第7話 喫茶・ノースポールにて②

静かだった店内に突然響いた大声。その声の主に対し、冬樹さんは「こら夏花!大声を出すな!!」と言いながら、私の横をすり抜けていく。ん?夏花?聞き覚えのある名前だ。そう思いながら声のしたほうへ振り向くと、そこには。

「な、夏花先輩!?」

制服ではなく、私服に着替えた夏花先輩が、なにやら大量の荷物を腕に提げて、立っていた。

「あ。夜鈴ちゃんだ!昨日ぶり!あと、生徒会入ってくれるんだって?ありすから聞いたよ。生徒会でもよろしくね」

「い、いえ!こちらこそ!!」

夏花先輩は、そう言いながらぺこりと頭を下げる。私が生徒会へ入る旨を記した書類を提出したのは今朝の事なのだが、もう、メンバーの耳には入っているらしい。夏花先輩が生徒会について言及したことに驚きつつ、私もぺこりと頭を下げた。そして、頭を上げつつ、夏花先輩と冬樹さんを交互に見ると、疑問を口にする。

「夏花先輩こそ、どうしてここに?」

そう問いかければ、目の前で冬樹さんと夏花さんは顔を見合わせ、しかしすぐにこちらへと向き直ると、口を開く。

「冬樹とわたしは、幼馴染なんだよ〜」

「幼馴染っていうか、まぁ、夏花が小さい頃からの知り合いってところだな。色々あってこの近くに越してきたら懐かれたというか……」

「む。そんな犬か何かみたいな言い方やめてよ〜!普通に仲良くなったって言って!!」

突然目の前で繰り広げられるテンポの良い会話にぽかんとしていれば、冬樹さんと夏花先輩はほぼ同時に、ハッとしたような顔をして、会話を切り上げる。冬樹さんはゴホン、と気まずげに咳払いを一つすると、今度は私に向かって口を開いた。

「す、すまない。ついいつもの感覚で会話をしてしまった……」

「ごめんね……」

続けて夏花先輩も、済まなさそうな声音で言う。私はぶんぶんと首を振り、慌てて言った。

「い、いえ!全然気にしてないです!お二人共、すごく仲がいいんですね」

その言葉に、夏花先輩が「そ、そうかな?」と嬉しそうに顔を赤らめた。そしてチラチラと冬樹さんの方を見る。冬樹さんの方は、そんな夏花先輩の視線を気にすることも無く「ありがとう。そう言ってもらえてよかったよ」と爽やかに微笑んだ。そんな冬樹さんの態度に、夏花先輩はむっとしたような顔をする。そして、何故か私まで睨まれた。一体どうしたというのだろう。夏花先輩の不思議な行動に内心首を傾げていると、冬樹さんが不意に口を開いた。

「そういや夏花。今日は何しに来たんだ?」

その冬樹さんの問いかけに夏花先輩は「あ!そうだった!すっかり忘れてたよ〜」と言うと、両手に提げていた大量の荷物を、テーブルの空いたスペースに置いた。ドン、と、いかにも重そうな音がする。ちらりと見えた袋の中には大量のタッパーが詰め込まれているように見えた。夏花先輩は机の上に置かれた袋を指さして、言う。

「これ、いつものやつ。おかずのおすそ分けだよ。私も手伝ったんだ。良かったらありすと分けて持って帰って」

「お!いつもありがとうな!これ本当に助かるんだよ〜」

そう言いながら、冬樹さんは満面の笑みを浮かべ、手が空いて暇そうにしていた有栖川先輩を呼んだ。先輩も、夏花先輩が持ってきたおかずの数々を見ると、ぱっと顔を輝かせる。そして嬉しそうな顔をしながら、何を持ち帰るか吟味し始めた。

その光景に、私はなんだかモヤモヤしたものを感じた私は、目の前の光景を視界に入れないよう、そっと、息を潜めて俯く。

なんでだろう。目の前の光景が、なんだかとっても嫌なものだと思った。夏花先輩も作るのを手伝ったと言う、目の前のおかずの数々。それを嬉しそうに見て、嬉しそうに持ち帰ろうとしている先輩が、気に食わない。嫌だ。見たくない。

だって、私だけだと思っていたのだ。

先輩に食べるものを与えて、それに対して嬉しそうな表情を浮かべる。そんな先輩を見られるのは、私だけだと、そう思っていたのだ。

それがただの自惚れだったことに、私はこの時ようやく気がついた。

私がお弁当を用意するのと同じように、先輩に食べ物を与える人は居るということ。私じゃなくたって、先輩はあんなに幸せそうな表情で笑うこと。

それよりなにより、悔しかった。

私があげているお弁当は、私の手作りでもなんでもない。私ではない人が、私のぶんを作るついでに先輩のものを作ってくれているのだ。だから先輩にあげる料理に、私が作ったものなんて、何一つ入っていない。

だけど、今、先輩の目の前に並べられているおかずはどうだ。夏花先輩が手伝ったというそれ。夏花先輩が手伝ったというそのおかずが、先輩の口に入るというたったそれだけのことが、なぜだかとても、悔しかった。

私は先輩のために料理なんてした事ないのに、夏花先輩は冬樹さんと、それから先輩のためを思って、きっと料理をしていたのだ。

悔しい。かなしい。不快感で息が苦しくなりそうだった。

もう一度、ちらりと有栖川先輩の顔を見る。そこには、タッパーを抱えて幸せそうに笑う先輩がいた。その表情は、私と一緒に居る時に見られる、気の抜けた表情と酷似していて、私はその表情を見て、ああ、と気が抜けたような心地がした。


