第五話 The happy princess ~prelude~
ⅰ
部室の扉を開く。いつものように。そうして、席につく。ふと、前を見る。いつもは、先輩が本を読んでいる。けれど、そこには誰もいない。そう、あの日、あの子を助けてから、先輩は部活に来なくなった。
きっと、先輩はどうするべきかを考えている。そして、その発端にあるのは僕だ。ここ数日、先輩のことが気がかりで、何も手につかなかった。だから、先輩を探そうとした。もう一度、ちゃんと話がしたくて。けれど、先輩は見つからなかった。図書館、部室、教室、どこを探しても、先輩の姿はない。代わりに、奇妙な光景が脳裏をよぎること……そう、『未来視』が多くなった。そして、そのなかで、僕は先輩を見つけていた。確かに、『未来視』が見せるものは、確定した未来ではない。そのことは先日のことからも明らかだ。けれど、ここまで、結果が一致しないことはなかった。まるで、僕を嘲笑っているかのように……
思わず、ため息が出そうになる。天井を仰ぐ。蛍光灯の柔らかな光に照らされる。そうして、僕は考える。先輩のことを。
(どうして、こんなにも、僕は先輩のことを考えてしまうのだろう)
最初は、ただ、恩を返したかった。命を救ってもらったのに、何も返せないのは嫌だったから。あるとき、先輩の涙を見た。先輩が何かを抱えていることを知った。そして、先輩を信じたいと思った。一人ぼっちでいるのを放っておけなかった。やがて、先輩にも色々な顔があることを知った。驚いた表情、頬を染め、照れた表情、悪戯っぽい表情……
こうして、先輩のことを考えていると、胸の奥が苦しくなってくる。苦しい。そのはずなのに……どこか心地よい。先輩のことをもっと知りたい。胸のおくから、温かいものがこみ上げてくる。
そう、愛おしい。いつの間にか、先輩は、僕にとっての大事な存在になっていたんだ……
そのとき、かすかな物音が聞こえた。音のほうに、視線をやる。どうやら、部室の扉のほうで、音が鳴ったようだ。また、音が鳴った。見ると、扉がわずかに開いている。扉は徐々に開いていく。やがて、そこから、あどけなさを残した顔立ちの少女が顔を覗かせた。先輩だ。
「穂鳥(ほどり)くん……今まで、避けてきてごめんなさい……今日はね。話があるの。大事な話」
小さな声。見ると、先輩の膝は震えていた。今にも、崩れないように必死に立っているようで……
「分かりました。聞かせてください。先輩の話を」
そうして、先輩は語りだす。ある少女の物語を。
ⅱ
物心ついたとき、私はあることに気付いた。
切っ掛けは些細なことだった。幼稚園で、友達と追いかけっこをしているとき、私は転んでしまった。今、思えば、なんてことない傷だったのかもしれない。けれど、当時の私にとって、それはとても恐ろしいものに思えた。膝頭から、真っ赤なものが滲み出していた。それは足を伝い、地面に落ちていった。ポツリ。ポツリと。まるで、傷跡は大きな生き物の口のようだった。そう、自分の身体が自分のものではなくなってしまったような……
だから、私は願った。時間よ、巻き戻ってください。お願いですから、怪我をするまえに戻してください と。荒唐無稽なお願い。きっと、母から読み聞かせてもらった話に影響をされたのだろう。けれど、ここは物語のなかではない。だから、そんなお願い、叶うはずがなかった。そう、普通ならば……
気付いたら、私は走っていた。目の前には、友達の背が見える。ふと、膝を見る。そこには傷跡はなかった。
私は歓喜した。私のお願いが聞き届けられたのだから。そして、私は気付いた。自分が時間を巻き戻せるということ……
最初、私は有頂天になった。気に入らないことがあると、すぐに時間を巻き戻した。そうして、自分が気に入るまで、時間を巻き戻した。何度も、何度も。
ある日、私は時間を巻き戻せることを友達に話してしまった。我ながら、馬鹿なことをしたと思う。友達は、こう言ってきた。そこまで言うなら、証拠を見せてみろよ と。私は得意げになって、時間を巻き戻した。ちょうど、数秒前に。そして、自慢気に言った。「どう?時間戻ったでしょう?」と。
