第3話 理解不能な貴方と感情
夢を、見ていた。
幼い頃の私が、誰かに手を引かれて歩いている。そんな夢だ。
幼い私の手を引くひとの顔はよく見えなかったが、私の手を握る手のひらの大きさや、その身丈から、幼い私と同い年、もしくはほんの少し年上くらいだろうと推測された。
私たちが歩いているのは、何処かも分からない場所だった。見渡す限り暗闇が広がっていて、私の手を引いて歩くひとの後ろ姿しか見えない。
やがて、私の前を歩いていたひとが、ぴたりと歩みをとめた。そのひとが私の方に振り向く。
だけど不思議なことに、こちらを見ているはずのそのひとの顔は見えなかった。顔にあたる部分だけを私だけがうまく認識できないような、とても不思議な感覚だった。
そのひとは、私の手をぎゅうぎゅうと握りながら言う。
「ずっと一緒だよ、夜鈴」
何故だろう。
そう告げたその声は、たしかに、聞き覚えのあるものだったのに。私はその声をどこで聞いたのか、いつ聞いたのかさえ、思い出すことができなかった。
「うーん……」
夢の内容がどうにも気になって仕方がない私は、うんうんと唸りながら通学路を歩いていた。
妙な現実感を伴う夢だったのだ。
まるで、夢の中で言われた言葉を、昔誰かに言われたことがあったような、奇妙なデジャヴを感じる夢で。だけどそんな言葉を言われた記憶を私は持ち合わせておらず、だからこそ、その奇妙な既視感に首を傾げることしかできなかった。
もやもやと考え込みながら校門をくぐり、教室へと向かう。廊下には人がごった返していた。そんな、妙に人の多い廊下を、私は必死で人をかき分けつつ進む。自分の教室へと向かうだけでこんなに重労働を強いられるのかこの学校は…とげんなりしていた私だったが、視界の端にちらりと映った金色の髪に、ビシリ、と身体を強ばらせ、錆びた機械のようにガクガクとした動きで、金髪が見えた方を向く。
あの綺麗な黒色の髪。あれは間違いなく、昨日無遠慮に私の唇を奪い、さらに告白まで仕掛けてきた生徒会長―有栖川朝緋、だったからだ。
それと同時に、どうして廊下にこんなに生徒が集まっていたのかも理解した。この人混みの中心には、有栖川先輩がいる。おそらく、先輩目当てに集まったのだろう。この廊下にたむろする生徒は。
生徒会長を務めるだけあって、おそらく人望はある人なんだろうな、と、私は先輩に群がる生徒たちを眺めながら思う。先輩と話す生徒たちは皆嬉しそうだ。先輩もにこやかな笑顔で応対していて、辺りは朗らかな空気に包まれている。思わずほっこりとした。楽しそうに会話しているところに水を差すのも悪い、そう思って、先輩を中心とした人混みの横を通り過ぎようとした、その時だ。
「あっ!待ってよ音澤さん!!」
凛とした声が私の名前を呼ぶ。名前を呼ばれた私は反射的に、人混みの横を通り過ぎようとしていた足を止め、声のした方を向いた。
そこに居たのは、勿論―有栖川先輩である。先輩はにこにこと可愛らしい笑顔を浮かべ「もう!無視するなんて酷いよ〜」と言いながら、私の方へ近づいてきた。周りからざわめきが起こる。それと同時に、じっ、と、私に向けられる幾つもの視線。思わずヒッと、引き攣ったような声が出た。人の目線が怖い。怖すぎる。怖すぎて、背中にたらりと冷や汗が流れる。頼むから視線を分散させてほしい。
そんな願いも虚しく、先輩が近づけば近づくほど、私と、それからこちらに向かう先輩へと人の目は集まっていく。先輩はそんな視線にも慣れっこなのか、動揺を一切見せず、私の方へ歩いてきて、そしてついに、私の目の前に立った。
もう、逃げ場はない。
観念した私は、先輩へと話を振ることにした。
「……何の用ですか?」
「君と話をしたいと思って」
「はぁ……」
にこにこと可愛らしい笑顔を浮かべて言う先輩に、私は気の抜けたような返事をする事しかできない。
困ったな、と私は素直に思った。話というのは十中八九、昨日の告白の話だろう。私が逃げてしまったから話が有耶無耶になってしまったのだろうが、その話をまた蒸し返されても、私にも、どう返事をすればいいのか分からないのだ。
……ん?分からない?
