第三話 ぼくたちの符丁
ⅰ
部室の隅の段ボール箱を持ち上げる。それと同時に、大量の埃が舞う。いったい、どれだけの年月、そのままにされてきたのだろう。
「天音(あまね)先輩……もしかして、これ、そのままで置いてあったんですか……?」
半ば、呆れがちになりながらも、先輩のほうに向きなおる。
「しょうがないじゃない……もう、使うことはないだろうと思っていたから……」
先輩は顔をうつむけ、居たたまれなさそうにしている。ふと、壁際の本棚に目をやる。本は、出版社ごとに分けられ、更に、五十音順で並びなおされている。やはり、先輩は几帳面な性格なのだろう。再び、視線を落とす。そこにはボロボロの段ボール箱があった……
「まあ……これまで、先輩以外はキチンと活動していなかったですし……しょうがないかもしれませんね」
先輩が顔を上げる。もう、いつもの表情に戻っている。
「じゃあ、穂鳥(ほどり)くん。それをここに運んできてもらえるかしら」
先輩が机のうえに手を置く。
「分かりました。っと」
段ボール箱の底に手を入れ、グッと持ち上げる。指にずっしりとしたものがのしかかってくる。僕は、それを落とさないように、ゆっくりと歩を進める。やがて、机のまえに辿り着く。指を挟まないように、持ち方を慎重に変えつつ、段ボール箱をそっと置く。
「じゃあ、開けるわね」
「はい。お願いします」
そう、僕たちは部室の備品の整理を行っていた。
事の発端は、数十分前に遡る。僕たちは、いつものように、部室で過ごしていた。ページを捲る音が聞こえてくる。小説をそっと下ろし、先輩のほうを見る。先輩の視線は頁に釘付けにされているようだった。あの日、僕がこの部に正式に入部してから、数日が経った。けれど、何かが変わるということもなく、こうして、本を読み進めている。落ち着いた雰囲気のなか、書に親しむ。それ自体は悪くない。それどころか、歓迎したいくらいだ。でも、せっかく、文芸部に所属しているのだから、何か「それらしい」ことをやりたい。そう思い、辺りをきょろきょろと見回す。あるものが目に留まる。大きな段ボール箱。ちょうど、両腕でかかえられるぐらいの大きさだろうか。
「天音先輩。ちょっといいですか」
声をかける。返事はない。仕方ない。息を吸いこみ……
「天音先輩―!」
先輩の肩がビクッと震える。そして、本を置き、こちらをじっと見つめている。しまった。タイミングを誤ったかもしれない。
「……なにかしら」
表情はいつもと同じ。けれど、声に怒気が含まれている……そんな気がする。
「その……あの段ボール箱は何なのでしょうか?」
そう言って、部室の隅の段ボール箱を指さす。
「段ボール箱……? ああ、あれは先代の部員たちの置き土産よ」
「置き土産?」
「そう、小説、自作作品、エッセイ、その他諸々が入っている……はず」
「はず……?」
「実は、私も中身を見たことがないの」
小説、自作作品、エッセイ。まだ見ぬ作品に心が踊らされる。そして、これらの作品は文芸部の活動にぴったりなものだ。もしかしたら、自分たちの活動の指針になってくれるかもしれない。
「先輩」
「どうしたの?」
「備品整理、しませんか?」
そうして、現在に至る。段ボール箱が開かれてゆく。中を覗く。そこには、いくつもの原稿用紙の束。冊子らしきものが丁寧に詰められていた。そのなかから、原稿用紙の束を一つ取り出す。
見てみると、一枚目には、『君からのアンコール』と記されていた。この作品のタイトルだろうか。内容を流し見つつ、頁を捲っていく。すると、六枚目の原稿用紙には『君へのアンコール』と書かれていた。タイトルが変わっている……?
「きっと、リレー小説ね」
耳元で、鈴が鳴るような声がする。吐息があたり、くすぐったい。思わず、飛び上がりそうになってしまう。それをおさえ、ゆっくりと隣を見る。いつの間にか、先輩がこちらを覗き込んでいた。いつもの表情で。
「……先輩、びっくりしましたよ。それに、リレー小説って」
「言葉通りの意味よ。リレー小説はリレーのバトンを繋ぐように、人から人へ、小説を繋いでいくの。前の人の内容から繋がるように、後の人は続きを書いていく」
リレー小説……中学の文芸部では、そんなことをしたことはなかった。心が浮足立つ。これは、「文芸部らしい」活動と言えるのではないか……?