友達の反応は冷ややかなものだった。「嘘つき」と罵られた。そして、私は知った。誰も、時間が巻き戻されたことに気付いていない。巻き戻された時間のなか、私は一人ぼっちだということに。
時間を巻き戻すことを止めれば、以前までの生活に戻れば、孤独に思い悩むこともなかった。けれど、私は知ってしまった。自分が時間を巻き戻せることを。今更、元の生活には戻れなかった。何度も、能力を使うことを控えようとした。それでも、嫌なことがあると、気が付いたら、時間を巻き戻してしまっていた。もう、どうしようもなかった。
やがて、私の周囲から、友達は姿を消していった。勿論、私が嘘をついたことは覚えていない。だって、時間を巻き戻したから。離れていったのは、他でもない。私が変わってしまったからだ……
それ以来、私は一人で過ごすようになった。小学校に入っても、それが変わることはなかった。ああ、これからも、私はこうしていくのだろう。心のなかを、諦観が埋め尽くしていった。やがて、私は本を読むようになった。一人でも、本を読むことはできたから……そして、私は物語の力に圧倒された。物語のなかでは、私は自由だった。何者にもなれた。孤独な日々のなか、私にとって、物語は救いだった。
ある日、私は体調を崩した。医者によれば、心因性のものだと判断された。過度のストレスが身体の異常を引き起こしているのだ と。恐らく、諦観、孤独によるものだったのだろう。私は時間を巻き戻そうとした。けれど、一人ぼっちの日々をもう一度送らなければならない。そう思うと、時間を巻き戻すことはできなかった。
定期診察の日。私は、待ち時間を潰すため、病院の中庭で本を読んでいた。いつものように。そのとき、声が聞こえた。女の子の声。見ると、中庭への入り口のところで、女の子が倒れている。そして、そのかたわらには車椅子があった。
一瞬の躊躇がよぎった。けれど、気付けば、その子のもとに駆け出していた。困っている子を放っておく、そんな自分にはなりたくなかった。
「大丈夫!ねえ、しっかりして」
声をかけた。けれど、反応はなかった。もしかしたら、意識を失っていたのかもしれない。誰かを呼べば、良かったのだろう。けれど、そのときの私は戸惑っていた。だから、自分で助けようとした。その子のことを。そうして、時間を巻き戻した。何度も、何度も。
やがて、私はその子を助けることができた。車椅子が傾き、その子が倒れそうになるところを抱き留めて。でも、そのときの私にはそれほどの力がなかった。だから、二人して、倒れ込む。中庭の草原に。
「ありがとう……あなたは」
少女がこちらを見る。ふわふわの髪の毛。まるで、お人形さんみたいだった。
「わたし……わたしは施音……天音施音っていうの」
「わたしは……星野朱鐘(ほしのあかね)よろしくね。施音!」
そう言って、少女は笑った。満開の花が咲いたように。これが、私と朱鐘の出会いだった。
出逢って間もなく、私と朱鐘は意気投合した。そう、私たちには共通の趣味があった。それは本を読むこと。聞けば、朱鐘は、長い間、この病院に入院しているとのことだった。そのあいだ、何冊もの本を読んだらしい。私たちは好きな本を教えあった。そうして、それぞれの世界を共有していった。
ある日、私は、朱鐘に、時間を巻き戻せることを告げた。あれ以来、誰にも、このことは話さなかった。勿論、両親にも……けれど、朱鐘ならば、受け入れてくれるかもしれない。そう思ったの。
「あのね……今から、変な話をするけど、笑わないで聞いてね……」
「うん、勿論だよ。どうしたの?」
「わたしね。時間を巻き戻すことができるの」
恐る恐る、そう言った。朱鐘の反応を見るのが怖かった。もし、あのときのように拒絶されてしまったら、そのような不安が頭をよぎった。けれど、私は朱鐘の瞳をじっと見つめた。真剣な気持ちが伝わるように。
朱鐘は複雑そうな表情をしていた。今まで、見たこともない顔だった。やがて、彼女は口を開いた。
「良いなぁ。私も……」