そこで私は疑問を覚えた。なぜ、私は先輩の告白の返事に、こんなに悩んでいるのだろうか。
嫌なら、振ってしまえばいいだけだ。それだけの話であるはずなのだ。
それなのに、どうして。
私はこんなに、先輩の告白に頭を悩ませているのだろう。
思わず考え込んでしまう。ふと引っかかった疑問に、思考の全てが持っていかれる。
だから、忘れていたのだ。気付かなかったのだ。
目の前に先輩がいた事にも。
先輩が、私に身体を預けるようにして、擦り寄ってきていることにも。
それに気づいたのは、周りから黄色い歓声が上がった、その時だった。
その声で我に返った私は、先輩の身体が思ったより近くにあったことに驚いて、思わず後退ろうとする。しかし先輩は、そんな私の身体をがっちりと抱え込み、そしてそのまま、私の耳元に口を寄せた。
「……放課後、裏庭で待ち合わせね」
ぼそり、と耳元で囁かれた声。その声がなんだかとても色っぽくて、私は思わず自分の手で耳を覆う。そんな私を見て先輩は満足そうに笑うと、するり、と私の身体の拘束を解き、身を翻した。
タイミングを見計らったようにチャイムが鳴り響く。廊下に溢れていた生徒たちが、その音を聞いて慌てたように教室へと戻っていくのが見えたが、私はその場で突っ立っていることしか出来なかった。
それくらいの衝撃だったのだ。
入学式の時のように激しく暴れ回る心音で、胸が苦しくなる。先輩の囁き声が未だ耳の中に篭っているような心地がして、はぁ、と思わず息を吐いた。
本当に、どうして。この先輩と関わると、こんなに落ち着かない気分になるのだろう。
ぐるぐると巡る思考。いくら考えても理由が分からなくて、自分が今立っているのが廊下だということも、チャイムが既に鳴り終わっていることも忘れて、考え込む。
結局私は、先輩に「チャイム鳴ってるよ?教室戻らなくていいの?」と声をかけられるまで、廊下でひとり、ぼんやりと突っ立っていた。
「音澤さんって、生徒会長とどんな関係なの?」
ホームルームが終わり、授業の準備をしていた私に声をかけてきたのは、隣の席のクラスメイトだった。
まんまるな瞳が特徴的な、どこか小動物めいた雰囲気の少女だ。黒に近い茶色の髪を黒のリボンで二つ結びにした、周りに真面目な印象を与えるその少女。確か名前は―
「いや…どんな関係って言われても……昨日先輩の落し物を拾ったから届けに行っただけよ」
「えっ!?それだけ!?本当に?」
「え、えぇ……」
露骨にがっかりされて、思わず言葉に詰まった。確かにそれだけではなかったが、落し物を届けに行ったら先輩から告白されてキスされました、だなんて、ほぼ初対面のクラスメイトに言えるわけがない。
しかし、花ヶ前さんは、私が言葉に詰まったことには気付かなかったようで、「そっかぁ〜」と落胆した様子で肩を落としているのみだった。そして口元に指を当て、でもなぁ、と前置きをしてから、言葉を続ける。
「音澤さんに話しかけた時の生徒会長、普段と様子が違ったから、二人の間に特別な関係でもあるのかと思ったんだけど……」
その言葉に、私は思わず「そうなの?」と尋ねた。私が目にした先輩は、だいたいあんな感じだったからだ。
いつもにこにこと笑っていて、愛嬌があって、可愛らしい先輩。それが私の中での、有栖川先輩のイメージである。それ以外の先輩像がうまく思い描けず、私は首を傾げた。
花ヶ前さんも最初は変な顔をしていたが、やがて私があの先輩とほぼ初対面であるということに気がついたらしい。私と先輩の関係を疑っていたことから、もしかしたら今の私の様子で、本当に私と先輩の間に名前のつくような関係はなかったことを認めたのかもしれないが。どうでもいい話である。彼女はあぁ、と合点の言ったとでも言いたげな表情を浮かべて、こう言った。
「あ、そっか。音澤さんって高校からだもんね。生徒会長のことあんまり知らない…よね?」
こくこくと頷いて、花ヶ前さんの言葉の続きを待つ。
彼女の口から発せられたのは、今まで私が見てきたのとは全く違う、先輩の姿だった。
「私が知ってる生徒会長ってね。なんていうか、あんなふうに人に積極的に関わるような人じゃないんだよ。一歩引いた立場で人と関わる人っていうか…少なくとも、朝みたいに人に擦り寄って甘えたような仕草を見せるあの人は、私、見たことないよ」
「へぇ……」
「声音も全然違ったし。あんなに声に感情が乗ってる生徒会長も初めて見たよ。普段はもっと落ち着いて話す人だもん。入学式の歓迎の言葉の時みたいに。これは音澤さんも聞いたでしょ?」
「あぁ……確かにあの時とは全然雰囲気が違ったわね」
言われて思い出した。確かにあの時の声音は、朝私を呼んだ声より、幾分か落ち着きがあったように思う。てっきり入学式という場だからああいう風に話していたのかと思ったが、違ったようだ。なるほど、私に対する態度と普段の態度が全く違うのは本当のようである。それを聞いて、なぜだか私の胸が再び、ドキリと高鳴った。胸が熱くなる。自然と顔がにやけてくる。
この感情を、私は知っていた。これはきっと、嬉しいという感情だ。私は、先輩が私の前だけで見せる顔があることに喜んでいる。
先輩が私にだけ見せる顔があることを、嬉しく思っているのだ。
でも、どうしてなのだろう。
どうして私は、そんなことで喜んでいるのか。私のことなのに何もわからなくて、それがほんの少しだけ、怖い。
再び、思考が渦に飲み込まれる。そんな私の意識を浮上させたのは、花ヶ前さんの「大丈夫?」という心配したような声だった。その声に、はっと我に返る。目の前には、心配したような顔をした花ヶ前さんがいて、申し訳なくなった私は「大丈夫よ」と返事をした。まぁ、内心はあまり大丈夫ではないのだが、本当に、こればかりは人に相談することもできない。
花ヶ前さんがほっとした表情を浮かべるのと同時に、始業のチャイムが鳴る。生徒がガタガタと前を向く様子を、私はどちらかと言うと後方に配置された自分の席から眺めていた。
(どうしよう。この調子では、今日の授業、全然集中できない気がするわ…)
はぁ、とため息をつく。その溜息に、花ヶ前さんが再び心配そうな顔を向けたが、私は何でもないというふうに手を振って見せた。
私は一日中、先輩のことを頭の片隅で考える羽目になり、やはりと言うべきか、授業にはこれっぽっちも集中できなかった。
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