第9話 アクアリウムと貴方と約束①
ざわざわ、と賑やかな駅前を、私は緊張を隠しきれないままに歩いていた。
それもそのはず。だって今日は、いよいよ、先輩とのデート当日なのだ。緊張しないはずがなかった。
悩みに悩んだ末に選んだ薄桃色のワンピースの裾をひらりと靡かせながら、改札を抜けて、先輩が乗った電車が到着するという乗り場へ向かう。ちょうど私の家の最寄り駅が乗り換え地点であったらしく、先輩とは、駅のホームで待ち合わせることとなった。到着してしまえば途端に暇になってしまい、やることがなくなった私は、周りの人間と同じようにぽちぽちとスマホを弄りながら電車の到着を待つ。そうしていると、やがて、電車の到着を知らせる、無機質なアナウンス音声が耳に届いた。スマホから顔を上げる。そうしてしばらく待てば、ごうと音を立てながら電車がホームへと滑り込んできて、やがて緩やかに減速し、停車した。
沢山の人が一気に下車してくる中、私は先輩の姿を探してきょろきょろと視線を彷徨わせる。思ったよりも人が多い祝日のホームで人探しをするのは困難を極めたかのように思えたが、ぽこん、と音を立てて震えたスマホに、私はようやく文明の利器の存在を思い出し、スマホの画面を見る。受信したのは先輩からのメッセージだ。自分の居場所を伝えてきたそのメッセージを頼りに、私は人を掻き分けて移動する。人に揉まれつつ歩いて、ようやくきょろきょろと辺りを見渡している先輩の姿を捉えた。私が「先輩」と声をかければ、先輩も私に気が付いたらしい。嬉しそうな表情を浮かべると、軽やかに私の元へと駆け寄ってきた。
「おはよう、音澤さん」
「……おはよう、ございます」
にこやかに挨拶する先輩の表情が眩しくて、私は思わず目を逸らす。白のブラウスにハイウエストのキュロットスカートというかわいらしさを押し出した装いは、幼めな先輩の容姿によく似合っていて、ずっと見ていたら思わず「かわいい」なんて言葉が口から零れてしまいそうだった。そんなことを口走ってしまったら、恥ずかしさで憤死できそうな気さえしてしまう。そんな思いから、私は先輩を直視することもできず、不自然に視線を逸らしつつ、移動する先輩の隣にひっついていくことしかできなかった。不自然に視線を逸らしたままの私に先輩は怪訝そうな顔をしていたが、やがてそんな私の態度にも慣れたらしい。乗り換えの電車を待ちながらぺらぺらと話しかけてくる先輩の姿は、普段と何一つ変わらないものだった。
他愛無い先輩の言葉に適度に相槌を打ちつつ電車を待つ。数分もしないうちに無機質なアナウンスとともにホームへ滑り込んできた電車に乗り込み、目指すのは水族館だ。乗り換えを2回ほど繰り返し、そしてようやく、目的地である水族館が見えてくる。
「お、音澤さん!あれだよあれ!すごーい!大きいね!」
「ほ、ほんとですね!すごい……」
見えてきた施設の大きさに、思わず年甲斐もなくはしゃいでしまう。そうこうしているうちに、電車はようやく、水族館の最寄り駅へと到着した。
先輩と共に電車を降りる。海辺の道を何分か歩けば、ようやく目的地に到着だ。水族館を目にした先輩はきらきらと目を瞬かせると、ぴょんよんと跳ねながら、興奮冷めやまぬ、といった様子で私の手を引き、大声で話しかけてくる。
「わあー!ほんとおっきい水族館だね!自分で言うのもなんだけど、ここに決めて良かったよ~!あ、そうだ音澤さん!写真撮ろうよ写真!記念にさ!」
「ちょ、ちょっと落ち着いてください!手!手を引っ張らないで!痛い!!」
ぎゃんぎゃんと騒ぐ先輩を宥めようと私も負けじと声を張るが、興奮しきった先輩の耳には届かなかったらしい。私の手をグイグイ引き、インカメラを起動させた。私の姿と先輩自身、それから背後の建物を画面に収めると、パシャリとシャッターを切る。先輩は一度写真を確認し、満足したように頷くと「うん!これでいいや。ありがとう音澤さん!」と嬉しそうにお礼を言った。その言葉に返事をしようとしたが、それを遮るように、先輩が再び口を開く。
「それじゃあ、まずはご飯にしようか」
そう言うと先輩は、またも私の手をグイグイと引っ張りながら、レストランが立ち並ぶ一角へと歩き出した。
「え?水族館に行くんじゃないんですか?」
「だってもうお昼時でしょう?ひとまずご飯を食べてからじゃないと、水族館を楽しむ元気なんてないよ」
