第2話 それは春の嵐のような
「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございますー・・・」
マイクを通し、学園長の声が広い体育館に響き渡る。そこから始まる、長々とした挨拶。入学式ともなれば、当たり前のように行われるそれに、周りの生徒は皆、ゲンナリとしたような顔をしていた。中には、堂々と寝こけている生徒もいる。素直にすごいな、と感心してしまった。私もこういった式における長い挨拶にはいい加減辟易としているが、だからといって寝てしまう勇気はないからだ。心の中で、早く終わればいいのにと念じるだけで、精一杯である。
それに加えて、今日の私には、絶対寝られない理由があった。無論それは、新入生代表挨拶をしなければならないからである。
私は緊張で胃を痛め、滝のような冷や汗を流しながら、自分に割り振られた席に座っていた。
場所は、最前列の、真ん中に設けられた通路を挟んで左側。代表挨拶のため、移動しやすい場所をという配慮から割り振られた席なのだろうが、私からしてみれば、緊張を助長させるだけの最悪の席でしかない。
(やっぱり代表挨拶なんて引き受けるんじゃなかった……!!無理!!めちゃくちゃ緊張するじゃないこれ!!)
緊張しすぎて、長々しい挨拶など一切耳に入らない。ひたすらに下を向き、襲いくる胃痛に耐えるべく背中を丸め、早く終われ早く終われと念じる。早くこの苦しみと緊張から解放されたい。本当にこの長い挨拶を誰が聞いているというのか。絶対に生徒向けじゃない。生徒寝てるし。なんでこんな訳の分からなくて長いだけの話を、胃をギリギリさせながら聞いているのか…と。変なベクトルの怒りが湧いてきた、その時だ。
「―新入生の皆さん。ご入学おめでとうございます」
凛とした、美しい声が聞こえてきた。
その声に、私は伏せていた顔を上げる。壇上にいたのは、今までのような成人男性ではなく、この学園の生徒だった。ぼんやりしているうちに、式は、在校生からの歓迎の言葉まで進行していたらしい。つまり、この次が、いよいよ自分の出番ということだ。緊張も高まる―はず、だった。
そのはず、だったのに。
「この学園の魅力は、なんといっても、落ち着いた雰囲気の中、勉学や部活、その他活動に打ち込めることです。それぞれが自身の目標、やりたいことに打ち込める環境が揃っています。この学び舎で、たくさんのことを学び、経験し、自身の糧にしていってほしいと、私は思います」
壇上に立つその生徒を見た瞬間、私は、自分の挨拶が次だということも、今までの緊張さえも嘘のように忘れて、ただ、壇上にに立つ彼女に見惚れることしかできなかった。
凛とした立ち姿。綺麗に伸ばされた、少し青色がかった黒の髪。そして、まるで澄み切った空のように青い、宝石みたいな両の瞳。
その何もかもが、ステージの照明を反射し、キラキラと輝いていて。その光から、なぜだか私は目が離せなくなった。
ドキドキと、緊張とはまた違った心臓の鼓動が煩い。それ程に、私は、壇上で話す彼女に、見惚れてしまっていた。
目が離せなくて、心臓がドキドキと煩くて、彼女を中心とした世界が、キラキラと輝いて見えるようなこれは、一体何なのだろう。
分からないことが、もどかしかった。
「―生徒代表、3年A組、有栖川朝緋」
壇上の彼女が、名前を告げ、壇上から降りる。その所作のひとつひとつさえ美しくて、私は、彼女の姿を目で追ってしまう。ドキドキとした胸の高鳴りは、未だ消えることなく、私の中で燻っている。その理由はやはり分からなかった。
分からないけれど、大事にしたい。苦しいけれど、捨てたくない。本当に不思議な衝動だと、私は思った。
(ありすがわ、あさひ)
今しがた彼女が告げた名前を、心の内で反芻する。
