9.トーマの想い

 シャロットを引き戻した瞬間、目の前に車が現れる。

 車から庇うようにシャロットの身体を抱え、咄嗟に後ろに飛びのく。

 目の前の車が急ハンドルを切り――そのブレーキ音が耳をつんざいた。


 ――車は大きくうねり、対向車線にはみ出して止まった。

 幸い対向車はなく、事故にはならなかった。

 俺はシャロットを抱えてへたり込んだまま、荒い息をついた。


「――んだよ、このガキ!」


 運転手が顔を出して、罵声を浴びせる。


「すみません、本当にすみません! よく言って聞かせるんで……」


 とりあえずそう言うと、運転手は忌々しげに舌打ちをした後、再び凄い勢いで走り去っていった。


「トーマ兄ちゃ……ごめ……オレ……」


 シャロットが泣きながら俺にしがみつく。


「怪我はないか? どこも痛くないか?」

「ない……ごめ……」

「ねぇ、トーマさんは? どこも何ともない?」


 暁が心配して、へたり込んでいる俺に手を差し出した。


「いや……」


 その手を取り、立ち上がろうとして――思わず顔をしかめる。

 左足に痛みが走った。


「あー、ちょっと、捻った……かな……」

「えっ!」


 シャロットの顔が青ざめる。俺は慌てて手を振った。


「ああ、大丈夫。前にもやったことがあるから、冷やせば……」

「でも……」

「シャロット、ちょっとどいて。オレが肩を貸すから」


 暁の冷静な言葉に、シャロットはビクッとして俺から離れた。

 俺は暁の肩を借りて、とりあえず和室まで連れて行ってもらった。

 湿布を貼ると、痛みも少し治まって来た。


「……あまりひどくはなさそうだな。明日は仕事も休みだし……様子を見て、必要なら病院に行くよ。ユズにでも頼んで……」

「じゃあ、オレから連絡しておく。トーマさん、今日、泊まっていってもいい?」

「それは構わんが……」


 俺はまだ青い顔のまま震えているシャロットを見た。


「――シャロット」

「え……」


 シャロットがビクリとして俺の顔を見た。


「さっきの話だけどな。――拒絶したんじゃないんだ。ちょっと想定外で……混乱しただけなんだ」

「……」

「時間をくれ。……とは言っても、さんざん待たせた訳だし……そうだな……」


 言いかけると、シャロットは激しく首を横に振って

「いいんだ、ごめんなさい」

と蚊の鳴くような声で言った。


「オレ……頭に血が上っちゃって、話す順番も、グチャグチャだったし。しかもトーマ兄ちゃんに、け、怪我を……」


 ポロポロと言葉をこぼしている間に、瞳に涙がいっぱい溜まる。シャロットは、かなりショックを受けたようだ。

 俺はシャロットを慰めるために、ちょっと笑った。


「ああ、もういいから。……暁、少し任せた。散歩にでも連れて行ってやって」

「……うん」


 暁は頷くと、「ほら行くよ」と言ってシャロットの手を引いた。

 二人が玄関から外に出て行くのを見送ると、溜息をついた。


 足を引きずりながら縁側に出ると、ゆっくりと腰かけた。

 今日は……天気が良かったから、月がとても綺麗に見える。満月だ。


「……時間をくれ、か……」


 自嘲気味に呟いた。


 出会ってから5年――シィナは、どんな気持ちでいたんだろう。

 再会してから4年――記憶がないフリをしていた俺を、どんな気持ちで見つめていたんだろう。


 俺は……女王として頑張ってるよ、えらいな、これからも頑張れよって……多分、そんな感じの言葉しか、かけてこなかった気がする。

 それでも、シィナはふと昔の嬉しそうな笑顔に戻ることもあって……。

 もっと早く言ってくれれば……って、言える訳ないか、そんなこと。


 ――シルヴァーナ様は……自分の孤独に巻き込んでしまうって。トーマ兄ちゃんに他に好きな人ができたらどうするのって聞いたけど……きっとトーマにとってはその方が幸せね、って。……淋しそうに笑うんだ。


 シャロットが泣きながら言っていた台詞を思い出す。


 ……馬鹿だな。シィナ以外の人間と幸せになる意味が、どこにあるんだよ。

 そんなこともわからずに……。

 ――いや……馬鹿なのは、俺だ。

 シィナがわからないのは、当たり前だ。

 だって――俺は、言ってこなかったんだから。

 自分の能天気さに吐き気がする。


「――シィナ……!」


 何て言ったらいいか、わからない。

 謝った方がいいんだろうか。この先のこととか、考えた方がいいんだろうか。

 でも……まだ無理だ。何も考えられない。


 ただ――今すぐ、会いたい。

 会って、抱きしめたい。

 ずっと好きだったし――この先もシィナしかいないよ、と伝えたい。

 いっぱい我儘をきいて――甘えさせてやりたい。

 俺の前ではただのシィナでいいんだぞ、って言ってやりたい。


 いや……逆だ。

 俺の前では素のままでいてくれって言いたいんだ。

 俺にしか見せない顔を、見ていたい。



 ――カタッ……。


 不意に、玄関の戸がわずかにきしんだ。

 シャロットもそろそろ落ち着いたかな。二人が散歩から帰って来たのだろう……。

 そう思って、開け放しにしてあった和室の襖から玄関の外を窺った。

 確かに二人の人影が見えて……。


「えっ……」

「きゃっ……」


 しかしそのとき――急に強い風が吹き込んだ。ゴオォッという唸りが耳をつんざき、思わず両耳を塞ぐ。

 玄関の戸は閉まっているのに……突風!?

