19.朝日の決意(1)

「えっと……これは、第3段階まで終わってるわね。だから後は、イチケンに回せばいいかな」

「はぁい、わかりましたー」


 今年入社した若い女の子が、のんびりとした返事をして歩いて行く。

 武田さんという、ほんわかとした口調とは裏腹になかなか根性のある女の子で、私は結構気に入っていた。


「上条、これは……」

「あー……そっか。そうですね、これは私がやらないと駄目ですね……」

「頼むよ。最後まで、ごめんな」


 私より5年先に入社した男の先輩が、申し訳なさそうな顔をした。私は「いいえ」と言って微笑んだ。

 彼は斎藤さんといって、私に仕事の仕方を教えてくれた先輩だ。

 暁のことやテスラのことで私が急に会社を休むことがあっても、いつもフォローしてくれた。

 私が会社をやめることになって一番迷惑を被ったのは、きっと彼だろう。


 時は流れて……10月31日。私は、2年半働いた会社で、引き継ぎに追われていた。


 あの後……ドゥンケのいた島から帰って来た次の日、私はすぐに辞表を出した。

 8月には退社できると思ったのに、プロジェクトがなんだの研究がどうだの、と何だかんだ理由をつけられ、結局今日まで引き延ばされてしまった。

 でも、自分の身勝手なんだし、最後までできることはちゃんとやりたい。


「旦那さんのところに行くんだって?」

「……ええ」


 口より手と頭を動かした方がいいんじゃ、と思いながら返事をする。


「どこの国だったっけ?」

「スウェーデンです。……あ、この資料の確認お願いします」

「はいよ。……しかしあれだね。上条はシングルマザーだと思ってたよ」

「そうですよ。正式には結婚していないので……あ、確認が終わったら戻して下さい。後がつかえてるので」

「おう。これはオーケーだな。でも、今どき旦那について外国まで行くって……」

「斎藤さん、私の話はもういいでしょ。ちょっと集中しましょうよ」


 さすがに面倒になって注意すると、斎藤さんは「ごめん」と言って下を向いた。


「上条さんがいなくなるから、淋しいんですよ~。私も淋しいですもん」


 戻って来た武田さんが明るく言う。

 斎藤さんは「うるせぇな」と呟くと、少し顔を赤くした。

 私も、この職場はやりがいもあるし、楽しかった。

 でも……今日で、終わりだ。責任もって、やれることはやっておかないとね。


   * * *

 

 ドゥンケの島から戻ってくると、散らかっていたはずの書類は片付けられていて、ファイルも書棚に戻されていた。

 心臓が、ドキリと音を立てた。


 ひょっとして……誰かが、見た?

 でも……勉強中の暁はともかく、ママはパラリュス語なんて読めないはずだし……。


 震える手で、もう一度ファイルを取り出す。

 どうして……誰が、これを読んだの。


 あまりの必死さに――どうやら私は無意識にフェルを使ってしまったらしい。

 ぎゅっとファイルを握りしめると――微かな声が聞こえてきた。


 ――ごめん、朝日。


 ユウの……喉の奥から絞り出すような声だった。


「……ユウ……!」


 私は思わず叫んだ。


 ユウが……ユウが、来たの?

 これを見てしまったの? 自分の命のこと、知ってしまったの?

 でも、どうしてこんな声が……。


「――朝日」


 声が聞こえて――私はドキリとして扉の方に振り返った。

 ……ママと暁が並んで立っている。


「お帰りなさい、朝日」

「お帰り、朝日。……ずいぶん泥だらけだね」

「……二人……とも……」


 二人の顔を見ると、急に気が緩んでしまった。

 自分一人の胸に収めて……なんて、とてもできない。


「ねぇ……ユウが、来た。どうしよう。知ってしまった。私……どうしたら……!」

「待って……朝日。落ち着いて」


 ママは駆け寄ると、私をぎゅっと抱きしめてくれた。


「とりあえず、お風呂に入りなさい。――暁、タオルを濡らして持ってきて。朝日ったら足の裏も真っ黒。まず拭かなきゃ……」

「わかった」


 暁が急いで廊下を駆けてゆく。


「ママ……どうして……」


 ママも暁も――私が逃げて泣いていたのをわかっているようだ。

 ユウが来たことも……ユウの身体のことも、知っているの……?