朝の眩しい光と同じ音の名前。キラキラと眩しい彼女にはピッタリだと思った。
その後の新入生代表挨拶は、緊張が吹き飛んだおかげか、なんの失敗もなくあっさりと終えることが出来。
私は、緊張を吹き飛ばしてくれた彼女に、心の内でそっと、お礼を言ったのだった。
「サッカー部!サッカー部に入りませんか?」
「調理部に入りませんか?作ったお菓子が食べ放題の、楽しい部活ですよ〜!!」
入学式が終わり、学園内は、部活の勧誘に精を出す在校生の声で賑わっている。
良く言えば活発な、悪くいえばただ五月蝿いだけの、そんな喧騒の中を突っ切って帰宅する気になれなかった私は、なんとなく、校舎の中を適当にぶらついていた。
途中、私のような生徒を狙った勧誘を会釈で躱しつつ、行く宛てもなくふらふらと彷徨う。人気のない校舎内は、外から聞こえる喧騒のせいか、余計、静かな空間に思えた。
しかし、外の騒ぎは一体いつになったら収束するのだろうか。
入学式が終わり、その後のホームルームも終わり、私たち新入生が解散してからもう随分と時間が経ったというのに、外は未だ、喧騒に包まれている。これではしばらく帰れないなと、目線を足元に落とした、その時だ。
「…あれ?」
足元になにかが落ちている。見ればそれは、定期券と学生証が入ったパスケースだった。
持ち主の名前は、
「有栖川…朝緋……」
先程、歓迎の言葉で聞いたばかりの名前であった。
手に持っているものが、あの、どうしようもなく目を惹かれてしまった彼女のものであることに、心臓がドキリと高鳴る。まただ。どうして、今日初めて見かけただけのこのひとに、こんなにも、心を揺さぶられてしまうのだろう。
そんなふうに、心をざわざわと乱されつつも、考える。落し物は先生に預けてしまえばいいのだろう。そうすればきっと、間違いなく、先輩の手に渡るはずだ。普通ならそうするべきなのだ。
しかし、どういうわけか、私はそうする気にさらさらならなかった。この、手に持っている先輩の落し物を、どうにか自分の手で、彼女に渡したいと、そう思ってしまったのだ。
あの先輩に会って、直接話してみたい。そんな欲求が、私の身体を動かす。
「……たしかこの人、3年A組って言ってたわよね」
私の足は、3年A組の教室に向かって歩き出す。彼女がもう帰ってしまっているかもしれない。そんな可能性すら、今の私には考える余裕がなかったのだ。
結論から言えば、先輩はその教室に居た。
しかし、机に突っ伏し、ぐっすりと眠った状態である。
(どうしよう……)
そんなふうに眠りこける先輩の隣で、私は途方に暮れていた。私が隣に立っていることにさえ気付かず、スヤスヤと眠り続ける先輩を、こんな理由で起こすのも、なんだか気が引けてしまう。
しかし、どうにかして起こさなければ。いつまでもここで突っ立っているわけにもいかないし、何より、寝てる人の隣で何をするでもなく突っ立っている光景は、なんだか危ないものがある気もする。
ちらり、と隣で眠る先輩を見る。先輩は寝顔さえ綺麗で、髪の毛が反射する陽の光のおかげか、美しい絵画を見ているような心地になる。
思わずそっと、寝ている先輩の髪に触れる。ほぼ無意識だった。先輩の髪は、見た目通りサラサラしていて、柔らかくて、いつまでも触っていたくなってしまう。その欲求に抗えず、さらさらと触り心地を楽しんでいると。
「……んぅ………?」
先輩がむずがるような声を上げ、閉じていた瞼がゆるゆると持ち上がった。
突然起きた先輩に驚いて、思わず「わぁ!?」と声を上げると、その声に驚いたらしい先輩も「うわっ!?な、何!?」と声をあげた。
しばらく驚いた様子でキョロキョロしていた先輩だったが、途中で、隣に立っている私の存在に気がついたらしい。ぱちくりと目を瞬かせると、
