第四話 The happy princess


数日が経った。この日も、僕は部室の扉のまえに立っていた。昨日、先輩から、明日には作品が完成しそうだ という連絡を受けたからだ。こうしているだけで胸が躍ってくる。先輩はどんな物語を描いてくるのだろう。そうして、扉をグッと開ける。


そこには先輩の姿があった。けれど、様子が違った。確かに、椅子に座り、本を読み進めている。が、その手にはあるものはライトノベル。いつものように、ミステリーやSFではない。そして、頬がゆるんでいる。あどけない笑顔。そこには、僕の知らない先輩がいた。


後ずさる。僕は、先輩に気づかれないように、扉をそっと閉めて、その場を去ろうとする。そのとき、先輩がこちらを見た。視線が交錯する。先輩の表情は固まっている。きっと、鏡を見たら、僕も同じような顔をしていただろう。


「見た……?」


「見てないです……」


不毛なやりとり。沈黙が痛い。今すぐ、この場を立ち去りたくなる。


「……なによ……」


「はい……?」


「いいじゃない! ライトノベルが好きだって!」


そう言いながら、先輩はライトノベルを持ち上げ、顔をすっと隠す。けれど、隠しきれていない。頬は赤く染まり、真っ白な髪とのコントラストが際立っている。


こちらも居たたまれなくなる。先輩が隠しておきたかったものを見てしまったことの申し訳なさで。それに、先輩の姿を見ていると、胸のあたりがドキドキしてくる。


先輩が、見た目通りの人ではないことは分かっていた。驚いたとき、素が出ること。そして、あの日の涙……でも、こんな顔もするとは思わなかった。


可愛い。そう思ってしまった。



あれから、数時間が経った。未だ、先輩はライトノベルで顔を覆っている。あのあと、僕はこの場を立ち去ることなく、部室の椅子に座っている。先輩の様子を伺いながら。


やがて、先輩が口を開いた。


「実はね……ライトノベルが好きなの……普段、ミステリーやSFを読んでいたけど、あれは見栄なの……」


また、先輩の頬に赤みがさしていく。今にも、声は途切れそうで。けれど、僕は、先輩の言葉を静かに聞いていた。そうしなければならない。そう、思ったから。


「穂鳥(ほどり)くんも知ってるでしょ……まわりの人たちが私のことをどう思っているか」


知っている。現に、この部室に僕たちしかいないことが、それを物語っている。


「昔はね。友達がいたの……でも、皆離れていったの……」


「どうせ離れていく。それならば、誰も寄せ付けないほうがいい。そう思ったの」


先輩は語る。自分自身の過去を。思えば、先輩が自分のことを語ってくれるのは初めてかもしれない。少し、嬉しくなる。先輩に近づけた気がして。


「穂鳥くんは……? わたしのこと、どう思う?怖い……?」


真っ直ぐな質問。


「そうですね……たまに、先輩のことが分からなくなることはあります。どうして、そんなに、誰かを助けようとするのか……でも、人が人のことを分からないのって当たり前のことだと思います」