小さな、小さな声。朱鐘はどこか遠いところを見ているようだった。その視線は交わらない。そのとき、朱鐘が何と言っていたのか、私には分からなかった。
「え……朱鐘、今、何て?」
思わず、問い返す。すると、朱鐘はこちらを見る。ハッと我に返ったかのように
「ごめん!ちょっと、ボーっとしてた。最近、多いんだ」
「え、それって大丈夫なの?」
朱鐘は大変な病気を抱えているらしかった。そのとき、私はそれが何かまでは分からなかった。いや、意識しないようにしていたのかもしれない。いつか、この時間が終わってしまうことを認めたくなかったから。
「大丈夫、大丈夫。それより、時間を巻き戻せるって凄いね!ちょっとやってみてよ」
以前の記憶が甦ってきた。罵声、冷たい視線。心の中に黒々としたものが広がる。なんとか、それを抑える。朱鐘はそんなことを言わない。そう信じて。私は時間を巻き戻した。
「ごめん!ちょっと、ボーっとしてた。最近、多いんだ」
数秒前の光景。時間は巻き戻された。あとは、朱鐘にそのことを告げるだけだ。そう、告げるだけ、何てことないはずだった。けれど、気付けば、私の足は震えていた。
「施音、どうしたの?」
心配そうにこちらを見ている。その表情を見ていると、震えがおさまってきた。きっと大丈夫。
「あのね……今、時間を巻き戻したんだ。朱鐘は気付いていないと思うけど」
「え、そうなの」
朱鐘の口が大きく開かれる。そうして、朱鐘は口を閉ざす。沈黙。私は耐えきれず、目を瞑って、下を向いてしまった。誰にも信じてもらえない。当然だ。だって、証拠がないのだから。私は一人ぼっちだ。昏いものが満ちていく。そのとき。
「でも」
朱鐘はこう言った。
「わたしは信じるよ。施音の言うことを。だって、施音、そんなに辛そうだから」
その言葉に私は救われた。この世界のなか、一人ぼっちだと思っていた。誰とも、世界を共有することができない。そう思っていた。けれど、朱鐘は信じてくれた。高い高い壁を越えてきてくれた。そのことが堪らなく嬉しかった。
そうして、私と朱鐘の距離はより近づいた。幸せだった。誰かと一緒にいることがこんなに満たされることだということを、初めて知った。でも、幸せな時間は長くは続かなかった。
そう、朱鐘の病状が悪化した。
朱鐘は病室を移され、簡単に会いに行くことが出来なくなった。会えない日が何日も続いた。そうして、私は一つの決意を固めた。朱鐘に会いに行こうと。
そう上手くはいかなかった。あるときは、病院の先生に連れ戻され、あるときは、朱鐘の両親に門前払いされ。だから、何度も、時間を巻き戻した。そうして、私は朱鐘に会うことができた。
たった数日、それだけで、こんなにも変わってしまうものなのか。あのとき、私は打ちのめされていた。ベッドの上の朱鐘は、かつての面影がないほどに変わり果てていた。向日葵のような笑顔はない。顔には何本ものチューブが刺されていた。まるで、何とか、枯れそうな花を咲かせるように……
「誰か……いるの」
小さな声。朱鐘だ。堪えきれず、わたしは駆け寄った。
「朱鐘、わたしよ!施音!」
「施音……?ごめんね。しばらく、会えなくて。わたし、こんなになっちゃった」
変わってしまっても、朱鐘は朱鐘だった。こんなになっても、私に会えなかったことを申し訳思ってくれる……
何か、私に出来ることはないか。私は必死に考えた。そうして、一つの考えに辿りつく。それは時間を巻き戻すこと。朱鐘の命を救うための方法を見つけるために……
「あのね、朱鐘、わたし、時間を……」
小さな指がノロノロと伸ばされる。やがて、それは私の口元にあてられた。
「駄目だよ、時間を巻き戻しちゃ。そうしたら、施音に会えなくなっちゃうかもしれないから……」
朱鐘は言葉を紡ぐ、ゆっくりと。視線が交錯する。今にも折れてしまいそうなほどに、朱鐘は衰弱していた。そのはずだった。けれど、瞳には強い意志が宿っていた。
「でも、このままだと朱鐘が……!」
気付けば、私の頬を温かいものが伝っていた。不格好でも構わなかった。ただ、朱鐘に生きてほしかった。
