第10話 アクアリウムと貴方と約束②

「もう!やっぱり濡れたじゃないですか!」

「いや〜ほんとにこんなに濡れるなんてね……」

思わず文句を零す私に、先輩は苦笑を漏らしつつそう答える。

「でも凄かったね!ジャンプとかすっごく高くて!見応えがあったっていうかさ!」

「……まあ、そう、ですね」

ショーの最中から頬を真っ赤に染めて、興奮した様子だった先輩だが、今や鑑賞中よりも更に興奮を増した様子で、ショーの感想を捲し立てている。そんな先輩はなんだか、母親に今日あった出来事を楽しそうに話す子供のようで、どこか可愛らしい。苦笑を交えながら返事をすれば、先輩は「だよね!やっぱり最前列で見たのがよかったんだよ!」とどこか自慢げな顔をして言った。

「そうですね。私はもう最前列は懲り懲りですけど」

「ええー!?そう言わずに、お願い!!次も一緒に最前列で見ようよー!!」

そう言いながら、先輩は私の腕に縋り付くようにしてもたれ掛かる。そんな高校生としてはどこか幼稚な子供っぽい行動も、先輩の幼さを感じさせる容姿には妙に似合っていて、私は思わず吹き出してしまった。

「えっなに?なんで急に笑うの?あと僕のお願いに対する答えは!?」

「―っふふ、なんでもっ、なんでもないです!なんでもないですからっ!」

「いやいや!そんなに笑いを堪えてて、なんでもないわけないでしょ!?音澤さん、一体何がそんなに面白いのさー!?」

途端に不満そうな声音を漏らす先輩の姿がこれまた可笑しくてくすりと笑えば、先輩はむうとした表情を浮かべてスタスタと歩き出した。

「ちょっ、先輩!?そんなスタスタと行かないでくださいよ!はぐれちゃいます!」

「煩い!急に僕を見ながら笑うような失礼な後輩は、はぐれて迷子になって困っちゃえばいいんだ!」

「うっ……ごめんなさい。確かに失礼でしたよね……急に笑ったりなんてして……」

流石にやりすぎた、そう思って慌てて謝れば、先輩は目の前でピタリと歩みをとめる。ぼそり、先輩が何か言葉を零したような気がしたが、人が多いこの場所では、上手く聞き取ることが出来なかった。

「……?すみません先輩、何か言いました?」

「ううん、なんでもないよ」

気がつけば、先輩は私の目の前に戻ってきていた。ようやく興奮も冷めてきたのか、普段の落ち着いたような口調が戻ってきている。

「さ、次のとこ見に行こっか!音澤さんはどこに行きたい?」

「え、せ、先輩、その……」

さっき笑ってしまったことはもういいのか、と私が気まずげに言い淀めば、先輩はからからと快活に笑いながら言う。

「やだなぁ、あの程度で怒らないって!音澤さんは少し深刻に考えすぎだよ。まぁ、そんなに申し訳ないって思うなら……そうだな……次もイルカショーを最前列で一緒に見てもらおうか!」

「うっ……それは……少し考えさせてください……」

その程度で先輩の機嫌が直るなら、という気持ちと、だけどやっぱり濡れるのは嫌だな、という気持ちの間で揺れ動き、ついはっきりとしない返事を返してしまう。そんな私の返答を気に留める様子もなく、先輩は、私の手をぎゅっと握ると、あはは、と満面の笑みを浮かべながら言った。

「まあ、ゆっくり考えてくれたらいいよ。今はそれよりも、他の展示を見るほうが大事だしね!」

そう言い切ると、先輩は、私の手を引きながらぱたぱたと走り出す。

「わ!き、急に走るのはやめてください!じゃない、走っちゃだめですって!他の人の迷惑になりますから!」

そんな制止の声さえ笑い飛ばすように、楽しそうな様子で通路を駆けていく先輩。相変わらず子供みたいにはしゃぐ先輩に、困ったものだなぁ、と思いつつも、だけど、先輩が楽しそうにはしゃぐ姿に、どうしようもなく胸がドキリと高鳴ってしまう。

先輩に振り回されたって、困らせれたっていいのだ。先輩の、この楽しそうな笑顔が見られるなら、なんだっていい。

有栖川朝緋という一人の人間が、自分の中でとても大きな存在となりつつある事に、私はこの時、漸く気がついたのだ。




「あ!お土産売り場だ!見ていこうよ!」

時刻は夕方。漸く館内の展示を見終えた私たちは、お土産売り場を訪れていた。

イルカショーの後も、先輩は、興味を惹かれるものを目にしては興奮冷めやらぬといった様子ではしゃぐ、というのを繰り返していて、私は、そんな先輩の様子を微笑ましい気持ちで見守っていた。先輩がそんな調子だから、館内を見て回るのにもかなりの時間を要したのだ。私としても、久しぶりに訪れた水族館は思いのほか楽しめたし、文句はないのだが、先輩が興奮した様子で捲し立てる言葉のひとつひとつに返事をするのは、なかなか大変だったというのが正直な感想だ。先輩はお土産を眺めながら楽しそうにしているが、私にはそんな元気は残されていなかった。