そう言い終わるや否や、ぐう、と先輩のお腹が鳴る。その音に、思わず先輩のほうを見ると、先輩は少し恥ずかしそうに身を捩らせていた。
「せ、先輩、そんなにお腹空いてたんですね…だから……」
「そ、そうだよ!もう、分かったなら早く行くよ!僕はもうお腹空いて死にそうなんだから!」
やけくそみたいに叫ぶ先輩の姿が可笑しくて、思わずくすりと笑えば、先輩はムッとした顔でこちらを見る。そんな先輩の様子さえ可愛いと思えてしまうくらいには、私もどうやら、初デートの雰囲気に呑まれつつあるようだった。
海のよく見えるレストランでの食事を終え、私達はようやく、水族館に足を踏み入れた。
受付を抜け、一歩踏み出せばそこは、薄暗くも落ち着いた空間だ。大きな水槽の中で揺らめく光と魚の群れは、どこか神秘的な光景で、私と先輩は思わず、ほう、と息を吐いた。
「……綺麗、だね」
「……はい」
その神秘的で落ち着いた雰囲気に呑まれたのか、先程までは騒がしかった先輩も、落ち着いた声音でそう零す。私と先輩の間に流れる、ゆったりとした時間。なんだか落ち着かない気分になってちらりと先輩のほうを向く。薄暗い室内で見る先輩の横顔は、どこか儚げで美しくて、私は思わず見惚れてしまった。なんというか、やはり、黙っていると美人、という言葉が良く似合う人である。しかし、普段賑やかな先輩がこうも静かだと、それはそれで落ち着かない気分になるものだ。この神秘的な空間に静かに佇む先輩は、まるでこの光景に溶け込んで消えてしまいそうな、そんな印象を与えて、私をどこか不安な気持ちにさせた。思わず手を伸ばして、先輩のちいさな手を握り込む。
「……どうかした?」
「……いえ、別に」
先輩が消えてしまいそうだから。そんな言葉は、とてもじゃないが言えなかった。私が黙ったまま手を握っていると、先輩は何を勘違いしたのか、ぱっと明るい笑顔を浮かべると、先程までとは違う、明るい声音で話し始めた。
「あ!もしかして入口のところで写真撮りたかった?みんな写真撮ってもらってたもんね!それともイルカショーが見たいとか?それなら写真撮ってもらってイルカショーの時間も聞こうか」
―折角だし、たくさん楽しんで帰らないとね!
弾んだ声音でそう言うと、先輩は私の手を引いて入口付近へと逆戻りする。写真もイルカショーも、私じゃなくて先輩が行きたいだけでは?そんな台詞を吐き出そうとして、だけどほんの少し躊躇ったのち、ぐっと飲み込んだ。楽しそうな様子の先輩に水を差すような真似はしたくなかったし、ここで何かを言ってしまえば、先輩がまた、先程までのようになってしまうような気がして、怖かったのだ。
ちらり、と、目の前を歩く先輩の姿を見る。
そこにはもう、溶けて消えてしまいそうだった儚げな先輩の姿はなくて、そのことに、なぜだかどうしようもなく安心している私がいた。
従業員が言うには、イルカショーまではまだもう少し時間があるらしい。しかし、私たちがいる場所からはほんの少し距離があるらしく、次の時間帯で見たいなら少し急いだ方がいいかも、とアドバイスを貰った私たちは、少し歩くペースを早めて、館内を散策していた。ペースを早める、とは言うが、なんせここは水族館だ。目を惹かれる展示は沢山ある。その度に立ち止まってはイルカショー見れなくなっちゃう!と騒ぐことを繰り返している。そんな私たちは今、目の前をよちよちと歩くペンギンの水槽の前で足を止めていた。
「お、音澤さん……見て……すごく可愛い……」
ガラスにべったりと顔を張りつけ、メロメロといった様子でペンギンの群れを眺めている先輩。かれこれ10分はここで足止めをくらっている。というか、イルカショーを見に行こうと行ったのは先輩のほうなのに、こうして足を止める原因を作っているのは、ほぼほぼ有栖川先輩だった。気になる展示があったらそれに見惚れて、全く動かなくなってしまう。水族館に来たからにはきちんと展示を見て回るのが正しい楽しみ方なのだろうが、それにしたって、先輩のその態度にはどこか異常なものがあった。
まるで、こういった場所に来るのが初めてのような、そんな態度なのだ。
「ペンギンって、こんなに可愛い生き物なんだね……」
