30.裏切りと絶望の中で(1)-暁side-

「……こんにちはー」


 東京のとある場所にあるモデル事務所、ステラポリー。

 挨拶をしながら入ると、涼子さんが「あら」と言って俺の方を見た。


「しばらくお父さんの国に行ってるんじゃなかったの?」

「おととい……帰って来た」


 俺は右手で脇腹を押さえた。

 ヨハネに抉られた傷は、治っているはずだった。

 でも……思い出すと、ジクジクした痛みを感じる。


「あら、そうなの」

「憲一さんは?」

「……あー……」


 涼子さんはファイルをめくる手を止めると、申し訳なさそうに俺に微笑んだ。


「昨日からペルーに行ったの。予定より早く前の仕事が終わったからって……」

「ペルー……」

「多分、3か月は帰って来ないわね」

「そっか……」


 撮った写真はパラリュスのものばかりだから、憲一さんに見せられる訳じゃない。

 だけど、何だか心が病んでいて……憲一さんと話がしたかった。

 このモヤモヤが少しでも解消されるんじゃないかと思って。


 俺……何をしてるんだろう。

 これから……何を頑張っていったらいいのかな。


「暁、前に雑誌を一つやったでしょう?」

「うん」

「あれを見た関係者から問い合わせがいくつかあって、仕事の話とかオーディションの話が来てるんだけど……あ、でもそうか、受験があるから今は無理なんだったわね」


 涼子さんが思い出したように言った。


「残念だけど、春以降で……」

「それやると……涼子さん、喜ぶ?」


 俺が聞くと、涼子さんがギョッとしたような顔で俺を見た。


「そりゃ……」

「……じゃ、やろうかな」

「えっ……――どうしたの!?」


 涼子さんはファイルをその辺の机に乱暴に置くと、急に俺に掴みかかった。


「いつの間にそんな殊勝なことを言うキャラになったの!?」

「何かひどい……」

「気持ち悪! 憎まれ口を叩かない暁なんて、暁じゃないわよ!」

「……」


 何かひどい言われようだったけど……ちょっとだけ愛情を感じて、俺は少し心が癒される気がした。

 涼子さんはじっと俺の顔を見ると、ふっと息をついて俺の身体を離した。


「……それに、今は駄目ね。行ったところで、落とされるわ」

「何で?」

「目が死んでるから」

「……」


 憲一さんに比べると涼子さんは鈍感だと思ってたけど、モデルを見る目は確かなのかな、と思う。

 確かに……今の俺は、心のどこか一部分が壊死したような感じだから。


「姉さーん、いるー?」


 急に事務所のドアがバタンと開き、華やかな雰囲気の女の人が勢いよく現れた。

 前にも会ったことがあるような……。

 そうだ、涼子さんの妹の清美きよみさんだ。「伽羅きゃら」名義でモデルをしてる……。

 前と髪色が全く違ってたから、わからなかった。

 今は赤系のブラウンで、前の金髪よりは落ち着いて見える。……俺はこっちの方が好きかな。


「キヨ! 会社では専務と呼びなさい!」

「その名前で呼ばないで! いいじゃん、お母さんも留守だし……」


 そう言うと、伽羅さんはドサッとソファに座った。


「お母さんじゃなくて、社長!」

「もう、メンドクサイな。……あ、暁だ。久し振り!」

「どうも……」

「相変わらず可愛いね!」


 伽羅さんはそう言うと、俺の頭をぐしゃぐしゃっとした。


「……」


 それには答えず憮然としたまま髪を直すと、伽羅さんはちょっと溜息をついた。


「反応は相変わらず可愛くないわね……」

「いきなり頭を鷲掴みする人に愛想良くはできないんだけど」

「あははっ」


 俺の文句に気を悪くするでもなく、伽羅さんは楽しそうに笑った。


 ステラポリーは、涼子さんのお母さんが社長のモデル事務所だ。

 涼子さんも昔はモデルだったけど、憲一さんと30歳で結婚したときにやめて、事務所で専務として働いているらしい。


「涼子はどう見ても体育会系で真っ直ぐだろう? 駆け引きの多いこの業界は疲れたみたいだね。だから早々にリタイアして、プロデュースする方に回ったんだよ。ま、でも、涼子のそんなところを気に入って信頼してくれるクライアントも多いみたいだから……裏方の方が、向いてるんじゃないかな」