ウロウロと店内を歩き回る先輩の楽しそうな背中をのんびりと追いつつ、私も店内を物色する。キーホルダーからお菓子まで色んなものが置いてある、一般的なお土産売り場だ。せっかくだし私もなにか買おうかと視線を巡らせると、きらり、と輝く綺麗な貝殻のキーホルダーが目に入った。照明の灯りを受けてキラキラと光るそれに、どうしようもなく惹かれる。買うならこれかな、とキーホルダーを手に取って、店内にいるはずの先輩の姿を探せば、先輩は、ぬいぐるみがこんもりと積まれた棚の前で、なにやら真剣にぬいぐるみを選んでいるようだった。

「わ、可愛いぬいぐるみですね」

「わああ!?」

先輩に近寄り声をかけると、先輩は大袈裟に驚いて、私の方を向いた。

「お、お、音澤さん!?びっくりしたぁ……」

「ご、ごめんなさい。そんなに驚くとは思わなくて……先輩、ぬいぐるみを買うんですか?」

先輩は手に持っていたぬいぐるみを一度棚に戻すと、こくり、と頷く。耳をほんのり赤く染めて、どこか恥ずかしそうにしている先輩の姿に首を傾げていると、先輩は、おそるおそる、というふうに私を見上げて、ぽそりと呟いた。

「……わ、笑わない?」

「は?なんでそうなるんですか?」

「高校生にもなってぬいぐるみ……なんて……」

なるほど、ぬいぐるみが好きだというのが恥ずかしいのか。そんなこと気にしなくなって、先輩が欲しいと思うなら買えばいいのに。

それをそのまま先輩に伝えれば、先輩ははにかみつつ、うん、と返事をすると、一度棚に戻していたぬいぐるみをもう一度手に取ると、なにやら真剣な目付きで吟味を始めた。因みに、先輩が手に持っているのは、どちらも同じペンギンのぬいぐるみである。一体何が違うんだろう。そう思って先輩に声をかければ、先輩は目を見開いて叫んだ。

「何言ってるの!ぬいぐるみっていうのはね、ひとつひとつ微妙に顔つきが違うんだ!こうやってしっかり見て、自分のお気に入りの顔つきの子を買わなきゃいけないんだよ!」

そう叫ぶと、先輩は再びぬいぐるみを吟味する作業に戻る。全てのぬいぐるみを隅々まで見て、漸く先輩は「お気に入りの顔つきの子」とやらを見つけたらしい。これにする、とにこにこ笑いながら言った。

「あ、せっかくだしなにかお揃いで買わない?キーホルダーとか!」

そう続けられた言葉に私の胸がドキリ、と高鳴る。お揃い。今までの自分には縁がなかった言葉だ。それは私の胸の奥をほんのりとあたたかくして、堪えきれないとでもいうかのように、私はゆるりと、唇の端を緩ませながら頷いた。

どれがいいかなぁ、と先輩はぐるりと辺りを見渡し、そして、私が握りしめていた貝殻のキーホルダーの存在に気付いたらしい。

「わあ!そのキーホルダーすごく可愛い!お揃いそれにしよっか!僕の分も取ってきて会計してくるね!」

そう言いつつ先輩は、私が握っていたキーホルダーを奪い取ると、さっさとレジまで向かおうとする。

「え!?いやいや先輩、自分のぶんくらいは自分で払いますよ!?」

私は慌てて財布を取り出し、先輩にお金を渡そうとする。しかし先輩はにこにこと楽しそうな笑顔のままこちらを振り返ると、

「気にしないで!こんな時くらい、僕に格好付けさせてよ」

そう言って、ぱちりと可憐にウインクを決めると、今度こそレジへと向かっていく。私はといえば、その場に呆然と佇んだまま、動くことができなかった。

ずるい。狡い。なんであんな格好いいことがさらっと出来るんだろう。これが、歳の差というものなのだろうか。不覚にもドキドキしてしまう。

「本当に……狡いくらい可愛くて、格好いい人だなぁ。先輩は……」

そう呟いて、掌で顔を覆う。はあ、と吐き出された吐息は、どうしようもなく熱くて、まるで発熱しているようだと、そんなことを思った。




「今日はありがとうね。楽しかったよ」

水族館を出て、駅へと向かう帰り道。「ちょっと海に寄っていかない?」という先輩の言葉を受けて、まだほんの少し肌寒い海辺へ足を運んだところで、先輩はぽつりと、そんなことを呟いた。