逸る気持ちを抑え、頁を捲っていく。最後の頁を捲る。その先は白紙だった。
「あれ……続きは……?」
「リレー小説だから、続きはないのよ。勿論、その代で完結させることもあるだろうけど、わたしたちの先輩はそうしなかったみたいね」
未完の小説、先輩たちの置き土産。そのなかの、いくつもの物語によって、想像が掻き立てられる。やがて、僕は、一つの決意をした。
「先輩……リレー小説、やりませんか?」
手元の原稿用紙の束を掲げ、僕はそう言い放った。
ⅱ
部室の扉を開ける。既に、先輩は来ていた。
「先輩、お疲れ様です」
「ええ、穂鳥くんもお疲れ様」
そうして、席につく。わずかな緊張が走る。そう、今から、僕は自分の作品を見せることになる。僕たちの文芸部のリレー小説、一作目。タイトルは、『滅びゆく世界のエピローグ』
そう、先代の部員たちのリレー小説は未完だった。そして、最後の小説において、隕石の衝突が原因で、世界は滅びてしまっていた。読み終えたとき、僕は頭を抱えてしまった。まさか、このようなバトンを渡されるとは思っていなかったから。けれど、これは僕から言い始めたこと。投げ出すわけにはいかなかった。だから、どうするべきかを考えた。その結果、生み出されたものが、僕の手元にある。
「じゃあ、読ませてもらってもいいかしら」
「はい。お願いします」
そう言って、原稿用紙の束を手渡す。先輩にバトンを繋ぐため
そうして、先輩は触れ始める。僕の世界の一端に。
どれぐらいの時間が経っただろう。もう、窓からはオレンジ色の光が差し込み始めていた。気付けば、手がわずかに汗ばんでいた。胸の奥が、キリキリと痛む。あのとき、先輩もこういう気持ちだったのだろうか。そして、先輩は顔を上げた。
「読み終えたわ」
淡々とした口調。表情はいつもと変わりない。
「どうでした……?」
恐る恐る尋ねる。声が震えていた。自分の作品を見せるのは初めてではないのに、どうして、こんなに緊張しているのだろう。相手が先輩だから……?
そうして、先輩は言葉を紡ぎ始めた。間違えないように、ゆっくりと。
「そうね。とても読みやすい文章だったと思うわ。軽妙な文体……と言えばいいのかしら。もしかしたら、『軽い』と感じる人もいるかもしれないけれど、わたしは良いと思う……」
思わず、息をついてしまう。自分の作品を否定されることは自分の世界を否定されることに等しい。少なくとも、僕にとっては。だから、先輩が僕の作品を好意的に受け止めてくれたこと。そのことが嬉しかった。
「話のほうはどうでした……? 展開に無理はなかったでしょうか……?」
「無理はなかった……と思うわ。だって、前の作品のなかで、世界は滅びてしまっている。そこから、物語を続けるとなると、前提そのものをひっくり返してしまうか。そのなかで、何とか続けるしかないはずよ。そして、穂鳥くんは後者を選んだ。どちらが良いのか、わたしには分からないけど……」
そう、僕は後者の道を選んだ。滅びた世界のなか、物語を続けることを。
舞台は地球。数千年後の未来。もはや、人類の姿はない。けれど、新しい命が芽生えつつあった。そこに至るまでの道程は長かった。たくさんの種が生まれては消えていった。そして、淘汰のはてに、彼らは、この星に君臨することになる。植物を先祖とする種、フィトー。物語は、フィトーの、アンソスとグラーディが出会うところから始まる。
「ところで、一つ気になったことがあるの。質問してもいいかしら」
伺うように、先輩がこちらを見ている。
「ええ、勿論」
「どうして、グラーディはアンソスを助けようとするのかしら?」
驚きのあまり、口を開きそうになる。ここにくるまで、いくつかの質問は予想してきた。けれど、そのなかに、その質問はなかった。言葉が思うように出てこない。僕にとって、グラーディがアンソスを助けようとすることは当たり前のことだったからだ。
そう、フィトーには、ある形質が備わっている。それは、自身の命を糧にして、他のフィトーを生きながらえさせることができるというものだった。そして、アンソスは、自身の命を削り続け、フィトーたちを助けようとしていた。そうすることが幸せだったから。けれど、グラーディにとって、アンソスは大事な存在だった。幼いころから、ずっと一緒だったから……
