第8話 特別は君だけに

「音澤さん!」


先輩のバイト先に行った翌日。学校に向かうと中の通学路で私の姿を見かけたらしい先輩は、背後から大きな声で、私の名を呼んだ。

その声に、私はピタリと歩みを止める。しかし、先輩に背を向けたまま「何ですか?」と冷たい声を出せば、背後で先輩が狼狽えたような気配がした。

「え、えっと…あの…昨日はどうしたの?なんだか君、すごく泣きそうな顔をしていたから気になっちゃって」

しどろもどろ、といったふうに答える先輩の態度は、聞いているとこちらが申し訳なくなるほどの悲痛さを帯びていて、しかし昨日の悲しさや不快感を上手く消化出来ないままだった私は、その苛立ちを乗せたままの声音で、返事をした。

「……先輩には関係ありません。本当に、急用を思い出しただけなので」

「……っ、じゃあ、」

「すみません。今日は先輩のぶんのお昼、持ってきてないんです。今日は私いそがしいので、教室で食べるつもりなんです」

今日もお昼、一緒に食べてくれる?

そう続けるつもりだったのであろう先輩の言葉を遮って、一息でそう言えば、先輩は「そっか」と悲しみを堪えたようなちいさな声で、返事をした。

「じゃあ私はこれで」

そう短く吐き捨てて、早足で学校へと向かう。

先輩は、その場に突っ立ったままだったのだろうか。私の背後にいたはずの先輩の足音が、聞こえることはなかった。




「あれ?今日は生徒会長とご飯しないの?」


昼休み。珍しく、どころか、入学してから初めて自分の席で弁当箱を広げる私の姿を見て、凛々果は不思議そうな声でそう言った。

「ええ。ちょっと色々あって」

「ふうん。喧嘩でもしたの?」

その声に、ぴたりと思わず動きを止めてしまう。凛々果はそんな私の様子を見ると「やっぱり」と言いながら、私の席へと自分の机をくっつけた。

「なーんか朝から様子がおかしいんだもん。夜鈴ちゃん。ずっと上の空だし、怒ってるような悲しんでるような変な顔してるし。極めつけに、なんか泣き腫らしたような顔してるんだもん」

ぎくり、と身体を強ばらせた。確かに昨日、悲しいやら悔しいやらで、自室でひとり涙を流していたが。今朝顔を合わせたはずの父は何も言わなかったので、まさかそんなに酷い顔をしているとは思わなかったのだ。

「どうしたの。生徒会長とどんな喧嘩したの」

「……喧嘩、じゃないの。一方的に私が怒っているだけ、というか。それで先輩に、嫌な態度とっちゃって……」

「なに、もしかして嫉妬してるの?」

その言葉を聞いて、すとん、と腑に落ちたような心地がした。

嫉妬。そんな言葉、私には無縁だと思っていたのに。だけどその言葉が、今の自分の感情を表すのに驚くほどしっくりきてしまって、私は何も言えなくなる。私が黙ったままでいると、凛々果はなにがおかしかったのか、くすりと小さく笑みをこぼすと、まるで私を揶揄うかのような声音で言葉を吐いた。

「へぇ、図星なんだ?」

「……」

なにも言い返せないままの私を、凛々果はまんまるの瞳でじっと見つめる。まるで、私の言葉を待っているようなその視線に思わず目を逸らしてしまう。ほんの少しだけ、気まずい空気が流れたような気がしたが、凛々果は特に気にする様子もなく、自分のぶんのお弁当を口に含みつつ、私に尋ねた。

