第二話 いつかの彼女。涙の理由
ⅰ
ブレザーを脱ぎ捨て、ベッドの脇に放り投げる。きちんと片づけないと。そう思っても、身体は鉛のようで、ちっとも動いてくれない。それに、心も……
(はぁ、出鼻くじかれちゃったなぁ)
ベッドに倒れ込む。柔らかな布団、顔をうずめると、大きなものに包まれているようで落ち着いてくる。そうしていると、身体の力が抜けてきた。そして、今日の出来事が浮かんでくる。あまりに多くのことがありすぎた。あの日の彼女との再会、入学式、そして、図書室での一件……お礼は言えた。そのはずだ。なのに、心のなかに、モヤモヤしたものが残り続けている。
それを振り払おうと、布団のうえで寝返りをうつ。けれど、心は晴れてくれない。
(やっぱり、このままだと納得できない……)
だって、なにも返せていないから。自分は命を救ってもらったのに。
けれど、どうすれば。いくつもの疑問が頭をよぎる。何かしたい。でも、何をすればいいかが分からない。考えるほど、深みに嵌まっていく。
どれぐらいの時間が経ったのだろう。未だ、答えは出ない。やがて、僕は重い腰を上げる。
(考えていても仕方ない。とりあえず、今日は気分を切り替えよう)
そう思い、部屋の隅の本棚の前に立つ。本棚には、所狭しと、いくつもの本が詰め込まれている。ライトノベル、SF、ミステリー、ホラー、ファンタジー。ざっと見るだけで、さまざまなジャンルに手を出していることが分かる。思わず、笑いそうになる。本はその人の心を映す ということがまことしやかに囁かれているけど、これが本当ならば、僕の心はどうなっているのだろう。そして、一冊の本を取り出す。タイトルは『セカイの終わり、君とのエンドロール』ライトノベルだ。
椅子に座り、適当なページを開く。もう何回も読んでいるので、内容は覚えてしまっている。それでも、ページを開き、物語に触れていると、気持ちが落ち着いてくる。僕にとって、本を読むという行為は世界と折り合いをつけるための術だった。
物語のなかでは、ちょうど、クライマックスのシーンだった。宇宙人の少女。彼女は、ただそこにあるだけで、無数の隕石を引き寄せてしまう。いくつもの隕石は世界に降り注ぎ、甚大な被害をもたらしていた。だから、少女は命を狙われることになる。そして、少女の命を狙うのは主人公の少年、渉(あゆむ)。彼は少女の命を奪おうとするが、その過程で、彼女の内心に触れていき、彼女の命を奪うことに躊躇いを覚え始める。だが、渉の葛藤とは関係なく、世界の崩壊は進んでいく。隕石が降るなか、渉は一つの決断をくだす……
視界がかすんでくる。強烈な眠気に襲われ、意識が朦朧としてくる。
(駄目だ。布団へ戻らないと……)
腰を上げ、布団に戻ろうとするが、身体は思うように動いてくれない。そして、僕の意識は沈んでいく。
ⅱ
あれから、数日が経った。ぼくの悩みとは関わりなく、時間は進んでいく。未だ、彼女のために何が出来るのか、その答えは見つかっていない。
(どうしたものかなぁ……正直なところ、検討もつかない)
そのとき、前の席から声が聞こえてくる。関口くんだ。
「穂鳥―。部活の仮入部の話だけど、おまえはどうする?」
「へ? 仮入部」
思わず、素っ頓狂な声が出てしまう。いったい、彼は何の話をしているのだろう。
「そう。仮入部。先生の話聞いてなかったのか?」
知らなかった。ここのところ、彼女のことで頭が一杯で、先生の話をキチンと聞けていなかったかもしれない。
「うん……ちょっとボーっとしてて……」
「はは、五月病には早いぞ。で、どこに入るつもりなんだ」
「そうだね……うちの高校に文芸部ってあったっけ?」
「確か、あったと思う。」
そう言うと、関口くんはある冊子を取り出す。そこには、部活の一覧表とそれぞれの部活の活動内容。そして、活動場所が学校の地図に明記されていた。
「ほら。ここ見ろよ」
彼がある場所を指さす。そこは、三階の片隅の一室。ちょうど、図書室の隣の教室だった。
ⅲ
放課後、僕は、三階の片隅の一室の扉の前にいた。そう、文芸部の部室のまえに……
(緊張するなぁ……どうしよう。一年生が僕だけだったら)
二年生、三年生がいるなか、僕だけがポツンと座っているところを想像してしまう。嫌な想像を掻き消すように、頭を振る。心配しても仕方がない。そう思い、扉をノックする。