「そうですね……」
頭のなかで、自分の考えをゆっくりと形にしていく。それは、あまりに当たり前だったこと。当たり前すぎて、意識されなかったこと。
「グラーディにとって、アンソスは大事な存在だから……だと思います。大事な存在がいなくなると悲しいから」
とても簡単なことだった。大事な存在には、生きていてほしい。自分を犠牲にしないでほしい。ただ、それだけのこと。
「でも、それってとても傲慢じゃないかしら……?」
先輩は、顎に手をあて、じっと考え込んでいる。そう、とても真剣に。
「傲慢……?」
「彼女は幸せなんでしょ。だったら、わざわざ、手を出さなくてもいいじゃないかしら? グラーディに、アンソスの意志を曲げる権利はないはずよ」
先輩の顔を見る。その瞳には強い意志が宿っていた。まるで、アンソスの意志を代弁するかのように。僕は見てられなくて、思わず、顔を伏せてしまった。けれど、先輩の言うことも一理ある。確かに、アンソスの意思を曲げようとするのは傲慢なことなのかもしれない……
「ごめんなさい……言い過ぎたわ。作品への応答は作品で。そうするべきだったのに……」
申し訳なさそうな声。恐る恐る顔を上げる。先輩は、顔を少しうつむけていた。
「いえ、先輩の言うことも分からなくはないです……もう一度、ちゃんと考えてみます」
第一回目のリレー小説は終わった。僕に一つの疑問を投げかけて。かくして、バトンは先輩のもとに渡された。
ⅲ
頁のめくる音だけが聞こえてくる。けれど、それは一つだけ。そう、今、部室にいるのは僕だけだった。
頁を黙々と捲っていく。が、内容に集中できない。ただ、流れていく文字を眺めているだけ。頭のなかでは、先輩の言葉が繰り返されていた。
(確かに、アンソスの意志を曲げることは傲慢かもしれない。でも……)
人の心のなかは分からない。だから、アンソスが幸福かどうかを決めることは、それこそ、傲慢なのだろう。けれど、僕には引っかかっていた。アンソスが本当に幸福なのかが。
そのとき、部室の扉が開いた。廊下の窓からの光を受け、白い髪がきらめく。先輩だ。急いで来たのか、息を少しきらしていた。手の中には原稿用紙の束が握られていた。
「……ごめんなさい。待ったかしら。推敲に時間がかかってしまって……」
「いえ、全然大丈夫ですよ」
先輩が席に着く。どうやら、息を整えているようだった。やがて、先輩は顔を上げ、こちらを見る。そして、先輩が原稿用紙の束を差し出してくる。
「これ、読んでもらえるかしら?」
「はい」
僕は原稿用紙の束を受け取る。これが先輩の答え。そう思うと、ずっしりとのしかかってくる。そんな気がした。一番上の原稿用紙を見る。そこには『ヘリオトロープの幸福』と記されていた。
「じゃあ、読み進めていきますね」
そうして、僕は先輩の答えを知る。
机の上に、原稿用紙を置く。息をつく。前を見ると、先輩が伺うように、こちらをじっと見つめていた。
僕の中では、さまざまな想いが渦巻いていた。昨日、先輩に突き付けられた問い、それへの答えは出ない。けれど……
「まさか……僕の物語を別視点から展開してくるとは思いませんでした……」
「もしかして……駄目だったかしら」
先輩の顔に陰りがさす。慌てて、手を振る。
「いえ! そういう意味じゃなくて……単に驚いたというだけで……なにより、アンソスの心情が丁寧に描かれている。そう思いました」
こうして見ると、僕にとって、アンソスは不可解な存在であったことが思い知らされた。先輩は、アンソスの思いを汲み取ってくれた。一つ一つ、丁寧に。
「ありがとう……力を入れたところだったから、そう言ってもらえると嬉しいわ」
「正直なところ、ちょっと驚きました。前に読ませていただいたものでは、先輩の筆致は淡々としたものだったので」
改めて、先輩の作品に目を通す。アンソスの視点から、それぞれの出来事が描かれている。自分の命を捧げて、他者の命を繋げる日々。あまたの人々からの感謝。徐々に、アンソスの命は削られていく。それでも、アンソスは満ち足りていた。人々の幸せそうな姿。それを見ているだけで、十分に幸せだったのだ。
そう、この作品は、これでもかというほどに、アンソスに寄り添っている。まるで、彼女の姿を見てきたかのように