「それで?夜鈴ちゃんはどうしたいの?」

「どうしたい、とは」

「生徒会長とこのままでいいの、ってことだよ。嫌な態度とって、それを謝らないままでいいの?先輩に対して、モヤモヤしたまんまでいいの?」

「……それは、」

嫌だ。そんなの、嫌だ。

このままでいいわけがない。あんなに悲しそうな、苦しそうな声で私を呼んだ先輩を、放っておく事なんて、もう、今の私には出来ないのだ。

それはきっと、先輩のことを大切にしたいと思っているから。

先輩を、悲しませるようなことはしたくないから。

冬樹さんから先輩の話を聞いた時にも思ったじゃないか。先輩を、悲しませるようなことは出来ないんだと。

それなのに、今の私は、先輩のことをめいいっぱい傷つけている。

このままで、いいわけがない。

いいわけがないのだ。


「……嫌、だよ。このままなんて。私、先輩と、仲直り、したいよ」

絞り出すような声で言う。昼休みの教室の喧騒に掻き消されてしまいそうな程、ちいさな声で放たれたその言葉は、しかし、目の前の友人の耳にはしっかり届いたらしい。凛々果は弁当を食べる手を止めると、にこりと微笑んで、言った。

「それなら、勇気を出さなきゃだね。夜鈴ちゃん」

頑張って。そう言ってくれる凛々果の優しさにうっかり泣きそうになりながらも、私は再びちいさな声で、うん、とひとつ、返事をした。




放課後。

私は、先輩のバイト先である喫茶ノースポールを訪れていた。

別に、先輩から逃げてきたわけではない。私に対して『ありすの嬉しそうな表情を引き出してくれてありがとう』と、そう言ってきた冬樹さんの真意を、もう一度確かめたくなったのだ。

そう意気込んで来たものの、昨日の今日でしれっと入店するのは心理的ハードルが高く、私は思わず扉の前で怖気付いてしまう。しかし、いつまでもここで立ち止まっているわけにもいかない。私は意を決して、ドアノブを捻って店内へと足を進めた。

カラン、というベルの音が響き、それに続けて、いらっしゃいませ、という冬樹さんの声が私を出迎える。そしてこちらに視線を向けて、その表情が一瞬固まったのを、私は見逃さなかった。しかし、そんな表情を浮かべたのは一瞬のことで。冬樹さんは再び笑顔を浮かべると、私をカウンター席へと案内する。私が腰掛けたのを見届けて、冬樹さんは優しい声で私に言った。

「よかった、来てくれて。昨日あんなふうに出ていってしまったから、もう来てくれなかったらどうしようって、ありすとも話していたんだ」

「そんな……そんなわけないじゃないですか。私、この喫茶店、気に入ったんです。冬樹さんのコーヒーやケーキの優しい味、とても好きなんですよ」

冬樹は「そうか、ありがとう」とはにかんだように微笑んだ。

「じゃあ、今日もコーヒーでいいか?ケーキも昨日と同じものを用意しよう」

その言葉に、私はこくりと頷いて、そして「あの」と冬樹さんに声をかけた。

「なんだ?」

優しい声とともに冬樹さんが振り向く。私はごくり、と生唾を飲み込むと、意を決して、言葉を吐き出した。

「昨日のことで、少し、お話したいことがあるんです」

そう言えば、冬樹さんは目をぱちくりと目を瞬かせると、

「……とりあえず、コーヒーを出そうか。話はそれからだ」

くるりと背を向け、厨房へと向かっていった。



「お待たせ」

ことり、と目の前にコーヒーとパウンドケーキが置かれる。

「で?話ってなんだ?」

冬樹さんは私と目線を合わせて、そしてやはり泣きそうなほど優しい声音で、私にそう尋ねた。

「……冬樹さん、昨日、言ってたでしょう?有栖川先輩が心の底から楽しそうにしてる所を見たことがない、って。だけど昨日、貴方や夏花先輩の隣で笑う先輩は、気の抜けたような笑顔を浮かべていました。あの笑顔を見ておいて、貴方はそれでも、有栖川先輩が楽しそうにしてる所を見たことがないって、そう言えるんですか?」

