小さな物語たち
リリィ有栖川
あの人の肩の温もり
その人は、酷く美しかった。
長い睫毛をいつも伏せて、電車が来る前に必ず、薄い唇から溜め息を吐いた。
スーツに身を包む姿は凛としているのに、全体的にいつも儚げな雰囲気を感じる。
毎度その姿を見るために、隣のドアから乗るのだが、その日康平は、勇気を出して後ろに並んだ。
高校生の康平が初めて感じる、大人の魅力。
自信で変態的だと思いながらも、彼女から香る爽やかな香りに酔いしれ、彼女との背の差をなんとなく目で測る。
その時に、偶然に見てしまった彼女のスマートフォンに、息が止まる。
そこには、生への絶望がびっしりと埋め尽くされていた。
断片的に見える文字はどれもこれも目に余る。
康平が視線を反らそうとする前に、彼女の指が動き、文字が上へと滑っていく。
その文字の多さに辟易しそうになりながらも、康平はどうしてか、見るのをやめられなかった。
電車通過のアナウンスが聞こえるなか、少しの空白のあと、文字が現れる。
ねえ、私の背中、押して。
気づけば彼女は康平を見つめていた。
その大きな瞳を初めて真正面で捉えて、体の内側を何かが這うような感覚に襲われた。
少し押せば、涙が溢れそうな潤んだ双眸は、夜の海のよう。
震える手が、彼女の肩にそっと触れる。息が荒くなる。周りの人間が不審に思ってることなど、わからない。
そして、目の前を電車が通ろうとした。
手に力を入れ、康平はそのままーー
そのまま、肩を掴んで離せなかった。
電車が通りすぎる。続いて、到着のアナウンス。二分ほど間をおいて入ってきた電車は、何事もなくドアを開けた。
人が降り、そして入っていく。彼女も自然に飲まれていく。
「いくじなし」
少し高い声は、康平には笑っているように聞こえた。
いつの間にか膝をついていた康平は顔を上げたが、その表情を確認することは出来なかった。
電車が行ってしまう。膝をついている康平の元に、駅員が駆け寄る。
ああ、今日は遅刻だ。
何かが抜け落ちたように、そう思った。
それ以降、康平は彼女を見なくなった。
時間を変えたのか、別の人に押してもらえたのか。
幻だったとは、決して思えない。
あの震えた肩の感触が、今もその手に残っているのだから。
了
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