沈黙。先輩は顎に手をあてている。口を開こうとしては、ためらいがちに閉じる。そんなことが繰り返された。何回も。やがて、先輩はこう言った。
「私は、彼女の意志を語らなければならない。そう思ったから……ごめんなさい。
これ以上は言えない……」
先輩は口を閉ざす。今も、顎に手は当てられたままだ。どのような言葉を返せばいいのか。いや、言葉では駄目だ。多分、先輩は自分の想いを作品に乗せた。それならば、僕もそれに応えたい。
かくして、再び、バトンは渡された。僕のもとへと。
ⅳ
ふと、時計を見る。時計の針は6時を指している。気が付けば、随分と時間が経っていた。それもそうだ。帰ってきてから、机のまえで執筆に取り掛かっていたのだから。けれど、その甲斐あって、作品は完成した。目の間には、何枚かの原稿用紙が広がっている。そこには、僕の想いが乗せられている。いわば、僕の分身。それを曝け出す。そのことに抵抗を覚えないわけではない。
(それでも、僕は先輩に応えたい)
未だに、これが正しい答えなのかは分からない。でも、これは僕なりの答えだ。それだけは確信を持てる。
カバンのなかに、原稿用紙の束を丁寧に入れていく。折れることがないように。そうして、部屋の扉をグッと開ける。
ⅴ
文芸部の部室。いつものように、先輩はそこにいた。
「穂鳥くん、お疲れ様……って大丈夫? クマが酷いわよ……」
先輩が心配そうに見つめてくる。それもそうだ。昨晩は、徹夜で執筆作業に取り掛かっていたのだから。我ながら、馬鹿なことをしたと思う。別に、期日が決められていたわけではない。ただ、先輩の想いに応えたい。その一心で、執筆していたら、こうなっていた。そのことに後悔はない。
「はは、寝てないですから……それより、先輩、これを読んでくれますか」
そう言って、原稿用紙の束を差し出す。
「……勿論。でも、ちゃんと寝たほうがいいわよ」
こうして、先輩はバトンを受け取ってくれた。
「ふう」
先輩が息をつく。どうやら、読み終えたようだ。
「どうでした……?」
恐る恐る尋ねる。自分自身を曝け出したようなものだ。否定されるのではないか。そんな不安でいっぱいになる。
「ひとつ、聞いてもいいかしら。どうして、グラーディはアンソスに幸せになってほしいの?」
以前、同じようなことを尋ねられた。けれど、そこに込められたものは異なる。それぞれ、お互いの作品に想いを乗せた。今や、小説の往復は、僕たちにとっての特別な符丁となっていた。だから、この質問に答えるには、僕自身のことを語らなければならない。そう、かつての記憶を……
「そうですね。一つ、昔話をしてもいいですか。グラーディには父親がいました。生前、父は困っている人を見ると助けずにいられない人で、例えば、迷子の子を見ると、その子のために道を教えてあげる。そんなことは当たり前のことでした。ある日、雨が降りしきる日、父は川で溺れそうになっている子を見つけました。当然、迷うこともなく、父は川に飛び込みます。そして、何とか、子どもを助けました。けれど、父は死んでしまいました。呆気なく」
先輩は静かに聞いてくれている。僕の話を。
「グラーディは父を恨みました。どうして、身近な人よりも他の人を優先するのか。どうして、もっと愛してくれなかったのかと。でも、父のことを本当に嫌っていたわけではない。ただ、自分たちのことをもっと気に掛けてほしかった。それだけなんです。そう、グラーディにとって、アンソスは父に似ている。だから、グラーディはアンソスを助けたい。幸せになってほしい。だって、大事な人がいなくなるのは嫌だから」
沈黙。やがて、先輩はそっと口を開いた。
「例え、アンソスがそれを望んでいなくても?」
「はい、これはグラーディのエゴです。それでも、助けたいんです」
視線が交錯する。先輩は複雑な表情をしている。嬉しそうな、けれど、泣きそうになるのをこらえているような、そんな表情。
「やっぱり、あなた変わってるわ、でも、ありがとう」
そう、先輩は言った。瞳から一筋の滴を流して。三回目の言葉。でも、その意味は異なるはずだ。この日、僕は先輩の心に触れられた。きっと。
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