「……どうしたの?僕になにか用事かな」
そう言って柔らかく微笑んだ。100点満点の美少女スマイルである。背後に花の一つや二つでも見えそうなその笑顔に気圧されそうになりつつ、私は、手に持っていたパスケースを先輩の眼前に突き出した。
「あっ!それ僕の定期券…もしかして、わざわざここまで届けに来てくれたのかい?」
ありがとう、助かったよ。そう言ってパスケースを受け取る先輩に、私はブンブンと首を振った。元々、初対面の人と話すのは苦手だが、この先輩の前だと余計に話せなくなってしまう。ガッチガチに固まっている私を見て、先輩は「そんなに固まらなくてもいいのに」と困ったように笑っていた。そして、あ、そうだ。と何かを思い出したようにぽつりと呟く。そして。
「君、新入生代表の子だよね。音澤夜鈴さん」
突然、入学式の挨拶の話を切り出してきた。こくこくと頷くことで肯定の意を示し、話を聞けば、「すごく良かった」とべた褒めされ、私は余計、カチンコチンに固まってしまった。
そんな私を見て、先輩は何が面白いのかケラケラと笑う。
「な、なんで笑ってるんですか!?」
む、と頬を膨らませて先輩に詰め寄る。先輩は、ごめんごめん、と悪びれる様子もなく言うと、言葉を続けた。
「いや、挨拶の時はそんなに緊張してそうに見えなかったのに、今、僕と話すだけですごく緊張してるんだもの。普通、僕と話すよりも入学式のあの場で挨拶する方が緊張しない?」
ほんっと面白いよ、君。そう言ってまたクスクスと笑う先輩に、私は、何を言っているんだこの人は、という心地になる。
そんな事ない。私はあの時だってすごく緊張していたのだ。なのにその緊張を解してくれたのは、紛れもなく、目の前でクスクスと笑う先輩なのだ。それなのに、そうやって勝手に私の緊張を解した先輩は、そんなことを露と知らず、目の前で笑い続けている。その事実に、なぜだか無性に腹が立った私は、思わず、声を荒らげて言ってしまった。
「そんなことないです!私、挨拶の前、すごくすごく緊張してたんです。先輩の挨拶を聞くまでは、すごくすごく緊張してたんですよ!?」
先輩が驚いた顔をして、私を見る。しかし私は、そんな先輩の表情に気付くことなく、言葉を吐き出していく。
「先輩の姿を見た瞬間、なんて綺麗な人なんだって思いました。先輩の声や立ち姿は本当に綺麗で、見惚れちゃって。先輩の話す姿を見てるだけで、嘘みたいに緊張が解けちゃったんです。だから、私があの時緊張してないって思われたなら、それは間違いなく、先輩のお陰なんですよ」
分かりましたか!?とぷりぷり怒りながら言えば、先輩はびっくりした顔で固まっていた。まるで先程までの私のようである。
「せ、先輩…?どうか、」
どうかしましたか?そう言おうとして、しかしそれが叶うことはなかった。
そう言おうとした私の口を、なにか柔らかくてあたたかいものが、そっと塞いだからだ。
目の前には、先輩の整った顔がある。先輩から漂う、甘くて、だけど爽やかさもある香りが鼻腔を擽る。
あまりにも近い距離にある、先輩の顔。私の唇に触れるものの正体は、先輩の唇だったのだ。
「―!?」
先輩に、キス、されている。その事に驚いて、動揺して、私は思わず、先輩を突き飛ばした。
ガチャン!と思ったより大きな音を立てて、先輩の唇が離れていった。「いったた…」という、先輩の痛がる声が聞こえてきたが、私は正直、それどころではなかった。
「せ、先輩…!?一体なにして」
「キスだけど」
「それは分かります!分かりますけど…なんで突然キスなんてするんですか!?おかしいです!!」
あまりにもしれっと言う先輩に、わたしの感性がおかしいのではないか、という心地になる。この学園には、こんなふうに軽率にキスをする文化でもあるのだろうか?