そこで一度、言葉を切った。一呼吸おいて、言葉の続きを吐き出す。

「……本当に、先輩は、私の隣で居る時に、心の底から楽しそうな顔を、してるんですか?」

そこまで言って、私は思わず俯いた。冬樹さんからの返事を聞くのが怖くて、膝の上に置いた手を、思わずぎゅっと握りしめてしまう。

「……ああ、してる。してるよ、夜鈴ちゃん。悔しいくらいにな」

その声に、勢いよく顔を上げる。冬樹さんは、なんだか悲しみを堪えているようなそんな表情を浮かべて、しかし視線は全く逸らさずに、私を真っ直ぐに見つめていた。

「確かにありすはさ、俺たちの前でも気が抜けたような顔、してる時あるよ。でも、やっぱり何かが違うんだ。俺たちと一緒に居るありすの表情と、夜鈴ちゃんの話をしていた時のありすの表情。どちらが本当に楽しそうかって言われたら、夜鈴ちゃんの話をしていた時のありすの方が、余程楽しそうなんだよ」

「……えっ、本当、に?本当に、そうなんですか?」

思わず声に出して聞いてしまう。そんな私の声に、冬樹さんは律儀にひとつ頷き返して、言葉を続けた。

「絶対、とは言いきれない。あくまでこれは俺がそう思っているだけの話だ。ありすが実際どう思っているかなんて、本人を問い詰めなきゃ分かんないからさ。だけど俺の目には、夜鈴ちゃんの話をするありすが、昨日、ここに夜鈴ちゃんを連れてきた時のありすの姿が、今までで一番、嬉しそうな顔をしているように見えたんだよ」

それにな、と。そこで冬樹さんは言葉を切る。その時だ。

バタン!と大きな音を立てて、店のドアが開け放たれる。その音に驚いてドアの方を向けば、そこには、荒い息を吐きながらドアに寄り掛かる、有栖川先輩の姿があった。いつも綺麗に整えられている長い髪は、汗を含んでぐちゃぐちゃになっている。制服の上着さえ脱いで小脇に抱え、さらにブレザーの袖を捲り上げたその姿は、どう見ても、誰かを必死で探してここに辿り着いた、というふうに、私の目には映った。

そして、先輩がそうまでして探していた相手に心当たりが全くないと言い切れるほど、私は鈍感じゃないつもりだ。

そんな先輩の姿を呆然と見つめていた私の肩にそっと、手が置かれる。私の背を押すように置かれたその手は、やはり冬樹さんのもので、その感触に驚いて彼のほうを見れば、冬樹さんはやっぱり、悲しいような寂しいような、そんな表情を浮かべて、言った。


「ありすがこんなに必死になって探すような相手が、ありすにとって、大切じゃないわけないじゃないか」





「……有栖川、先輩」

「んー?なあに、音澤さん」

有栖川先輩が喫茶店を訪れてから、一時間ほど経った頃。私と先輩はお互い家に帰るべく、駅へと続く道を歩いていた。人が多くもなく、かといって少ないこともないこの道は、歩きながら会話をするのにうってつけである。私は隣を歩く先輩をじっと見つめると、ごくり、と、緊張でからからに乾いた喉を潤すように生唾を飲み込むと、言葉を吐いた。

「昨日は、本当にすみませんでした。急に帰ったりなんかして……」

そんな私の謝罪の言葉に、先輩はおおきな瞳をぱちくりと瞬かせると、へらりと笑って返事をした。

「あ、ああー!なんだそんなこと!いいよ別に!急に誘ったのは僕のほうだしね!」

それよりも、と先輩は言葉を続ける。

「君が泣きそうな顔をしてたことの方が、僕には余程堪えたよ。心配だったから今朝も声かけたんだけど、こっち向いてくれないし。昼休みはお弁当一緒に食べてくれないし。放課後教室に行ってみたら、花ヶ前さんにはもう帰った、って言われるし……」

「それは……。本当に、すみませんでした」

「あはは、もういいって。今こうやって話せてるし。君も、泣きそうな顔してないしね」

そこまで言うと、先輩はふっと切なげに眉を寄せて、しかし口元には依然として笑みを浮かべたまま、言った。

「僕ね、君が悲しむようなことはしたくないんだよ。君のこと、泣かせるようなことはしたくない。だから昨日、君を泣かせちゃった、って思って、ものすごく焦った。泣かせたくない人を、僕が、泣かせてしまったかもしれないって……」

