第16話

 寝室のドアの前に立つ。

 この向こうで、毛布に包まったままであろうネムに掛ける言葉を組み立てることは諦めた。思い返せば、〈登録者〉と接触する際のルールを痛いほど教え込まれたあの日、私は悟っていたのだ。言葉で以って彼女を、〈登録者〉を癒すことなど、少なくとも私などには到底叶わないのだということを。

 頭を占める不安を無視し、ドアノブを回す。さあ、もう後戻りはできない。そう己に言い聞かせ、そのままドアを開ける。

「ネム?」

 ベッドの上の人影は、返事もしなければ身じろぎの一つもしない。

 私はその隣に腰を下ろし、毛布の上からさすってやる。呼吸に合わせて動く背中が、時折ピクリと震えるのが分かる。

「大丈夫。サヨはいなくなったりしないよ」

 そういえば、サヨは今どこにいるのだろうか。この部屋にいるのは、おそらく間違いないだろう。こうして〈登録者〉が不安を覚えている時にこそ、〈REM〉は必要なのだから。

 ネムは相変わらず何も言わない。ひとたび破った沈黙が再び訪れるのがなんだか恐ろしく、私は口を動かし続ける。

「明日、病院に行こう。帰りにみんなでレストランに行こうか。それから、サヨにおもちゃでも買ってやろう。ボール遊びだけじゃつまらないかもしれないしね」


「なんで、あなたにそんなことが言えるの?」


 ネムの静かな声には、しかし、恨みのようなものが確かにこもっていた。

「なんで、あなたにサヨのことが分かるの? 今、サヨがどこにいるかも分からないくせに」

 ネムが毛布を脱いで、こちらを見る。怒りをぶつけるにもぶつけきれないというような、痛々しい葛藤が滲んだ眼で。

「……ごめん」

「違う。謝ってほしいんじゃないの。ううん、言ってほしいことなんて一つもない。私はただ、あなたにサヨを受け入れてほしいだけ」

 毛布が剥がれたことで、ネムが私には見えないものを、サヨを、その胸に抱きしめていたことが分かる。

「サヨに会うことが、あなたにとって難しいことだっていうのは知ってる。でも、私の方も辛いの。だって、私もこの子も三人で暮らしてるつもりなのに、あなただけは今でも私と二人だけで暮らしてる。サヨがあなたに触れて、それに気づいてもらえなくて寂しそうな顔をしてるのを、あなたは知らない。それが仕方のないことだって、自分自身に言って聞かせるのも、もう限界なの。もう、五年も経つんだよ」

 もう五年も経つ。にも拘らず、君はサヨを失ったという傷から目を背け続けている。五年も経つ、というのは、むしろ私の台詞だ。

 私はその言葉を飲み込んで、代わりにまた「ごめん」と口にした。

「サヨのこと、可哀そうだと思わないの? せっかく帰ってきてくれたのに、父親に受け入れられずに無視されるなんて。だいたい、『サヨが大切だから会えない』っていうのが、私には納得できないの。大切なら会いたいはずでしょう? 本当はもう、この子のことなんてどうでもいいの?」

 君が「この子」と呼ぶそれは、本物のサヨじゃない。本物のサヨは、君に会えないまま、今もあの街はずれの墓地で、土の下に埋まっている。それを思うと、とても贋物など受け入れられない。

 私はその言葉ももちろん飲み込んで、阿呆みたいに「ごめん」を繰り返す。

「……恐いの。今日のあの子みたいに、サヨも突然いなくなっちゃうんじゃないかって。もう二度と、三人でなんて暮らせなくなるんじゃないかって。あなたには分からないかもしれないけど」

 「ごめん」。他に選べる言葉が見つからず、私は繰り返す。

「だから、違うの。謝られたって、どうしようもないの。言葉なんていらないから、証明してよ。この子を愛してるって、証明して」

 悲痛に歪んだネムの表情に気圧され、私は己のこめかみに手を伸ばす。


 ただ、拡張現実オーグメントの設定を、ほんの少しいじるだけ。

 それだけで、ネムを救うことができる。

 このひどい息苦しさから、逃れることができる。

 ミヤコワスレを植え続けるよりもよほど有効な手立て。


 だが、私は手を下ろした。

 棺の中で、膝を抱えて泣いているサヨ。そんな想像が、私を踏みとどまらせた。

「……もう、いい」

 サヨは毛布を被り直し、私に背を向けた。

 私は腰を上げ、ドアノブに手を掛ける。

 寝室を出る直前、どうしても何か言わずにはおれず、また「ごめん」と呟いた。

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