ああ、なんだ。

先輩、私の前じゃなくたって、そんな顔で笑うんじゃないですか。


ぐっ、と唇を噛み締めた。そうしないと、理由わけも分からない涙が零れてしまいそうだったから。涙が零れないように。行き場のない不快感に耐えるように、手を痛いくらいに握りしめて、立ち上がる。

ガタン、と思いのほか大きな音が立った。冬樹さんと夏花先輩、それから有栖川先輩の視線が私に突き刺さる。

その視線と目を合わさないよう、私は俯いたまま、声を振るわせないよう細心の注意を払って、言った。

「ごめんなさい。用事を思い出したので帰ります」

そしてそのまま、誰とも目を合わさないよう先輩たちの横をすり抜け、ドアを開ける。

店の外へ出る直前、「待ってよ音澤さん!どうしたの!?」という、慌てたような先輩の声を聞いたような気がしたけれど、私はその声に答えることなく、喫茶店をあとにした。




「夜鈴」

堅い印象を与える渋い男性の声が私を呼び止めたのは、喫茶店を出て、家に帰ろうとしばらく歩いた時だった。その声に、私はびくりと身体を震わせる。だってその声は、私がこの世でいちばん恐れていて、そして、絶対に逆らえない人の声だったからだ。おそるおそる振り向けば、そこにはやはり、私の想像通りの人物が立っていた。

「お、お父様……」

父は、いつも通りの仏頂面を浮かべたまま、私のほうへと近づくと、ぐっ、と私の手を痛いくらいの力で引っ張ると、そのまま近くに停めてある黒塗りの車へと引きずっていく。痛い、と。そう言うことすらできなかった。恐怖で呼吸が荒くなる。父は私を車の後部座席へ押し込めると、自分は助手席に乗り込み、運転手に「行け」と一声かけて車を発進させた。

車内は、痛いくらいの沈黙で満ちている。それを破ったのは、父の険しい声だった。

「夜鈴。お前、なんでこんな時間にこんな街中にいるんだ」

「……」

その問いに、私は何も言わなかった。否、何も言えなかった。何を言っても怒られるから。それが分かっているから、恐怖でなにも言えなかったのだ。どんなに頑張っても、どうにか言葉を出そうとしても、唇からは声にならない空気が漏れるだけだった。そんな私を見た父が、苛立ったように舌打ちをするその音に、びくりと震えそうになる身体を必死で抑えて、私は膝の上に置いた手を、痛いくらいに握り締めた。

はぁ、と。今度は父のため息が聞こえてきた。ちらりと父の座る助手席を見る。背筋をしゃんと伸ばし、最早暴力とも違わない威圧感を辺りに撒き散らしながら、こちらをちらりとも見ずに、父は言葉を続けた。

「学校が終わればすぐに帰宅。そこから勉強をしろといつも言っているだろう。お前に寄り道をしている暇はない。遊ぶ暇もない。勉強をして、知識をつけろ。でなければ、いずれお前は落ちこぼれるぞ」

「……はい。申し訳ございません、お父様」

何回目とも分からない言葉。その言葉に、機械的に謝罪すれば、父は満足したらしい。先程よりも幾らか声音を柔らかくして、しかし首を絞めるような威圧感はそのままに、言う。

「分かればいいんだ。俺は、お前のためを思って言っているんだからな。今は辛いだろうが、いつかはその努力が報われる時が来る。しっかり励め」

「……はい。分かりました、お父様」

その言葉を最後に、車の中には再びの沈黙が降りる。重苦しい空気の中、私は、先程の父の言葉を思い返していた。

勉強をしろ。遊んでいる暇はない。勉強をしろ。それがお前のためになる。お前のためを思って。父はいつも、そんな言葉を私に言う。

お前のためだと。そう言われれば、私がなにも言い返せないことを父は知っていて、だからこそ父は私を叱る度に、そんな言葉を口にする。痛いくらいの、真綿で締め付けられたような威圧感を伴って。

父の言うことに逆らえない、そんな息苦しい生活にもいい加減慣れた。慣れてしまって、反論する勇気もない私は一生、父の言いなりに、生きていくしかないのだろうと、そう思っていた。

だけど。それでも。

(有栖川、先輩)

あの人が、私の隣で笑ってくれるのなら、なんだってできる気がしたのだ。

あの人が、私の隣だけで笑うというなら。私の隣だけが、あの人の居場所だというなら。それなら私も、勇気を出して、父の言いつけを破ってやろうと、そう思ったのだ。

父に逆らってやろうと、そう、思ったのに。

そっと目を閉じる。瞼の裏に浮かんだのは、夏花先輩や冬樹さんと一緒に、幸せそうに笑う先輩の姿だった。

『ありすが心の底から楽しそうにしてる所を見たことがない』だなんて。そんなこと、あるわけない。あんなに幸せそうに笑っている先輩を見ておいて、なにが幸せそうな顔を見たことがない、だ。貴方たちの隣で、先輩はあんなにも、楽しそうに笑っているというのに。

「……うそつき」

ぽつり。思わず声が漏れた。その声と共に、堪えきれなかった涙が一筋、頬を伝う。小さな声音は、誰の耳にも届かぬまま、沈黙の中に吸い込まれるようにして消えていく。

流れた涙も、誰にも気付かれないまま、座席のシートの布地の色を、ほんの少し濃く染めるだけだった。

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