第8話

 あまり混んでいない地下鉄に乗り、半時間ほど揺られ、自宅の最寄で降車する。そこから我が家までの道中に「ヒマワシ花店」はある。

 独特な青臭さのする店内に客の姿はなかった。地下鉄が空いているのは大歓迎だが、勝手に愛着を抱いている店がこのザマというのは寂しいし、いささか心配にもなる。とはいえ、繁盛したらしたでそれも寂しい気もしてしまう。このこじんまりとした店には、閑古鳥の鳴き声が言いようもなくふさわしい感じがする。

「いらっしゃいませ」

 店主のヒマワシ氏が、世話をしていた花から顔を上げる。白くなっているとはいえ、六十を過ぎているであろう男にしては豊かな髪をしている。同じように白い口髭と丸眼鏡、そして低く太い声色。手本のような老い方をした男だと、見るたび思う。

 ヒマワシ氏に軽く頭を下げ、一応店内を物色する素振りを見せる。買う花は決まっているが、そうすることに決めている。花に心をときめかせるようなロマンチストでもないが、せっかく入った花屋で目当てのものを買うだけというのも味気ない気がする。そしてそれ以上に、いかにも常連という風に振舞うのがなんとなく気恥ずかしいというのが理由だった。客側が勝手に常連だと思い込むのも厚かましいが。


 棚に並べられた苗たちをぼんやりと眺めながら、初めてネムと出会った日のことを思い出す。亡くなった恋人の墓に供える花を買うのだという彼女に、勝手に着いていったのだ。その日知り合ったばかりだというのに、我ながらずいぶん図々しいことをしたものだ。とはいえ、あそこで引き下がっていれば二度と会うこともなかっただろうと思うと、少し誇らしい気分にもなる。

 ネムは、昔の恋人の死から立ち直った。それも〈REM〉などに頼らず、少なからず私の協力によって。実際、彼女は何度もそういう意味のことを私に言ってくれた。

 知り合った日の別れ際に。

 なんでもないデートの最中に。

 初めて二人で明かした夜に。

 サヨが生まれた時に。

 あの子の寝顔を二人で見守っている最中に。

 「あそこにあなたがいてくれてよかった」と。照れくさそうに栗色の髪を揺らしながら、しかしはっきりと、言葉にしてくれた。

 そのたびに、手を伸ばしてみてよかったと思った。友人といえばメザマシとクレサシぐらいしかいない私が、うっすらと夢見てきたもの。しかし叶いようもないと半ば諦めていたもの。ネムはそんな何かしらの結晶のようだった。

 それが今、燃え落ちて灰になりかけている。今度は、支えるべき立場にある私の非力のせいで。

 焦燥が腹の底からこみ上げてくる。頭を万力でぎりぎりと締め付けられているような感じがする。花屋に通うよりも、もっとすべきことがあるのではないかと不安になる。


「ミヤコワスレじゃあないのですか、いつもの」

 いつの間にか、すぐ横にヒマワシ氏が立っていた。

「ええと……そうです、ミヤコワスレ」

 私が慌てて苗を手に取ろうとすると、ヒマワシ氏も慌てて首を横に振る。

「ああ、いや、何も急かしたわけではありません。ただ、今日は別のを買っていかれるのかと、気になりまして」

「さすが客商売の方だ」

「すっかり覚えてしまいましたよ。定期的にお見えになる方は、ほとんどいらっしゃいませんから」

 ヒマワシ氏はそう言って穏やかに笑って見せる。見た目に違わず物腰も柔らかい。ますます好感が持てる。

「昔はもう少し良かったんですがね。それこそ、この時期は」

「この時期?」

「ほら、もうすぐ『焼失の日』でしょう」

 言われて思い出した。そういえば、もうそんな時期だ。

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