45.強欲の神の記憶(2)-デュークside-

 わたしは随分長い間、待った。

 勿論、女神ウルスラを追いつめる機会を、だ。


 そして――やがて、その日は訪れた。

 何と、女神テスラがあの男の子供を身籠ったということがわかったからだ。

 わざわざヒトになり、ヒトに溺れ、ヒトと交わったというのか。

 あの気高い知の女神テスラが?

 何と愚かな……堕ちたものよ……。


 どうしてやろう? この話でテスラをいたぶってやろうか? 父なる特級神はどうするだろうな?

 いや……テスラはなかなか手強い。やはりウルスラであろうな。あの男のことで、ウルスラは間違いなく揺れていた。

 テスラが裏切ったと知ったら……どう思うかな。


 しかしあの神器は厄介だ。中途半端な分身ではあっという間にやられてしまう。

 致し方ない、この身を二つに分けて……。

 これは、大きな賭けだ。



   * * *



「……また、来たの」

“まぁ、そう言うな。いい話を持って来てやったというのに……”


 気配を殺してウルスラの背後へと触手を伸ばす。徐々に纏わりつく……。

 わたしを暴れることしか能がないとでも思っているのか、ウルスラは気づいていないようだ。

 目の前のわたしだけを警戒している。神剣に手をかけたまま、微動だにしない。すでに背後から捕えつつあるというのに。


「いい話? 聞きたくないわ」

“テスラが懐妊しているぞ。あの……ヒコヤとかいう男の子供をな”

「……!」


 ふ……捕まえた、ぞ。

 わたしはゆっくりと慎重にウルスラの中に忍び込んだ。


“……女神を降りるのではないか?”

「な……」

“ヒトは伴侶と共に家族というものを作っていくのだろう? そんなヒトの姿をいくつも見てきたのではないか? ……ウルスラよ”

「そ、れは……」

“好きな男の子供を身籠ったのだ。テスラもきっとそうであろう。ヒトになって……女神であったことを棄てるのだろうな”

「馬、鹿、な……!」


 ウルスラが鬼のような形相になった。もう……美の女神の面影など、ない。

 ――完全に、捕えたぞ。


“何と……可笑しなことであろうな? ヒトのために造った国なのに……ヒトによって女神は堕とされ……”

「う……」


 ウルスラが震える手で剣を鞘から引き抜く。

 美しくたなびいていた金色の髪があっという間に強張り、放射状に広がる。


《や、め、ろ――――――!!》


 歯を向き出し、ギロリとわたしを睨みつけて、ウルスラは剣を振り上げた。

 女神ウルスラは、完全に崩壊した。わたしは愉快でたまらなかった。


“ふはは……ふはははー!”

《笑う、なー!》

“滑稽ではないか……お前たちのしたことは、無意味だったのだ!”