 それに、この気配は……!


「……シィナ……!」


 しかし、叫んだ次の瞬間には、風も気配も、すべてがかき消えていた。

 嘘のように静まり返っている。物凄い風が吹き荒れたのに、部屋は何も荒らされていない。

 そして、玄関の外にいたはずの二人は……忽然と姿を消していた。

 

 状況だけ見たら大騒ぎするところなのだが……何が起こったのか、俺は漠然と理解していた。

 多分、シィナだ。理由は分からないが、二人をウルスラに呼び戻した。


 シャロットがこっちの世界に来たことは、当然シィナには内緒だっただろう。

 それが、バレて……?

 それにしても……シィナにしては、やり方が荒っぽいような……。

 何かあったんだろうか。でも、今の俺には何も……。


 そう考えて、俺は再び縁側にのろのろと腰かけた。

 

 そうなんだよ。今の俺には、どうすることもできないんだ。

 自分の力が弱いこと――今日ほど虚しく感じたことはない。

 会いたいときに、会えない。助けてやりたくても、助けられない。

 俺は……。


 複雑な思いを抱きながら、俺は満月を見上げた。



 ――そのとき。

 月が、割れた。



「……!」


 いや、違う。

 俺の目の前の視界に……急に切れ目が現れた。

 これは……あのときと同じだ。シィナに、初めて会ったとき。


 ――トーマ……!


 シィナの声が聞こえる。

 目の前の光景が、スローモーションのように見える。

 切れ目から紫色の光が溢れ……金色の髪をなびかせた紫色の瞳のシィナが現れる。

 まるで天女のように……ふわりと庭に降り立つ。


 俺は慌てて立ち上がろうとして……左足の痛みに、顔を歪めた。思わず膝をつく。


「ぐっ……」

「トーマ!」


 顔をしかめたまま上を向くと、シィナがすごい勢いで俺に抱きついてきた。

 どうにか抱きとめる。シィナの細い腕が俺の首にからまる。

 ちょっと苦しい……と思ったが、シィナの身体が小刻みに震えているのがわかった。

 泣いてる……?


「――私のこと、忘れててもいい。なかなか会えなくても、いい。でも、お願い……私の知らないところで、いなくならないで! 勝手に、死なないでー!」


 シィナはそう叫ぶと、激しく泣き出した。

 いったい、何をどう解釈したんだ。

 戻ったシャロットはどういう説明を……。

 いや、二人が消えてからそんなに時間は経っていない。多分、ロクに話もきかずに飛び出して来たに違いない。


 そうだ。シィナはもともと、かなり自分勝手な奴なんだよ。

 忘れていても、会えなくてもいいから、勝手に死ぬなって?

 忘れさせたのは、シィナだろうに。

 俺は忘れたくなかった。……会いたかった。

 それに、勝手に死ぬな、とは……。別の世界にいるんだから、いつも見張っている訳にはいかないだろう。「これから死ぬから」と宣言して死ぬ訳もない。

 ――本当に、無茶を言う……。


 そう思うと――たまらなく愛おしくなって、俺は力いっぱいシィナを抱きしめた。


「まったく……」

「……トーマ……?」

「勝手に殺すなよ。俺はどこも……」

「だって、シャロットが青ざめてうろたえていたわ。トーマも、苦しそうに……」

「ああ、足の怪我が痛かっただけ。シャロットは……あいつを庇って怪我したから、責任を感じてたんだろう」

「そ……」


 シィナの身体から力が抜けた。


「そう……ごめんなさい、私……」


 シィナはそう言って俺から離れようとしたが、俺はそれを許さなかった。

 頭を抱え、シィナの身体全体を自分に押しつける。シィナが困ったように身じろぎしているのが伝わる。


「え、あの、トーマ……」

「――駄目だ。しばらくは、このまま……」


 そう言いながら、俺は溜息をついた。


 何から伝えたらいいか分からないけど……とにかく。

 ――とにかく、ここにいてくれ。


「本当に我儘だな、シィナは」

「え……」

「ずっと一緒にいろって言ったくせに、俺の記憶を奪った」

「そ……」


 シィナが逃げ出そうとする気配がしたので、俺は自分の腕に力を込めた。


「でも……俺のためだったんだよな。我儘で自分勝手だけど……いつも一生懸命だ。俺はそんなシィナが……好きだよ」

「や……駄目……!」


 紫色の風が巻き起こる。

 シィナの身体が離れたのがわかったが――俺はかろうじて、シィナの腕を捕らえた。


「……逃げるなよ」

「だって……私……駄目なの」


 俺に右腕を掴まれたまま、シィナがぷるぷると首を横に振った。


「トーマに……何も……あげられないの。立場も……あるし……自由はないし……。何より、トーマを幸せに……」

「シィナがいればいい」

「……え……」

「――全部わかってるから。女王じゃない、ありのままのシィナを……俺にくれないか」


 俺はそう言うと、シィナの右腕を引っ張ってもう一度抱き寄せた。


「全部わかってるって……全部?」


 シィナがポロポロ涙を流しながらじっと俺を見上げていた。


「うん」

「トーマを……独りきりにさせることも……?」

「シィナがいるから二人きりだろ」

「……」

「シィナがいないと――俺は幸せになれないんだよ」


 そう言うと――俺はシィナの頬に触れ……紫色の涙を唇で拭ってやった。


 ゆっくりと、周りの景色がぼやけて――傾いでいくのが分かった。

 ――開け放した窓から……満月の光を感じる。

 畳に広がる豊かな金色の波を、美しく照らしていた。



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