 憲一さんがそんな風に言って、笑ってた。


 伽羅さんは、確か……俺より10歳上の、25歳だったかな。

 俺にとっては、いわゆる「大丈夫な人」だった。

 綺麗だし、はっきり物を言う割に無神経に入りこんでくることはないし……何か、居心地がいい。


「で、どうしたの? 伽羅」

「アツシにドタキャンされちゃって……夜、暇になっちゃった。何かない?」

「そんな急に仕事がある訳ないでしょ。他の子は?」

「んー、みんな仕事か彼女だねー」

「……伽羅も彼氏を作れば?」

「めんどくさい……縛られたくないもの」


 そう言うと、伽羅さんはチラリと俺を見た。


「暁は彼女、いるの?」

「いない。……必要ない」

「やった、一緒だー」

「馬鹿なことを……」


 涼子さんがそう言いかけた途端、事務所の電話が鳴った。


「はい、ステラポリーでござ……あ、社長! はい、は……え!?」


 涼子さんはギョッとした顔をすると、バッと壁にかかっていた時計を見た。


「あ……えっと、そうですね……。じゃあ、小杉先生のパーティの方は……うーん……」

「小杉先生……ああ、あの先生か」


 伽羅さんが独り言を言った。


「……何の人?」

「KACEっていうブランドのデザイナーの先生。今日、誕生日パーティじゃないかな。モデル事務所とか芸能事務所とかメディアの人を呼んで、毎年結構大きいパーティをするのよ」

「自分の誕生日に自分で開いて自分で人を呼ぶの……?」


 誕生日って人に祝ってもらうものじゃないのかな、と思って聞くと、伽羅さんがくすっと笑った。


「繋がりは大事だからねー。自分の事務所の人間を使ってほしい、とか逆に自分のブランドの宣伝に繋げたいとか……まぁ、いろいろあるのよ」

「ふうん……」


 そんなことを話していると、涼子さんは「わかりました」と言って電話を切った。


「伽羅、仕事ができた。小杉先生のパーティに行ってきて」

「え? 私でいいの?」

「私が行くつもりだったけど、社長の出先でちょっとトラブルがあって、そっちに行かないといけないの。伽羅はウチの社員でもあるし、モデルとして一緒に仕事したこともあるでしょ?」

「あー、うん。オッケー、任せといて」


 そう言うと、伽羅さんはすっくと立ち上がった。


「……よし、じゃあ暁も行こうか!」

「へ……」

「ば……何を言ってるのよ! 暁は未成年!」

「お酒を飲ませなきゃいいんでしょ。いい顔見せになると思うけどな。姉さんが連れて行ったら売り込む気マンマンかよ、って思われるけど、私ならノリで連れてきた、で済むじゃない」