《だ、ま、れー!》


 わたしは上機嫌だった。

 狂え……そしてもっと、憎め。

 神とヒトは――所詮、征服するかされるかしか、ないのだ。



   * * *



 そうだ……女神ウルスラを堕落させた。これを皮切りに、すべてが思い通りになる筈だったのに。

 ヒコヤとテスラに半身を封じ込められてしまった。そのとき食らった術は、ウルスラの国から遠く離れたそらにいた、こちらの半身までも……。


 ぐう、しくじったか。封じられたわたしの半身は、完全に眠ってしまっている。何も視えない。


 ジャスラ。わたしには、もうお前しか……。


「……っ……」


 半身が封じられたときの光景が、脳裏に蘇る。


 ジャスラ……なぜウルスラの剣からヒコヤを庇ったのだ。

 ヒコヤは神々を堕落させる危うき存在。だからわたしがこの世界もろとも破滅させる。そのためにしたことだったのだぞ。


 ぐう……ジャスラにも歪みが生じているのか。

 ならば、わたしがその過ちを正してやる。神として世界をあるべき形へと戻さなくては。


 いろいろ手違いがあったが、わたしは目的を達成した。

 三女神の一柱は――崩れたのだ。



   * * *



 ジャスラの国に近付くと、何か黒いものが国全体を覆っていることに気づいた。

 何だ? これは……。


「女神ジャスラは今、どの辺りなのだ?」

「わかりませぬ。もう……ヒトの形でもなければ女神の姿ですらありませんので……」

「ぐぬ……」


 前に一度見た――ジャスラの分身の末裔、とかいう女が、崖の上から大地を見回している。

 何が起こっているのか……わたしは黒いもやの奥を見た。

 ジャスラが……愛しいジャスラが、泣き崩れている。

 その身体の半分以上は黒い闇に変わり果て……ジャスラ全土に広がっている。


「――ジャスラ!」


 わたしは黒い靄の中をかき分け、ジャスラに近付いた。

 この靄は……ジャスラの穢れてしまった部分だ。ジャスラの嘆きだ。


「……わらわは……嫌じゃ……」

「ジャスラ!」

「嫌じゃ……誰も、わらわに近付くなー!」


 ジャスラの嘆きがわたしを撥ね退ける。


「何があったのだ……ジャスラ!」

「嫌じゃ……わらわは……憎みたくはないのだ……」


 ボロボロ涙を零す。美しかった銀色の髪はすっかり乱れ、穏やかだったその面影は少しも見当たらない。

 そうだ……ジャスラも、テスラとヒコヤのことを知ったのだ。そのため自分の心が黒く染まるのを恐れ、自ら壊れようとしているのだ。


「ジャスラ、わたしが救ってやる。わたしなら……!」


 わたしは必死の想いで手を伸ばした。

 ジャスラはわたしの声が聞こえたようだが、激しく首を横に振った。


「ウルスラから……感じた……モノ?」

「……っ!」


 わたしは思わず立ち止まった。

 ジャスラはすでに正気ではないが、ウルスラを堕としたのがわたしだと漠然と気づいている。


「わらわは……お前なんかの手は、借りぬ――!」


 ジャスラはぎゅっと目を閉じると、激しくわたしを拒絶した。

 ジャスラの力をぶつけられ、わたしはひどく遠くまで飛ばされてしまった。


「ジャス……」

「……ヒコヤ……ヒコヤ――!」


 ジャスラの黒い闇の向こう――悲鳴のような声が、私の耳をつんざいた。



 救いたかった。ジャスラを救うのはわたしでありたかった。

 なのに……お前はまだ、その名を呼ぶのか。


 ジャスラが本気でわたしを拒絶した。あのようなジャスラを、わたしは初めて見た。

 なぜだ、なぜだ、なぜだ……!


 そうだ……テスラとヒコヤが悪い。

 テスラがヒコヤなどと交わらねば、ジャスラが狂うこともなかった。わたしを拒絶することもなかった。

 唯一わたしに笑顔を見せてくれたジャスラを……失うこともなかった。


 テスラ、ヒコヤ、テスラ、ヒコヤ、テスラ、ヒコヤ……邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ、憎い、憎い、憎い、恨む、恨む、恨む……。



   * * *



 ――その後のことは……よくは憶えておらぬ。

 またもやテスラとヒコヤに返り討ちに遭い……すでにこの半身しか残されていなかったわたしは、隠れるしかなかったようだ。


 そしてヒコヤがいなくなり……テスラにやっと復讐できるはずだったのに、テスラの全てをかけた力に為す術もなく封じ込められてしまった。



 いや……そうだ。やられたままではなかった。

 

 ウルスラで目覚めたわたしの半身。

 神器の結界を緩ませ、過去を封じ、知識を歪ませ。

 ウルスラの女王の血を穢し、継承の力を半減させ。


 しかしどれもこれも、あまり上手くいったとは言えまい……。そうした戦いを経るごとに確実に衰えていく、わたしの半身。


 忌々しいのはシルヴァーナだ。この未来の女王を胎児のうちに殺してしまおうと力を注いだのに、抑えられなかった。

 

 それならばヒトの手で破滅へと――そう画策したのに、再び神器の剣がわたしを封じ込めた。

 なぜだ。神かヒコヤでなければ使えなかったはずの剣……すでに力を失っていたはずなのに。


 二度と自由には使わせまいと、幼い王女を操り神器の剣自体をわたしの手中に収めた。

 わたしの力を削るその剣を抱えることは危険だったが、再び誰かの手に渡り、封じられるぐらいなら多少削られた方がマシだった。

 そして、今度こそウルスラに破滅を――。


 なのに……なのに、今度はヒコヤ自身の手によって封じられるとは!

 あの、目障りな……とうの昔にいなくなったはずのヒコヤが、なぜ今頃!


 そして今また、テスラに妨害されるとは……!



   ◆ ◆ ◆



「ふふっ……ふふふ……」


 わたしは両目を見開いた。

 同時に……パラリュスの藍色の空が、瞬く間に白い空に変わるのが目に映る。

 どれぐらいの時間、倒れていたのかはわからない。しかし、有意義な時間だったと言えよう。

 わたしがどれほどテスラとヒコヤを憎んでいるか――思い出すことができたのだから。


 そうだ……そうだった。

 他でもないテスラ、わたしはお前にずっと苦しめられてきたのだ。

 そして、ヒコヤ――貴様がずっと、目障りだったのだ。

 だが……それも、もうすぐ終わりだ。


 まだ身体の調子は戻らない……。

 最後の分身だ。大事にして……しばらく休むとしよう。

 焦る必要は、ない。


 テスラとヒコヤ……奴らにこの屈辱を晴らし、溜飲を下げる日は――そう遠くはないのだから。

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