校庭を超えたら

 紙飛行機が飛んでいくのを、一ノ瀬優はぼんやりと眺める。


 10月も半ば、少し冷たくなった風に乗り、不安定な軌道を描いて前へ進むのを、美術室の窓にもたれかかりながら、ただ見つめる。


 空を飛べたら、何か変わるだろうか。何処か遠くに行けるだろうか。

 あの紙飛行機に、乗れたなら。


 子供の頃から優は走るのが好きだった。

 速く走れば、何処か遠くに行けると思っていた。

 毎日走り込んで、中学で陸上部に所属してからは、どんどん速くなった。

 ケガもなく、順調にタイムが伸び、高校はスポーツ推薦で入学した。

 もっと速くなれば、もっと遠くにいけると、優は疑わなかった。


 しかしある日突然、優は気づいてしまう。自分の限界に。


 充分に速くなったが、自分より速い人はたくさんいて、練習を重ねても追い付けはしないらしい。そして、自分より速い彼らも、遠くに行けそうにない。


 途端に足は動かなくなった。

 高校最後の大会の、奇しくも優勝を決めた瞬間だった。


 あれから、大学からの誘いを断り、残りの高校生活をだらだらと過ごしている。

 走らない生活は優には遅すぎて、1日が、一ヶ月が、一年が、途方もなく先のことに思えていた。


 明日は勝手にやってくるのに、未来には行けない気がして、一応進学だからと暇潰しに勉強はしているが、無気力だった。


 勉強が手につかなくなると、優はすぐに、夢中で走っていた理由を考えてしまう。

 どうして遠くに行きたかったんだろう。遠くって、何処だ?


 考えても何にも浮かばずに、もう何日も経過していることと、この先の年月の長さに、思わずため息を溢す。

 そして、また遠くに行きたいと思ってしまう


「おおー、今日のは結構飛ぶ」


 呑気な声に、優の頬も思わず緩む。

 眠そうな目を細めて、羊みたいなもこもこした髪の前田ミミが微笑み、ピースサインを優に向ける。


 彼らは小学校から学校が一緒だが、話したのは1ヵ月前が初めてだった。

 お互い、存在は知っていた。それだけの関係だった。


 二人が出会ったのは、紙飛行機がきっかけ。

 家に帰るのもなんとなく嫌だった優は、放課後フラりと校庭に出て、運動部の練習風景をなんとなく見ていた。


 空が青い。暑いしまだ夏だこれ。

 汗を拭いながら日陰に逃げようとして、それを見つけた。

 風にあおられながら、飛んでいく紙飛行機。


 練習中にも何度か見た記憶があった。考えてみれば、何処から来てるんだろうあれは。

 不思議になって校舎を仰ぐと、窓の桟に両肘をついて、紙飛行機を目で追っている女生徒の姿を見つけた。


 前田ミミだ。あいつが飛ばしてるのかな。

 少し考えて、優は行ってみることにした。


 階段を登って校舎四階。美術室と書かれたプレートを見るまでもなく、飾られてるのか置き場がないのか、廊下に雑然と置かれてる絵や石像が、美術室だと物語っている。


 ドアは開いていて、優が上半身だけ入って中を確認するのと、ミミが振り向いた瞬間が合わさった。

 目が合い数秒二人で固まった。


「一ノ瀬優?」

「そしてお前は前田ミミ」


 優もどうしてそんな返答をしたかわからない。ただ、この会話がなければ、二人は一緒に放課後を過ごすことなんてなかっただろう。


 二人して笑って、今まで関わらなかった時間を埋めるように、お互いの話をした。

 それから、なんとなく今も一緒にいる。


 紙飛行機を飛ばすのは、専ら、作業の途中だ。

 ミミは漫画を描いている。

 漫画が詰まると、深呼吸をして、適当な紙を折って、窓の外へと飛ばし、行方を眺める。


 卒業までに、校庭の向こうまで飛ばすのが目標らしく、その目標が達成される瞬間の見届け人として、優は任命されている。

 今日もまた、紙飛行機は校庭を越えない。


 優は知らなかったが、運動部の連中の何人かも、期待を込めた目で見つめている。そしてそういう生徒が、人知れず落ちた紙飛行機を回収してくれていた。

 こんなに近くで、知らない間にこんなことが起こってたんだなぁと、今さらながら優は笑った。


「なあ、ミミ」

「なに、ユー」

「なんで紙飛行機飛ばそうと思ったの? やっぱり、願掛け?」

「願掛け?」

「漫画の」

「あー。考えたことなかったなぁ」

「ほんとに?」

「そんな驚くこと?」

「いや、何か理由くらいはあるだろうって思ってたから」

「わたしはそんなに深くないのだ」


 胸を張って言うことかと思ったが、ミミが漫画にとりかかったため、切り替えの早さに笑いつつ、先程まで紙飛行機が飛んでいた空をぼんやり眺めた。


 風が緩く吹いている。この風に乗れば、もしかしたら。

 走っていた時、自分が追い風に押されたことを思い出して、少し懐かしくなった。


「でも、そうだなぁ」


 ふいにそんな声が聞こえ、優は懐古に浸ろうかとしていた意識を戻して、ミミの横顔を覗く。

 手を動かしながら、照れ臭そうに笑っていた。


「紙飛行機が校庭の向こうに行ったら、わたしも何処か遠くに行けそう、なんて、思ってたりなんかして。はい! この話おしまい!」


 元気に手を叩いて、ペンを持ち直す。

 優はつい笑ってしまった。

 おかしかったわけではなく、嬉しかったから。

 傍らの紙に手を伸ばす。


「俺も折ってみる」

「うへへへ、いいね。一緒に飛ばそう」

「お前笑いかたで損してるよな」

「かわいかろう」

「そういうところは嫌いじゃない」


 ミミがうへへへとまた笑う。

 優も口角が自然と上がる。


「できた!」

「俺の方が飛ぶね」

「いやいや素人には負けんよ」


 二人で窓の前に立ち、優は校庭の向こうを見つめた。

 校庭を越えたら、遠くに行ける。いいや。きっと、行こうと思えばどこへでも行けるんだ。


 だから、場所じゃないんだ。


 もしも、校庭を越えたら、何かわかる気がする。


 わからなくても、きっと、ミミといれば、何かわかる。優は何故だか、それだけは確信していた。


 もしも、校庭を越えたら。

 いいや、例え校庭を越えなくてもーー。

 二人の手から、紙飛行機が飛んでいった。

 


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