沈黙。反応がない。誰もいないのだろうか。もう一度、ノックする。やはり、誰もいない……?扉に手をかける。突っかかるような感触がない。どうやら、扉は空いているらしい。
(なんて、不用心な……)
学校のなかと言えど、鍵がかかっていないとは思わなかった。一応、中の様子も確認しておいたほうがいいかもしれない。深呼吸し、扉に手をかけ、ぐっと引く。
そこには、白髪の少女、天音施音がいた。
部室は簡素な作りになっていた。壁際にはいくつかの本棚が置かれており、そこには無数の本が几帳面に並べられている。そして、中央には大きな机が据えられている。きっと、この机を囲んで、あれこれと議論するのだろう。だが、今、ここにいるのは彼女だけだ。天音施音、彼女は椅子に座り、本を黙々と読んでいる。
呆気にとられる。まさか、彼女がここにいるなんて……
そのとき、彼女が顔を上げ、こちらを見た。
「あら、あなたはあのときの」
そう言うながら、彼女は耳栓を外す。道理で、どれだけノックしても反応が返ってこないわけだ。
「どうも……仮入部希望で来ました……ところで、他の部員の方たちは……?」
「ほかの部員? ああ、普段は来ないわよ」
まさか、そんなことがあるのだろうか。確か、うちの学校では、原則、部活に所属することが義務付けられていたような……
「ああ、なるほど。どうして来ないかを疑問に思っているのね。答えは簡単よ」
「と言いますと……?」
「わたしがいるから」
まるで、彼女は、なんでもないことのように言い放つ。そう、この状況を作ったのは自分自身であると。
「え……と。それだと、部活が潰れてしまうんじゃ……」
そう、部活を維持するには人数が必要だ。彼女だけでは、部活を維持するための実績がない。
「少しだけ、語弊があったわね。『普段』は来ない。けれど、定例会には集まるの。どうしても、集まらないといけないときだけ」
「どうして……?」
「簡単な話よ。部活に所属することが義務付けられていると言っても、全ての生徒が部活に積極的とは限らない。そして、この部活はそうした生徒の受け皿になっているの」
つまり、この部活は幽霊部員だらけで、実質的な活動はしていないということなのだろう。心のなかに、澱がたまっていく。まさか、こんなことになってるなんて……
「落胆した? ちゃんとした部活をやりたいなら、他のところに行ったほうがいいわよ」
確かに、落胆はある。けれど、ここには彼女がいる。なにより、そのことが重要だった。
「そうですね……落胆がないとは言いません。けれど、僕はこの部に仮入部することに決めました」
「そう、定例会のときは連絡するから」
彼女は淡々という。きっと、何回も言ってきたのだろう。それこそ、決まりきったことのように。
「いえ、ちゃんと活動します。活動日はいつです?」
そう言うと、彼女は目を丸くした。鳩が豆鉄砲を食ったような表情。彼女がそんな顔をしたことが意外で、呆気にとられてしまう。
「あなた……変わっているのね」
彼女に言われるとは思わなかった。確かに、変わっているかもしれない。幽霊部員だらけの部活に入部するなんて。
「はは……そう言えば、自己紹介がまだでしたよね。僕は穂鳥歩って言います。穂を摘むの穂に鳥で穂鳥です」
「そう。わたしは天音施音」
先輩はいつもの表情に戻っていた。先輩のために何が出来るかは分からない。それでも、この部活に所属するなか、それを見つけていきたい。
「ところで、何て呼べばいいでしょうか……えーと」
「好きに呼んでくれて構わないわ」
「じゃあ、天音先輩。あらためて、よろしくお願いします」
「ええ、よろしく」
こうして、僕は文芸部に仮入部することになった。
ⅳ
ページを捲る音が聞こえてくる。顔を上げる。天音先輩は黙々と本を読んでいる。声をかけることが忍ばれるほどに……
僕が仮入部してから、数日が経った。最初のころ、天音先輩はどのような活動をしているのだろう、そういった期待があった。けれども、その期待は儚くも打ち砕かれていった。毎日のように、部室に通っている。けれど、することは読書だけ。僕だけが違うことをするわけにもいかず、倣うように読書をしている。
このままではマズイ。確かに、ここは幽霊部員だらけで、部としては機能していないかもしれない。それでも、ここには、二人いる。きっと、出来ることがあるはずだ。そう思い、辺りを見渡す。そのとき、ある考えが脳裏をよぎる。