 ママはゆっくりと首を横に振ると、もう一度抱きしめてくれた。



 お湯に浸かると……今日一日のことが目まぐるしく頭を駆け巡って、またちょっと泣いてしまった。

 だけど、ドゥンケも言っていた。「まだ死んでない」って。

 カンゼルの資料には、フェルを供給するという案もあった。

 他者のフェルは受け付けないから無理って書いてあったけど、私なら……。

 私なら、ユウの寿命を少しでも伸ばすことができるかもしれない。

 こんな風に……やれることが、少しずつ見つかるかも。


「……よし!」


 私は自分の顔を両手で思い切り叩くと、お風呂から勢いよく上がった。

 急いで服を着て早足でリビングに行くと、ママと暁がソファに座って私を待っていた。


「……お待たせ」


 私は二人の顔を見比べると、ゆっくりとソファに腰掛けた。

 そして、テスラでのユウの様子から話し始めた。

 フェルの量が減っていること、使わないように意識して閉じていること。

 気になって調べて――ユウの命に限りがあることに気づいたこと。

 パニックになって……とりあえず逃げ出してしまったこと。


「……どこに行ってたの?」


 暁が聞いたけど、私は答えなかった。

 だって……私にも、よくわからなかったから。


 パラリュスのどこか、かもしれないけど、ひょっとしたら全然違う世界かもしれない。

 いずれにしても、あの閉ざされた島は……まだそっとしておいた方がいい気がする。


「それでね……私――テスラに……行きたいの」

「……」

「フェルをあげたり……カンゼルの資料をもう少しちゃんと読んで、治療師に話を聞いたり……できることは、何でもしたいの」


 私は暁を見た。

 暁がショックを受けていたらどうしよう……と思ったけど、暁は身じろぎもせず、真っ直ぐな瞳で私を見つめていた。


「ごめん、暁……。まだ中学生なのに、傍を離れて。でも……暁を連れて行くことは、できない」

「……そうだろうね」


 暁は妙に冷静に頷いた。


「オレも、ここに残るつもりだったし」

「……つもり、だった……?」


 もうわかってる、という感じの暁の返事に――私は、さっきのユウの声を思い出した。


「ユウがここに来て……暁は、会ったのね。ねぇ、ユウはどうやって来たの? 無理してゲートを越えたの? 来たあと、いったい……」

「ユウは次元の穴から来たから、大丈夫。オレとシャロットで協力したんだ」

「次元の穴……? どうして……」

「――アオは、私に会いに来たのよ」


 静かなママの声に、胸がドキリとする。

 ママの顔を見ると、少し悲しそうな……それでいて何かを覚悟したような、そんな顔をしていた。

 

 見覚えがある。

 ――パパの最期の話を、ママに伝えたときだ。


「アオは自分の身体のことをわかっていて……私に最後の挨拶をするつもりで――あなたに内緒で来たの」

「最後って……」


 私はまた涙がこみ上げてくるのを感じた。


「まだ、わかんないじゃない……それに、どうして私に内緒にするの? 私……」

「そんな深い意味じゃないわ。朝日が言ったように、アオがこっちの世界に来るのは難しい。私にだけは事実を伝えて、謝りたかったのよ。そして、もしあなたが本当のことを知ったとき――あなたの心を救ってほしかったんだと……思うわ」

「どうして……!」


 私はボロボロ涙をこぼした。

 両手で自分の顔を覆う。


「どうして私のことなの。もっと、自分のことを考えてよ。今度は、私が……ユウを守りたいのに……!」

「――私もそう言ったわ」


 ママの声が不意に熱を帯びた。

 顔を上げると……ママの瞳も潤んでいた。


「アオを見ていて……ヒロを思い出したの。きっと、ヒロもこうだったのね。独りで、必死で私を……私と朝日を守ろうとして……」

「……」

「馬鹿ね。彼らが思っているより……女はずっと強いのよ。――そうでしょ? 朝日」


 ママがにっこりと微笑んだ。

 私は涙を拭くと、力強く頷いた。


「……うん……!」


 ママがぎゅっと私の手を握ってくれた。


 ――ねぇ、ユウ。

 ユウはいつも、私のことを考えて、全力で私を守ってくれたよね。

 だから……わかってくれる?

 私も、同じなの。ユウのことを守りたいの。

 私にできることは、何でもしたいのよ。


「……そうだよね」


 暁がポツリと呟いた。


「朝日といい、ばめちゃんといい、シャロットといい……オレの周りの女ってみんな強いよね。本当にそう思う……」


 何だか妙に実感がこもっている。

 ……間違ってはいないけど、まだまだ早いわよ。


「……生意気なこと言わないの」

と言ってちょっと小突くと、暁は

「素直な感想なのに……」

とブツブツ言いながら頭をさすった。


   * * *


 この日を境に、私の日常は大きく変わった。

 会社のこともそうだけど……家でも、カンゼルの資料を読み漁った。

 テスラに行くのなら、フェルティガエの医療について本格的に動き始めなければならない。

 まずはテスラの治療師からいろいろなことを教わって……ユウがウルスラに行くときは、ウルスラでも話を聞かなくちゃ。

 ただ毎日、ずっと一緒にいるだけじゃ駄目。それじゃ、単なる依存だ。


 ちなみに、次元の穴に関するいろいろな話は、暁がすべて白状した。

 シャロットがかなりの勉強家で賢いとはわかっていたけど……ここまでとは、正直驚きだった。

 暁のフェルポッドの件も本来なら叱らないといけないんだけど、こうなってしまったら容認するしかなかった。

 ゲートの開き方はまだ教えてないし、越えるには制限があるからそう何回も往復できる訳ではない。

 掘削ホールの方がフェルを多く消費するので心配は心配なんだけど、仕方がなかった。

 それに、ユウがミュービュリに来れたのも、暁のおかげだった訳だし。


 ユウには……あのあとすぐに、会いに行った。

 最初に顔を合わせたときは抱きついて泣いてしまったけど、私が思ったこと、やろうとしていることを、一生懸命に話した。

 私は、夜斗の幻惑を借りてでもすぐに会社をやめようと思っていたけど、ユウに止められた。

 ユウは、しばらくは誰にも言いたくない、と強い口調で言った。

 言ったら……自分で限界を決めてしまうみたいで――未来を諦めてしまうみたいで、辛い、と。


「だから朝日は、ミュービュリでゆっくりと準備してて。俺が迎えに行くから」

「迎えに……」

「瑠衣子さんと暁にも言ったんだ。今度改めて朝日を攫いに行くからって」

「……わかった」


 私は大人しく頷いた。


「――待ってる」


 それでも……ただ待ってるのは辛いよ。

 待ちきれなくなって、すぐにテスラに行っちゃうかも。



 そんなことを考えていたけど……それからの3ヶ月は、思ったよりずっと短かった。

 ユウは指導者としての仕事も徐々に減らすことにしたらしい。

 シャロットと小さな子たちは自分で見るとして、他はエルトラの神官や優秀な教え子に託すことにしたようだ。

 伝えられることは伝えて、休んだり本を書いたりする時間に充てるらしい。


 ……私はユウのために、何ができるのかな。

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