「いえ、こちらこそ……私も楽しかったですよ、先輩。誘ってくれて、ありがとうございました」

そう返事をすれば、先輩はへらりと笑いながら「そっか」と呟く。そのまま先輩は黙りこみ、穏やかな、決して苦ではない沈黙が私たちを包み込んだ。先輩はぼんやりと海を見つめ、微動だにしない。先輩がそんな様子だから、私もこの場を動くことが出来ず、先輩に倣って、ゆらゆらと揺れる波を見つめることにした。夕焼けの色に染まる海は、なんだか泣けてしまうくらいに綺麗だ。私はほう、と、無意識のうちに感嘆の溜息をついていた。

どれくらいの間そうしていたのだろう。へくち、と横から聞こえてきた可愛らしいくしゃみに、私の意識は現実に引き戻された。十中八九、隣にいる先輩がくしゃみをした音だ。5月といえども海辺は冷える。いつまでもここに居たら風邪をひいてしまう、そう思った私は、先輩に「そろそろ帰りますか?」と声をかけた。

しかし、先輩はちょっと待って、と消えそうな声で言うと、ぎゅっと、私の服の裾を控えめな力で握った。俯いてしまっているせいで先輩の表情を知ることは叶わなかったが、綺麗な黒髪から覗く耳は、真っ赤に染まっていた。この先輩の様子には見覚えがある。つい先日、私に水族館のペアチケットを渡そうとしていた時と同じだ。大方、私になにか渡したい物があるのだろう。先程キーホルダーは受け取ったし、これ以上なにを渡すつもりなのだろうか、と思う部分はあったが。そんなことを考えながら、先輩の動きを待つ。先輩はしばらくの間、私の服の裾を握ったまま固まっていたが、やがて我に返ったように背負っていたリュックの中身をゴソゴソと漁ると、中から小さな箱を取り出し、私にそっと差し出してきた。

先輩がぱっと顔を上げる。真っ赤に染まった頬と真剣な瞳に、私は思わず釘付けになった。ふるふると震える先輩の唇が、すう、と息を吸う様子がスローモーションのように見える。先輩の緊張しきったその様子に、なんだか私にまで緊張が伝播してしまったようで、気がつけば、私の心臓はドキドキと早鐘を打っていた。

「音澤さん、お誕生日おめでとう」

「……え?誕生日?」

緊張しながら待ち、ようやく吐き出された言葉は、そんな一言だった。思わず呆けた様な声を出してしまったが、そうだ。すっかり忘れていたが、今日は私の誕生日だった。

なるほど。今日をデートの日に指定したのは、私の誕生日を祝いたかったからなのか。そう思うと、胸がじんわりと暖かくなるような、そんな心地がした。

「あ……ありがとう、ございます」

ふわふわと夢見心地のような気分のまま、呆けた声で先輩にお礼を言い、差し出されていた箱を受け取る。思えば、家族以外の誰かに誕生日を祝ってもらえたのは初めてだ。嬉しいやら信じられないやらで、なんだか泣けてきてしまった。じわりと滲んだ涙を拭う。しかし、ふと気になることが頭にぽこんと浮かんで、私は首を傾げながら先輩に問うた。

「あれ?でも私、先輩に誕生日の話しましたっけ?」

私の記憶が正しければ、先輩に誕生日を教えたことはなかったはずだ。ふと疑問に思って尋ねれば、先輩は露骨に、肩をぎくりとこわばらせた。

「た、たまたま聞いたんだよ」

「ふうん……そうなんですか」

あまりにも挙動不審なその様子に、流石に問い詰めるのはやめておこうと思い、私は納得したふうを装って返事をする。すると、先輩はほっとしたように息を吐き、私の手元の箱を指さすと、そわそわと落ち着かない様子で言った。

「ねえねえ、早く開けてみてよ」

先輩に急かされ、私はプレゼントを開封すべく小さな箱に巻かれたリボンを解く。包みを剥がして蓋を開ければ、そこにあったのは、きらりと光るシンプルな指輪だった。

「こ……これ……」

「綺麗でしょ?実はね、お揃いで買っちゃったんだ」

てへ、と可愛らしく舌を出しながら、先輩は自身の右手を私の方へ向ける。先輩の右手の薬指には、いつの間にか、私の手の中にあるものと同じデザインの指輪が嵌められていた。こんな風にお揃いのものを用意しているなら、水族館でわざわざお揃いのものを買わなくても良かったんじゃないか、など、言いたいことは沢山あったが、口から出た言葉は、たったひとつ、これだけだった。