「天音先輩。ちょっといいですか?」
沈黙。どうやら、読書に没頭しているようだ。確かに、僕も読書に没頭しすぎて、夕飯を食べ忘れてしまい、母に呆れられたことがある。だから、先輩の気持ちはよく分かる。けれど、ここで引き下がるわけにはいかない。
「天音先輩!」
声を大きくする。先輩が顔を上げた。
「あ、ごめんなさい。読書に没頭していて……」
「いえ、大丈夫です。ちょっと聞きたいことがあって……」
「なにかしら?」
「天音先輩ってどういう作品を書かれるんです」
何気ない疑問。ここは文芸部だ。文芸部では小説を書く。少なくとも、僕の中学ではそうだった。もしかしたら、天音先輩も作品を書かれているかもしれない。そう思った。
先輩の顔を見る。また、鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしている。ここ数日で分かったことがある。確かに、天音先輩は近寄りがたい雰囲気を帯びている。けれど、時々、とりわけ、驚いたときには素の彼女が出てくる。
「……まさか、そんな質問をされるとは思っていなかったわ。けど、文芸部員なら、当たり前の質問かもしれないわ……」
先輩がゆっくりと返事をする。僕の質問を咀嚼するように。どうやら、かなりのショックだったらしい。今まで、この部活ではどのような活動がされてきたのだろうか……
「そうね。ちょっとだけ待ってもらえるかしら」
そう言うと、先輩は席を立つ。そして、本棚のほうへ近寄っていく。背筋をピンと張り、手を必死に伸ばしている。どうやら、本棚の最上段に収められたものを取ろうとしているらしい。けれど、先輩の身長ではわずかに届かず、指先が触れるか触れないか。見てられず、席を立つ。
「これで合ってます?」
そう言い、原稿用紙の束を取り出す。
「そう、それで合っているわ……」
見ると、先輩は顔をうつむけていた。かたわらの椅子をチラチラと見ている。どうやら、椅子を持ってくることを忘れるほどに動揺していたらしい。
原稿用紙の束を手に取り、席につく。
「これが天音先輩の作品ですか?」
「ええ、そうよ」
目を下ろし、タイトルを確認する。そこには、『百一匹目の羊』と記されていた。
「読んでもいいですか」
「ええ」
そうして、僕は触れていく。先輩の世界の一端に。
ⅴ
息をつく。窓を見ると、空に赤みがさしている。いつの間にか、かなりの時間が経っていたらしい。ふと、前を見る。先輩が伺うように、こちらをじっと見つめている。
「……どうだった?」
頭のなかで、言葉を慎重に選ぶ。先輩の作品は、一種の童話だった。あるところに、百匹の羊がいる。羊たちは牧草地を転々としていく。やがて、群れのなかに、百一匹目の羊が生まれた。けれど、百一匹目を賄えるだけの牧草はどこにもない。だから、親の羊のかたわれは群れを去っていった。そうして、百一匹目の羊は百匹目の羊となった。とても救われない。残酷なお話。
「そうですね……まず、引き込まれたことは事実です。先輩の筆致は、羊たちの悲劇を淡々と描いている。ある意味、それはドライと言えるかもしれないですが、この作品にはマッチしている。淡々としているがゆえ、その残酷さが際立つ……そんな気がします」
率直な感想を言う。遠慮が足りないかもしれない。それでも、先輩は自分の作品を見せてくれた。それならば、真剣に応えたい。そう思った。
先輩の顔を見る。ジッとうつむいている。言葉を誤ったかもしれない。と、そのとき。
「……」
「え……?」
先輩の口がもごもごと動く。見間違いだろうか。
「ありがとう……今まで、そんなこと言ってもらったことないから……」
先輩の頬はわずかに赤らんでいた。あくまで、顔をふせがちにしたまま、こちらをじっと見つめている。
「いえ、僕のほうこそ、差し出がましいことを言ったかもしれなくて……」
教室のなかに、夕陽がさしこむ。温かな光がぼくらを包み込む。少し、先輩に近づけた。そんな気がした。
「でもね」
と、先輩は呟く。いつもの表情。まるで、それは人形のようで。
「あの物語は悲劇ではないの。わたしにとって、あれはハッピーエンド」
ⅵ
放課後、僕は部室の扉の前で立ち尽くしていた。窓際からは夕陽が差し込み、廊下を赤く染めている。頭のなかでは、先輩の言葉が繰り返されていた。