そんなことをぐるぐる考えていると、先輩が口を開いた。
「いや、ごめん。君がかわいくてつい」
「つい!?」
ぐらりと目眩がした。そんな理由でキスをされる世界なのか、ここは。もはや私には着いていけない領域である。
そんな先輩の発言に呆然としたままの私を差し置いて、先輩はまだ何かを言おうとする。やめてくれ。私はもうキャパオーバー寸前である。
そんな願いも虚しく、先輩が口を開いた。
「好きだよ、音澤さん」
一瞬、時間が止まったような心地がした。今、目の前の先輩はなんと言った?私が好きだと、そう言ったのか?
嘘だろう。私はそう思った。だって、私と先輩は初対面なはずで、そもそも女同士なはずで。
そんな相手から告白されるなんてあるはずがない。有り得ない。いや、キスされる時点で相当有り得ないとは思うのだが、それに加えて告白までされたのである。ここまで来ると、なにかの罰ゲームだと言われた方が納得できるとまで思ってしまう。むしろそう思いたくて、目の前の先輩をちらりと見て―それから、見てしまったことを、激しく後悔した。
先輩の顔は、真剣だった。
真剣な表情で、私のほうを見ていた。
キスをしたのも、告白したのも、嘘でも罰ゲームでもなんでもないんだと私に思わせるくらいに、先輩は真剣に、真っ直ぐな瞳で私を見ていたのだ。
その瞳に射抜かれて、言葉が詰まる。
私よりもいくばくか低い位置にある先輩の目線。そこで初めて、私は先輩が、思ったよりも小柄で華奢な体つきをしていることに気がついた。
壇上で見た先輩はものすごく大きくて凛々しい―そんな人に見えたけれど、しかし、実際はそんなことはなくて。
今、目の前で立っている先輩は、ただのか弱い女の子にしか見えなかった。
そんな、ただの女の子な先輩は、真剣な顔で、もう一度口を開く。
真剣な表情と、ほんの少しだけ震える肩が、嘘みたいな告白に、ほんの少しの現実味を加えているような、そんな気がした。
「君のことが、好きなんだ」
真剣な表情でもう一度紡がれた、その言葉。これは嘘でも罰ゲームでもないと、嫌でも思わせられる響きを伴う二度目の告白に、私は何かを言わなければと、頭を巡らせる。
「…え、えっと……」
しかし、出てくる言葉はそんな歯切れの悪いものばかりで、どう返事すればいいのかさえ分からなくて。うんうんと唸っても、何一ついい言葉が出てこなかった私の脳味噌は、いとも容易く白旗をあげた。
私の手には負えない。キャパオーバーである。
「しっ、失礼します!!」
そう言ってぺこりと頭を下げ、脱兎のごとく教室から逃げ出す。
背後から「えっ!?ま、待ってよ!!」という先輩の慌てたような声が聞こえるが、それどころではない。これ以上、あの教室でいたら、自分がどうなるか分からなくて、それが怖くて、先輩から逃げるように、本来は走ってはいけない廊下をバタバタと走る。
好きだよ、そう囁いた先輩を思い出すだけで、ドキドキと胸が高鳴る。ぶわりと顔が熱くなる心地がする。
だけど、それを認めたくなくて、私はひたすらに走った。ドキドキするのも、顔が熱いのも、全部、全速力で走ってるせいにしたかった。
ぐるぐると考えながら、先程までは五月蝿いと思っていた勧誘の声を掻き分け、私は家へと急ぐ。
(こんな、こんなの…有り得ない!あんな訳の分からない先輩にときめくなんて、そんなこと…!!)
有り得ないんだから!!
ぐぁぁぁ、と唸りながら走る私の姿は、相当滑稽だろう。そう思うが、今の私には、そんなものを気にする余裕なんてこれっぽっちもなかった。
ただ、あの先輩に投げつけられた、愛の言葉を消化するだけで、精一杯だったのだ。
こうして、私の高校生活一日目は、とんだ波乱と共に、過ぎていったのだった。
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