葉で、私たちは信仰の原点に帰ることができたのだ」
「それもヨブ、元はと言えばあなたが私に教えてくれたことだ」
その時、エリフの腕の中で眠っていた赤ん坊が身じろぎをし、むずかりだした。日が沈み始めているため、少し寒さが出てきたということもあるだろう。ヨブがその様子を見て、目を細めた。
「エリフ……この子はエミマだ。私はこの子にも、息子たちと同様に譲りの地を与えようと思っているのだ。だからエミマをお前に……」
ヨブの言葉を最後まで聞くことなく、エリフはかぶりを振った。
「ヨブ、気持ちはありがたい。しかし、それはできない」
「やはり上の娘のことを思っていてくれているのだろう。しかし、あの子はもう戻っては来ないのだ」
エリフは先の事故で死んだ、ヨブの一番上の娘と結婚することになっていた。7人の息子たちと3人の娘たちが集まって食事をしていたところに大風が吹き、家屋が倒壊して、その場にいた全員の命が失われた。エリフはそれ以来、いくつもの結婚の申し出をすべて断ってきた。
「ヨブ、それは分かっている。あなた自身が再び立ち上がってこうして歩みを始めているのだ。私だけがいつまでもとどまっているわけにはいかないということも、分かっている。彼女に対する思いは変わっていないが、だからと言って悲しみにとらわれて動けなくなっているわけではない。決して意地になっているわけでもない。ただあの時、嵐の中で神の声を私も聞いた。それで色々と考えさせられたことがあるのだ」
「それではお前はどうしようと思っているのだ」
ヨブに問いかけられ、エリフはほほえみながら腕に抱いていたエミマをヨブに返した。
「旅に出ようと思っている」
「旅に、だと」
「人の営みとは何か。神がそれをどう見ておられるのか。深く考えてみたいのだ。そのために、もっとたくさんの人間を見て、話してみたいと思っている」
エリフの目は決して何かをあきらめた者のそれではなく、すべきことを見出した意志の光を宿していた。
「人間ならばこの地にもたくさんいるではないか」
こんな目をした男を引き留めることはできないと分かってはいたが、ヨブは問わずにおられなかった。
「ウツの住民ならば、十分に見てきた。商人たちから聞いたところでは、アラバの海を越えた東の果てに、様々なところから人が集まってくる町があるらしい。神のことを知らない者も、たくさんいるようだ。ひとまず、そこを目指し、彼らと話してみたいのだ。あなたの物語も含めて、私がここで学んだことを伝えたいとも思っている」
ヨブの腕の中で、エミマがかすかにほほ笑んだように見えた。
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