そう、僕がアンソスの気持ちを汲み取れなかったように、他者とのあいだの壁は厚く、高い。


「それでも、僕は先輩のことを信じたい。そう思います」


率直な答えをぶつける。この言葉が先輩とのあいだの壁を越えてくれるように、そう祈りつつ。


「ふふっ」


堪えるような声。見ると、先輩の肩が震えている。そうして、先輩は笑い出した。鈴のなるような声が響く。


「やっぱり……あなたって変わってる……でも」


四度目の言葉。けれど、その意味は異なるはずだ。一回目は驚嘆。二回目は微笑み。三回目は涙。そして、四回目は……


「ありがとう」


パッと、華が咲いた。あふれんばかりの笑顔が向けられる。照れくさくなって、僕は顔をそむけてしまう。


「酷いですよ。先輩、人が真面目な話をしているときに変わってるだなんて」


頬が熱い。気付いたら、髪の毛をグシャグシャと弄っていた。どうにも、落ち着かない。まるで、自分が自分じゃないみたいだ。


「ふふっ、でも、本当のことでしょう」


そう言って、先輩は口元をニッと上げる。悪戯っぽい表情。僕の知らない先輩。でも、それを知れることが嬉しかった。


「ははっ。確かに、それを言ったら、先輩も変わってる」


「そうね。ふふっ」


そうして、僕たちは、時間を忘れて、笑いあった。窓から、オレンジ色の光が差し込むまで。ずっと。



「ふふっ、こんなに笑ったの久しぶり」


オレンジ色の光に照らされながら、僕たちは歩いて行く。それぞれの家を目指して。特に、話し合ったわけではない。ただ、何となく、一緒に帰ろう。そんな空気になっていた。


「僕もです」


「ところで、先輩の家ってどこにあるんですか?」


「そう言えば、言ったことがなかったわね。すぐそこよ。もうすぐ、見えてくるわ。錦通りのそばにあるの」


錦通り。あの日、彼女と出会った場所。そう、全てはあそこから始まった……


やがて、錦通りが見えてくる。向かいの通りに、一件の家がある。黒と白を基調した、大きな家。もしかして……


「先輩、あれが先輩の家ですか?」


そう言って、さきの家を指さす。


「ええ、そうよ。良く分かったわね」


先輩は、少し驚いているようだった。でも、偶然だ。黒と白。二つの色が先輩をかたどっているようだったから……


そうして、僕たちは信号のまえで立つ。夕陽に照らされ、二人の影が伸びる。肩が触れ合うほどの距離。見ると、夕陽のせいか、先輩の頬は真っ赤に染まっていた。


「今日はありがと……『信じたい』そう言ってもらえて、本当に嬉しかった」


途切れ途切れの声。また、髪の毛をガシガシと掻いてしまう。


「いえ、こちらこそ……」


先輩はこちらをじっと見つめてくる。居たたまれなくて、視線を逸らしそうになる。そのとき、一つの影がこちらに伸びていることに気付いた。小さな影。


「待てー」


大きな声を上げ、小さな男の子が脇をすり抜けていく。見ると、少年の視線のさきには、サッカーボールがあった。そして、一つのことに気付く。そう、信号の色は赤だということに。


「危ない……!」


そう言って、僕は一気に駆け出す。横をサッと見る。大きな車が向かってきている。速度を上げる。もう少しで、少年の背中に手に届きそうだ。そのとき、先輩の顔が頭をよぎった。一瞬の躊躇。僕は足を止めてしまった。そうして、大きな音が鳴る。見ると、男の子が飛んでいる。クルクル、クルクルと。まるで、あの日の僕のように……



僕たちは信号のまえで立つ。夕陽に照らされ、二人の影が伸びる。肩が触れ合うほどの距離。先輩の顔を見る。その顔は真っ青だった。見たこともないような表情。


瞬間、奇妙なものが脳裏を走る。それは光景。男の子が走り去っていく。僕はそれを追いかけ、必死に止めようとする。けれど、止めることはできず、男の子は轢かれてしまい……


(これは……『未来視』……ここ最近はなかったのに)


思わず、頭を押さえてしまう。まだ、奇妙な光景が繰り返されている。それを振り払おうと、頭を必死に振り回す。と、そのとき。


「待てー」


男の子がわきをスッと通り抜けていった。


(このままじゃ……早く動かないと……!)


けれど、身体は思うように動いてくれない。気持ちだけが空回る。


「穂鳥くん、これ持っててもらえる」


鈴のなるような声。先輩はそう言い、カバンを手渡してきた。そして、一気に駆け出した。少年のもとへ。一切の迷いなく。一直線に。


けれど、このままでは間に合わない。既に、車は信号の手前に差し掛かっている。そのとき、先輩は飛び込んだ。少年のもとへ。


大きな車が横切る。視界が遮られる。どれぐらいの時間が経っただろう。一瞬のはずだ。けれど、あまりに長い。やがて、車は通りすぎた。向かいの通り。そこには先輩がいた。少年を抱きかかえて。


思わず、先輩のもとに駆け寄る。先輩のひざにはわずかな擦り傷があった。少年は無事だった。先輩の手の中で、震えている。


「ああ、穂鳥くん。カバン持ってくれてありがとう。おかげで……」


「先輩……どうして……そんなに自分を犠牲にしようとするんですか?」


頬を温かいものが伝っていく。気付けば、僕は涙していた。


「どうしたの、穂鳥くん。二人とも、無事だったじゃない……」


「それは……そうですけど……でも、結果論じゃないですか。もしかしたら、先輩は死んでいたかもしれないんですよ」


少年が肩をビクッと震わす。沈黙。先輩はうなだれている。


「先輩が何を抱えているか、それは分からないです。無理に聞こうともしません。それでも、僕は先輩に死んでほしくない。自分を粗末にしないでほしい」


ありったけの気持ちを込める。先輩の心を動かしてくれるように。


やがて、先輩は口をゆっくりと開いた。


「ごめんなさい。もうちょっと考える時間をちょうだい……」


うつむきがちに、そう答える。この日、僕は、先輩の抱えるものの一端に触れた。



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