第8.5話 アクアリウムに思いを馳せて
有栖川先輩からデートのお誘いを受けて、2週間ほどが経った。世間は、ゴールデンウィークという名の大型連休に突入しており、テレビの報道も、街を包む空気も、浮ついたものになろうとしている。
そんな連休ムードに世間が浮かされている最中である、今日。5月3日。先輩との初デートは、いよいよ明日に迫っていた。
デートに誘われてから今日までの2週間あまり、その間にも色んなことがあった。
デートに誘われたその日、またも帰宅が遅くなってしまった私を、父はこれでもかというほど怒鳴ったし、連休中に遊びに行くことに対しても、渋い顔を見せた。なんとか説き伏せたものの、この2週間ほど、父は不機嫌な顔と態度を崩さないままだ。家の中の空気は最悪だったが、あくまで気にしていないという態度を貫いた。内心、恐怖とストレスで死にそうではあったが。
さらに、色々と心配をかけたであろう凛々果に、事の顛末と、ふたりで遊びに行くことになったことを伝えれば、彼女は驚いたような顔をした後、ニヤニヤと揶揄うような表情を浮かべ、
「ふーん、良かったじゃん。お土産話楽しみにしてるよ」
これまた楽しんでいるような口調で、言った。絶対楽しんでるでしょ、と不満を口にすれば、凛々果は、そんな事ないよ、と慌てたように弁明し、そして、楽しんでおいで、と。柔らかに微笑みながら言ってくれたのだ。そんな気の抜けるような凛々果とのやり取りは、初デートというものに向けて気を張っていた私を、ほっとさせるものだった。
(っていやいや。そんな過去を回想している場合じゃない)
そうだ。今の私には、ここ2週間ほどの出来事を思い返す前に、やらなければならない―否、決めなければならないことがある。
それは。
「明日、何を着ていけばいいのかしら……」
こういうことである。
デートというものに行くからには、きっとちゃんとお洒落して、着飾って、そんな格好で行かなければならないのだろう。色恋沙汰に疎い私でも、それくらいのことは分かる。というか、明日のデートの相手は、あの有栖川先輩なのだ。愛らしい、見る人を惹き付ける容姿を持つ先輩の隣に、ダサい、とも取られるような格好で立てるはずがなかった。
そこまで考えて、私は、眼前に広げられた数多の服に視線を移す。そこまで変な服は持っていないつもりだが、それでも、きちんと着飾るとなると不安になるものだ。一応、デートに相応しい服装、というものを調べたりもしたのだが、出てくるのは「男ウケ間違いなし!デートに最適なファッション10選!」というような記事ばかりで、先輩は男じゃないしな、と思った私は、そっとブラウザバックするしかなかった。ネットは全く当てにならなかったのである。
しかし、そうなると、頼れるものがなにもないということになってしまう。初デートの服装選びに、これはあまりにも心許ない。いっその事、ネットを信じて男ウケする服装を選んでいったほうがマシなのでは、と思えてくるくらいである。いや、先輩は男ではないんだけれど。可愛い女の子なんだけれど。
ああ、本当にどうすればいいのだ。悩みすぎて知恵熱が出そうである。
どうしようもなくなった私は、もう一度、デート服をネットで調べてみることにした。もしかしたら、先程は調べ方が悪かったのかも。そう思い、今度は入力するキーワードを変えてみる。
そうすれば、今度こそ役に立ちそうなサイトがいくつかヒットした。シーン別コーデ集なんてものもある。そのページを開き、水族館の項目を見れば、自分の手持ちの服でもどうにかなりそうなコーディネートが見つかった。ほっとしつつ、選んだ服に入念にアイロンをかけ、丁寧にハンガーに吊るす。
「はぁ……」
よかった。これで準備は万端だ。鞄の中身をもう一度確認して、それから私はばたりとベットに倒れ込んだ。馬鹿でかい安堵の溜息をつきながら、である。
ベットに寝転がったまま、ハンガーに吊るされた洋服をじっと見る。必死で選んだその服装を見ていると、明日がいよいよデート当日であるという事実が、徐々に現実味を帯びてきたような心地になった。ドキドキ、と心臓が高鳴る。緊張で、眠気なんてどこかにすっ飛んでしまって。心臓の音も煩くって。とてもじゃないが、寝られる気がしない。こんな緊張と興奮を抱えたまま、世の恋人たちはデートの日を迎えるのか、と考えると、尊敬の念さえ抱けるような気がしてくる。私は、こんな熱を抱えたままでは、とてもじゃないけれど、寝られる気がしなかった。
それでも、寝ない訳にはいかないのだ。ぎゅ、と目をきつく閉じ、きゅっと身体を丸め、無理やりにでも睡眠をとる体勢を作って、寝ろ、眠気よ来い、と念じる。そうすれば、ドキドキと煩かった心臓の音も、緊張も、どこか遠くへいったような心地がして、その代わりに、心地よい眠気が私を包み込んだ。
ウトウトと微睡む私の脳裏には、嬉しそうな表情を浮かべる、先輩の姿が映っていて。明日はきっと、そんな先輩の姿を、沢山見られるのだろう。そう思うだけで、頬がゆるりと緩むのを感じた。
(―明日、楽しみだな)
そんなことを考えながら、私はゆっくりと眠りに落ちていく。デート前日の夜は、そうして、穏やかに過ぎていった。
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