(どうして、先輩はあんなことを)
少し、先輩に近づけたと思った。でも、また、突き放されてしまった。あのとき、僕はどうすればいいか分からず、何も言うことができなかった。そして、今も迷っている。
けれど、いつまでも、こうしているわけにはいかない。背筋を伸ばし、深呼吸をする。そして、扉をグッと開ける。
そこには、先輩がいた。ただ、いつもとは様子が違った。椅子に座り、机に伏している。
血の気が引く。先輩はぐったりとしている。その姿はまるで……瞬間、嫌な想像が頭をよぎる。思わず駆け寄る。すると、規則的な呼吸音が聞こえてきた。恐る恐る、顔を確認する。穏やかな寝顔だった。
安堵が広がる。嫌な想像は、杞憂に終わってくれた。我ながら、馬鹿げた想像をするものだと自嘲する。
そのとき、かすかな声が聞こえた。先輩の声だ。
「……ごめんなさい。だから、置いていかないで」
先ほどとは違う。目はギュッと閉じられ、何かに耐えるような表情をしている。
「朱鐘(あかね)……わたしを一人にしないで」
そして、先輩の瞳から、一筋の滴が零れた。
そのとき、僕のなかで何かが変わった。確かに、僕に先輩のことは分からない。今も、昨日の言葉の真意は掴めない。けれど、先輩を一人にしたくない。そう思った。
踵を返し、扉をそっと閉める。なすべきことをなすために。
教室を目指し、一足飛びに、階段を降りていく。そのとき、下から、茶髪で大柄の男の人が上がってきた。
「よっ、アイツには会えたかい。一年」
彼は……あのときの。先輩の居場所を教えてくれた人だ。
「はい。あのときはありがとうございました。それよりも今は急いでいるので」
頭をスッと下げ、脇を通り抜けようとする。
「引き返すなら、今のうちだぜ。あまり、軽い気持ちで関わらないほうがいい」
振り返る。彼は真剣な表情でこちらを見つめていた。
「どういう意味ですか?」
そう尋ねる。意図は分かる。それでも、尋ねずにはいられなかった。彼が何を考えているか、それが気になったから。
「どうもこうもない。言葉通りの意味だよ。あいつはイカれてしまっている。誰かが関わらなくても、あいつだけで『幸福』なんだ」
彼は淡々と語る。まるで、全てを悟ったかのように。部室での先輩の姿を思い出す。先輩は独りだった。確かに、先輩には不可解なところもある。だけど、それは僕も同じだ。僕も、『未来視』のことを隠している。他者との隔たり。それを理由に、近づくことを諦めることは簡単だ。でも、僕は先輩の涙を見てしまった。そして、彼女を一人にしたくない。そう思った。だから……
「確かに、僕には先輩がどういう人なのかは分かりません。必ず、理解できるとも言いません。それでも、僕は先輩のことを知りたい。一人にしたくないんです」
言い放つ。心臓の音がやけにうるさい。今にも、身体が飛び上がってしまいそうだ。
「そうか。なら、止めねぇよ。頑張りな。一年」
そう、彼は言い。その場を去っていった。
ⅶ
部室の扉を開ける。一枚の紙を握りしめて。階段を急いで駆け上がったからか、息が切れかかっている。思わず、膝に手を当て、顔をうつむけてしまう。
「穂鳥くん……今日はもう来ないと思ったわ」
先輩は本を読んでいた。もう、その眼に涙はなかった。
「先輩……これを……渡しに来たんです」
そう言って、一枚の紙を差し出す。
「これは……入部届……?」
そう、僕は文芸部に正式に入部することを決意した。特に、深い考えがあったわけではない。ただ、先輩のことを知りたい、信じたい。そして、先輩を一人にしたくない。そう思っただけだ。
「でも……まだ、仮入部期間は終わっていないわよ。せめて……それが終わってからでも……」
しどろもどろになりながらも、先輩は言葉を紡いでいく。けれど、僕の気持ちは変わらない。だって、もう決めてしまったのだから。
「いえ、もう決めたんです。お願いします。先輩」
頭を下げる。窓際から、オレンジ色の光が差し込み、部室を満たす。あのときと同じ。けれど……
「あなたって、本当変わってる」
顔を上げる。先輩はかすかに微笑んでいた。その日、僕は文芸部に正式に入部することになった。
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