先輩の声音は、ひどく沈んでいた。私が泣くことで、どうしてそんなに先輩が悲しむ必要があるのだろう。不思議に思った私の思考を読んだかのようなタイミングで、先輩が言葉の続きを吐き出す。

「だって。好きな人には、笑っていてほしいだろう?当たり前のことさ」

「すきな、ひと」

「そうだよ。僕にとって君は、大好きな人で、だからこそ、大切にしたい人なんだから」

そんなことを恥ずかしがる様子もなくさらりと言ってのける先輩に、ぼんっ、と頬が赤く染まったのを感じる。

「ばっ……!な、なに、恥ずかしいこと言ってくれてるんですか……!」

「あっはは、音澤さん照れてる?かわいいなぁ」

「からかわないでください!」

そう、ぽこぽこと怒りながら、先輩の言葉を胸の中で反芻する。

好きな人で、大切にしたい人。そう言った時の先輩の声は真剣そのもので。あんな声を聞いてしまえば、きっと冬樹さんの言ってたことは本当だったんだ、と認めざるを得なかった。あんなふうに必死になって私を探してくれる人が。私のことが好きなのだと、あんなにも真剣に、いとおしさを詰め込んだかのような甘い声で言う人が。私と一緒に過ごす時間を、いっとう大切にしていない筈がないと、思わざるを得なかった。

それに気付いてしまえば、きっともう、大丈夫だ。冬樹さんや夏花先輩の前で、蕩けるように安心した表情を浮かべているのを目の当たりにしたとして、今度はもう、泣きそうになりながら逃げることはないだろう。そんな気がした。

「……あ」

そんなやり取りをしながら歩いていれば、駅までの道のりはあっという間だった。先輩ともここでお別れだ。しかし先輩は、じゃあまた、と改札に向かおうとした私の制服の袖口を弱い力で掴むと、まって、とこれまた弱々しい声でささやいた。

「なんです?」

くるりと振り向いて問い掛ける。私の制服を掴んだままの先輩は、先程、恥ずかしげもなく好きだのなんだの言っていたのが嘘ではないかと思ってしまうほど、顔を真っ赤に染めて、私をじっと見つめていた。

「せ、先輩!?一体どうしたんですか!?」

「え、えっと……あの……」

うろうろ。うろうろ。視線を彷徨わせる先輩だったが、やがて意を決したかのように真剣な面持ちになると、今度は私の両手をがっちりと掴んで、言った。

「音澤さん!!」

「ひゃ、ひゃい!?」

「5月4日ってなにか予定ある!?」

その言葉に、私は目をぱちくりとさせる。

5月4日。たしかなにも予定は入っていなかった筈だ。いや、なにかあったような気もしなくはないが、今思い出せないということは、何もないのだろう。こくり、と頷けば、先輩は嬉しそうな顔をすると、がっちりと握りしめていた私の手を離し、鞄の中をごそごそと漁り始めた。

なんだなんだ、と先輩をじっと見つめる。やがて先輩は、目的のものを見つけたらしい。ぱぁ、と表情を明るくすると、鞄の中から手を引っこ抜き、手に握っていたものを勢いよく私の眼前に差し出した。

差し出されたものをまじまじと見る。先輩にめいいっぱいの力で握られ、しわしわになってしまっているそれは、水族館のペアチケットだった。

「先輩、これ……」

差し出されたペアチケット。これはつまり、そういうことでいいのだろうか。

確信が持てず、チケットを受け取るのを躊躇していれば、先輩がようやく口を開いた。


「……音澤さん。僕と、デートしてくれませんか」


ドキリ。なんとなく察してはいたが、改めて言葉にされて、思わず心臓が高鳴った。

それは相変わらず、ムードもへったくれもない誘い方で。だけどその、なりふり構わない感じが、いかにも先輩らしくて好ましい。

だから私は、気が付けばこう、返事をしていた。


「―はい、喜んで」


その返事に、先輩は、幸せでいっぱいだとでも言いたげな、甘くて蕩けるような表情を浮かべる。

その表情は本当に、どうしようもなく綺麗で。そして、どうしようもなく可愛く見えて。

誰にも見せたくない、私だけが独占したい。そんな表情だと思った。

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