「……よく、付き合ってひと月も経たないような相手にお揃いの指輪なんて送ろうと思いましたね」

この時期に貰うには中々に重いプレゼントだと、どこか他人事のように思いながら問うと、先輩は、私の言葉ににこりと微笑みを浮かべると、優しい声音で言った。

「だって君のことを、もう、離したくないから」

そう言いながら、先輩は私の右手を恭しく持ち上げる。そして、薬指にそっと口付けると、縋り付くように右手をぎゅっと握りしめ、切なさを滲ませたようなような声を絞り出した。

「君のことを離したくない。だけどどうすれば君が離れていかないのかが、わかんなくて。だからこうやって、お揃いとか、そんなもので縛り付けるような真似しかできないんだ」

へらり。目の前の先輩が苦々しさを滲ませて笑う。私はというと、先輩の不器用な、だけど一途で途方もなく重い愛情の一端を垣間見たような、そんな心地になって、思わず返事に詰まってしまった。

「……ごめんね、こんな身勝手なプレゼントあげちゃって。嫌だったら返して―」

「……いいえ」

返して。そう言う先輩の声を遮って、私はぶんぶんと首を振る。ぽかんとした、しかし瞳の奥に僅かな期待を滲ませてこちらをじっと見る先輩に、私は必死で言葉をぶつけた。

「嫌じゃ、ないです。確かに今の私にはどうしようもなく重くて、受け止めきれないものだけど、だけど、嫌なんかじゃない!」

いつの間にか私は、先輩の小さな手を、ぎゅっと握り返していた。するり、と先輩の右手薬指に嵌められた指輪を撫でながら、言葉を続ける。

「だから、もう少し待ってくれませんか。私が、先輩のその『私を離したくない』って気持ちに、応えられるようになるまで。私が貴方の愛情に、応えられるようになるまで」

そこで、言葉を切った。口の中がカラカラに乾いてしまって、言葉が出てこない。ごくり、と唾を飲み込んで、すう、と小さく息を吸い込んで、そうしてようやく、言葉の続きを吐き出せそうな気がした。

先輩の不安そうに揺れる瞳を覗き込んで、言う。

「だから、その時がきたら。先輩が私の指に、指輪を嵌めてくれませんか」

そう言えば、先輩は目を見開いてぴたりと動きを止めた。なにかまずかったのかと思い、「だめ、ですか……?」とおそるおそる問いかければ、先輩はぶんぶんと首を振ると、ぎゅっと私に勢いよく抱きついた。

「だ、だめじゃない!だめじゃないよ……!!」

そう言いながら、ぐりぐりと私の胸元に頭を擦り付ける先輩の声音は、嬉しそうに弾んでいた。ぱっと先輩が顔を上げる。その顔には満面の笑みが浮かんでいて、その笑顔を見た私は、やっぱり先輩には笑顔が似合うな、なんて、そんなことを思った。

そんな嬉しそうな様子の先輩は、私にぴとりと密着したまま、小指を差し出してくる。

「そうと決まったら、約束、だよ。音澤さん。指切りしよう」

「……はい。いいですよ」

思わず頬を緩めて、私も先輩の小指に自らの小指を絡めた。

「指切りげんまん、嘘ついたら……つかれたら……僕、死んじゃうかもしれない……」

「ちょ、怖いこと言わないでくださいよ……」

突然物騒なことを言い出した先輩にぎょっとしつつ答えれば、先輩はカラカラと笑いつつ「冗談だよ」と言う。

「それじゃあ気を取り直して……嘘ついたら、針千本のーます!指切った!」

海辺にそんな先輩の声が響くと同時に、絡めていた小指を離す。先輩は、先程まで絡めあっていた小指をそっと摘み、ふわりと嬉しそうに微笑んだ。嬉しさと優しさを混ぜ込んだようなその笑顔は、初めて見るような先輩の表情で、私は思わず先輩に見惚れてしまった。

しかしそんな笑顔を浮かべていたのも一瞬のことで。先輩は、私の視線に気がついたのか、にこりといつも通りの明るい笑顔を浮かべると、指輪を嵌めた右手を差し出して「そろそろ帰ろう!」と、明るい声音で言う。

この手を取れば、今日のデートは終わってしまう。

その事実に一抹の寂しさを覚えながらも、私は、はい、と小さな声で返事をして、差し出された手を握り返す。

非日常とお別れをするように、先ほどまで立っていた海辺に背を向ける。そうして、私たちは日常へと戻るべく、お互いの手を握りしめたまま、駅に向かって駆けていった。

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君のとなりで呼吸(いき)がしたい 一澄けい @moca-snowrose

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