今だってそうだ。こんな言葉をいたく感動した、とでもいうふうに吐き出す先輩は、今日初めてペンギンという生き物を間近で見た、といったふうに私の目には映った。私でさえ、幼い頃には何度か水族館に連れてきてもらって、ペンギンを見たことはあるのに。先輩のこの態度は、そんな経験さえしたことがない人のもののように思えて仕方なかった。
「……先輩、あの……」
「わあ!見てよ音澤さん!今ペンギンがつるーって滑ってったよ!可愛い〜!!」
そろそろ行きませんか、そう続けようとした声は、先輩の楽しそうな声に圧されて、ぐっと、喉奥へと押し戻された。
正直、こんな様子の先輩を無理やりガラスから引き剥がすのは気が引ける。けれど、イルカショーを見ようと言ったのは先輩である。きっと見れなければ、悲しい思いをするに違いない。
だから私は、心を鬼にするような気持ちで、再び先輩に声をかけた。
「せ、先輩!いい加減にしないとイルカショー見れませんよ!?」
「……はっ!そうだった!イルカショー見に行くんだったね!」
先輩は今度こそ、本来の目的を思い出してくれたらしい。
「ごめんね音澤さん。急ごうか!」
「は、はい!」
にこにこと笑いながら、先輩が早足で順路を進んでいく。どこに居ても先輩に振り回されているな、そんなことを考えながら、私は先輩の楽しそうに揺れる背中を追いかけた。
「わー!すごーい!!」
ようやくたどり着いたイルカショーの会場を見るなり、先輩は驚いたような声を上げる。人で賑わっている会場で座る場所を探しながら歩いていると、先輩が「あそこにしよう!」と指をさしながら言う。先輩の指の先へ視線を向けると、確かに、最前列の端のほうに、二人分のスペースが誂えられたかのように空いていた。
「え!?最前列に座るんですか!?」
「……?何か問題があるの?」
「大アリです!最前列ってめちゃくちゃ濡れるんですよ!?知らないんですか!?」
「そうなの?」
「そうですよ!」
そうなんだ、ぽつりと呟いて、先輩はしばし考えるような素振りをする。さすがに最前列は諦めてくれるだろうか、そんな予想を裏切るように、先輩はぱっと顔を上げると、
「別に濡れてもいいんじゃない?最前列のほうが迫力ありそうだしあそこの席にしようよ!」
キラキラと瞳を光らせながら言う先輩に、う、と言葉を詰まらせる。だめだ。この人のこの瞳に、私は逆らえないのだ。はあ、と溜息をつくと、私は先輩に向き直って、仕方ないですね、と言った。
「え?あそこでいいの?」
「先輩がどうしても最前列がいいって言うなら、付き合いますよ。ノーガードで水被るのはさすがに勘弁願いたいんですけど……って、合羽の貸出してるじゃないですか。私、先輩のぶんもまとめて借りてきますね。先輩は先に座っててください。先に行っておきますけど、終わったあとでビシャビシャになった〜!って文句言わないでくださいね?」
「う、うん……ありがとう」
一息でそう言い切れば、私の勢いに気圧されたのか、戸惑ったような声音で、先輩が礼を述べてきた。こちらが言うことを聞けば途端に大人しくなる先輩の態度にも、もういい加減慣れたものである。
「じゃあ僕は、音澤さんの分までちゃんと席とっとくね」
そう言って、目星をつけていた最前列のスペースへ歩いていく先輩の背中を見送って、私も合羽を借りるべく、スタッフのもとへと向かう。その途中、考えるのはやはり、先程の先輩の言葉だった。
「最前列は濡れる」という、この手のショーでは当たり前とも言えるようなことを知らなかった先輩。あの態度を見るに、やはり、先輩は……
「水族館に来たの、今日が、初めてだったりするのかな。家族とかとも、来たこと、なかったりするんじゃ……」
だとしたら、先輩は、一体どんな幼少期を過ごしてきたのだろう。私に会うまで、どんなふうに、生きてきたんだろう。
恋人同士だけど、私は、先輩のことをなんにも知らないのだ。
いつの間にかスタッフから手渡されていた二人分の合羽を、ぎゅっと胸に抱きしめる。
もっと知りたい。有栖川先輩のことを。
私が知らない、先輩の生きてきた今までの事を。
そんな思いが、私の胸をじんわりと充たしていくのを感じる。だけど今は、そんなことを考えたくなくて、そんな気持ちを振り払うかのように、早足に先輩のもとへと向かっていった。
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