「……うーん……確かに……」

「決ーまり。暁、行こ!」

「……俺、目が死んでるらしいけど大丈夫?」

「なあに、それ? ……ま、ちょっと注意が引ければ儲けモンよ」


 そう言うと、伽羅さんはからからっと楽しそうに笑った。


   * * *


 そのあと伽羅さんに連れられて服を買い、着替えてパーティ会場に行った。

 会社の人達が集まるとか言ってたからオジサンオバサンだらけなのかと思ってたけど、若い人達も結構いた。

 伽羅さんと同じく、以前に小杉先生と仕事をしたモデルの人達らしい。


「ご無沙汰いたしております。ステラポリーの北見です」

「ああ、伽羅ちゃん! 今日は涼子さんの代理?」

「そうなんです。すみません、本当に。姉も木崎さんに会いたがってたんですけど……」

「そうなの。……あら、その子は?」

「最近ウチに入った子です。私一人じゃツマンないし、可愛いから連れてきたんですよ」

「確かに可愛い! 今度一緒にお仕事しましょうね」


 ……こんな感じで、伽羅さんは色々な人に挨拶をしながら華麗に人の波を泳いでいった。

 俺はただその背中についていって、隣で愛想笑いしていただけなんだけど……なかなか大変な世界なんだな、と漠然と思った。

 だけどそんな中でも伽羅さんは生き生きとしていて、時に投げかけられるオジサンのセクハラまがいの言葉やオバサンの皮肉めいた言葉を、すべて右に左にと捌いていく。


 一通り回ったところで、「ここでちょっと待ってて」と言って壁際の椅子に座らされた。


「誰か来たら、話はちゃんとするのよ。……あ、会社の人なら名刺は貰っておいてね。でも、お酒は飲んじゃ駄目。知らない人に付いていくのも駄目だからね」

「子供じゃあるまいし……」

「ここでは子供だからね」


 伽羅さんはウインクすると、人の波の中に消えて行った。


 ……それからしばらくすると、伽羅さんが言ったように何人かが俺に話しかけてきた。

 おじさんから若い子までさまざまだったけど、退屈はしなかった。


 しばらくして人がいなくなり、ざわついているパーティ会場をゆっくりと見回す。

 何となく……街の中に埋もれて、ボケーッとしていた時のことを思い出した。


 ――友達? 何それ。僕は、特別なアキラを憎んでいただけだよ。


 不意に、ヨハネの不敵な笑顔と抉るような台詞が思い出される。

 ――脇腹が、ズキンと痛んだ。


 駄目だ……独りでいると、余計なことを考えてしまう。テスラのことを、思い出してしまう。

 ……嫌だ、考えたくない。


「……暁?」


 伽羅さんが少し駆け足で戻って来た。


「どうしたの? 具合悪い?」

「あ……」


 俺は慌てて笑顔を作った。


「大丈夫。……何でもない」

「……そう。じゃあ、帰りましょ」

「えっ?」


 俺は驚いて伽羅さんを見た。


「まだ途中みたいだけど、いいの?」

「最低限の仕事は終わったしね。……家まではタクシーでいい?」


 嫌だ、待って。ちょっと待って。

 何かに囚われそうになるのを振り切るように、颯爽と歩き出そうとした伽羅さんの手を思わず掴む。


「……伽羅さん!」

「ん?」

「まだ、ちょっと……」


 何だか、身体がゾワゾワする。このまま独りで家に向かったら……立ち直れない気がする。


「独り……は……」


 どう言ったらいいかわからずそう呟くと、伽羅さんはじーっと俺の顔を見た。


「……ま、明日は土曜日だけど。学校は?」

「まだ国外に居る予定だったから……来週の月曜日から行くんだ」

「ふうん。……じゃ、保護者付きで夜遊びしようか」


 そう言うと、伽羅さんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「でも、お家はいいの?」

「……連絡すれば大丈夫……」

「そっ。じゃ、行きましょ。……あ、でも、まず着替えなきゃね」


 伽羅さんは俺の腕を取ると、楽しそうに笑って歩き始めた。


   * * *


 ――パーティ用の衣装を脱いで自分の服に着替えると、伽羅さんが「ろくに食べてなかったでしょ」と言ってレストランでご飯を食べさせてくれた。

 街を歩いて、目に付いたお店に飛び込んだり、伽羅さんのお気に入りの場所に行ったり……とにかくあっちこっちに引っ張り回されたけど、余計なことを考えなくて済むから俺はとても救われた。


 その間も……伽羅さんは一度も、俺に「どうしたの」とは聞かなかった。

 それが何だか心地よくて……脇腹の痛みも癒されていくような感じがした。


「……さすがにこれ以上はマズイわね」


 伽羅さんがスマホの時計を見た。……午後11時23分。


「まだ……帰りたくないけどな……」


 思わずそう呟くと、伽羅さんがちょっとドキッとするような色っぽい顔をした。

 俺は一滴も飲んでないけど、伽羅さんはパーティでも外のお店でも飲んでたから……ちょっと酔いが回って来たのかも知れない。


「そんなこと言われると、持ち帰りたくなっちゃうわね」

「……別に、いいけど……」

「少年よ……意味が分かって、言ってるのかね?」


 おどけてそう言うと、伽羅さんは車道の方に向かって歩いて行った。

 追いかけて、腕を掴む。


「一応、わかってる。……彼氏にもペットにもなる気はないけどね」

「ふうん……?」


 車道を走っている車のヘッドライトが、一瞬、伽羅さんの顔を照らした。

 伽羅さんは眩しさに一瞬目を細めたものの……口の両端を上げ、笑みを浮かべていた。

 それは、背筋がぞくっとするほど……奇麗な唇だった。


「……よろしい。では、ついてきたまえ」


 伽羅さんは相変わらず変なキャラのまま、俺の腕を取った。

 そしてタクシーを止めると……吉祥寺のマンションの住所を告げた。

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