「いいの……わたし、あなたに会えて……」
それが最後の言葉だった。
最後の言葉、私にとって、それは呪いの言葉になった。朱鐘が何と言おうとしたのか、それは分からない。けれど、「不幸だった」と言おうとしていたら……そう思うと、やりきれなかった。結局、私は何の役にも立てなかった。だから、今度は、私が誰かを助けよう。そう思った。もし、朱鐘が私を恨んでいたとして、これが償いになるとは思わない。でも、そうするしかなかったの……
ⅲ
先輩は息をつく。長い、長い物語だった。
「私ね、あれから、いろんな人たちと出会ってきた。でも、皆、私から離れていった。当然よね。だって、私は彼らを遠ざけるような態度を取り続けていたから」
先輩が笑う。それは、自身の行いの愚かしさを笑っているかのようだった。
「だって、もう、朱鐘のときのような想いは嫌だったから。あんな苦しみを味わうくらいなら、誰とも近づきたくなんてなかった……」
「でも」
先輩の口調が柔らかくなる。そして、こちらを見つめてくる。
「あなたは変わっていた。私が拒絶しても、あなたは近づいてきた。最初は諦めていた。どうせ、この人も、いつかは離れていく。そう思っていた」
今までの思い出、それらを抱きしめるように、先輩は語っていく。
「けれど、あなたは傍にいてくれた。信じたいと言ってくれた……」
「とても嬉しかった。でも、私は、どうしようもなく、壊れていた」
先輩の顔が歪む。きっと、その感情は自分に向けられたものだ。
「あの日、私は時間を巻き戻した。事故を止めるため。自分の身体をなげうってでも、誰かを救いたい。もはや、私にとって、その行為は当たり前のものとなってしまっていたの……」
「あなたの傍にいると、また迷惑をかけてしまうかもしれない。だから……」
そこまで言って、先輩の口は閉ざされた。きっと、先輩は一人になることを望んでいる。いや、なるべきだと思っている。でも、僕はそれを望まない。例え、それがエゴだとしても。
「先輩、それでも、僕は先輩を信じます」
そう、言い放つ。いや、これでは駄目だ。まだ足りない。
いつか、こんな話をした。例え、アンソスがそれを望んでいなくても、グラーディは助けるのかと。
「いつの間にか、僕にとって、先輩は大事な存在になっていました。だから、傍にいさせてください。これは僕のエゴです」
そう、あくまで、これはエゴだ。僕のわがまま。それでも……
「僕は、先輩のことが好きです」
これが僕の答えだ。
「でも……私は壊れていて……」
「大丈夫です、先輩が自分のことを壊れていると思うんだったら、一緒に治していきましょう。わがままを聞いてもらうんです、それぐらいは背負わせてください」
沈黙。先輩は顔をうつむけている。部室の窓から、オレンジ色の光が差し込んでくる。いつかの日のように。
「本当に……本当に私でいいの……?私、面倒くさい子だよ。いっぱい迷惑かけちゃうよ」
矢継ぎ早に、言葉が放たれる。けれど、答えは決まっていた。
「はい。先輩じゃないと駄目なんです」
部室のなかを、夕陽が満たす。そうして、柔らかな光が、僕たちを包み込む。
「馬鹿……でも、ありがと……」
小さな声。見ると、先輩の頬は真っ赤に染まっている。夕陽のせいだろうか、そんなこと、僕には分からない。いや、関係がなかった。僕は先輩を信じる。そう決めたから。
一歩、前に踏み出す。半径0.5メートルの距離。更に一歩、半径0.01メートルの距離。今や、僕たちを妨げるものはない。胸が痛い。心臓の鼓動さえも聞こえてくるようだ。恐る恐る、先輩の背中に手を回す。瞬間、手の中に、震えが走る。下を見る。そこには、先輩の顔があった。あどけない顔立ち、くりくりした目、そして、染まった頬。先輩も、こちらをじっと見つめている。
「先輩、これからも傍にいます」
「私も、あなたの傍にいるわ」
誓いの言葉を交わす。この日、僕たちは恋人になった。
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