第一話 「ありがとう」そう言いたくて
ⅰ
雨の音が聞こえてくる。あのときに言えなかった言葉を、お礼を言わないと。そう思っても、口が思うように動いてくれない。
「あの……本当にありがとうございました。あのままだったら、わたし……」
助けられた子が口を開く。声が震えている。その顔は青ざめていた、
「気にしないで。たまたま、通りかかっただけだから」
鈴が鳴るような声。やはり、そうだ。聞き間違いではない。彼女は制服のズレをテキパキと直していく。そのとき、彼女が小鐘高校の制服を着ていることに気が付いた。
やがて、彼女は歩道橋をあとにした。結局、僕は何もすることができなかった。己の不甲斐なさに腹が立つ。お礼の言葉を言うこともできないなんて……心の中を、黒々としたものが占めていく。思わず、顔をうつむけてしまう。そのとき、足元に何かが転がっていることに気付いた。
(これは……学生証?)
制服が汚れないように、ひざをゆっくりと曲げ、落ちているものを手にとる。やはり、学生証だ。カバーの表面には、星と鐘が組み合わせられたかのような紋章が刻印されている。小鐘高校の校章。若干の躊躇がよぎる。勝手に見てもいいのだろうか。けれど、これが誰のものかが分からないと、どうすることもできない。学生証のカバーをそっと取り外す。
そこには、さきほどの彼女の姿があった。白髪(はくはつ)の少女。名前の欄を見る。天音施音(あまねしおん)。それが彼女の名前だった。
ⅱ
「であるから、君たちにはここでのびのびと学んでもらいたい。ところで、君たちは小鐘高校の由来を知っているだろうか?遡ること……」
校長先生がゆったりとした口調で何かを話している。けれど、その内容は頭に入ってこない。僕の頭のなかでは、未だ、今朝の出来事が反復されている。
ポケットの中に手を入れる。さらさらとしたもの。学生証のカバーの感触。その感触が今朝の出来事が夢ではないことを思い出させる。
どうやら、学生証によれば、彼女は小鐘高校の二年の生徒らしい。
(てっきり、同い年かと思っていたけど……)
いずれにしても、この学生証を届けないといけない。そして、そのときこそ、あのときのお礼をキチンとする。そう、決心する。
ふと気付く。周囲がざわついている。いつのまにか、校長先生の話は終わっていたようだった。
「はい。静かにしなさい。」
学年主任の藤堂(とうどう)先生が声を張り上げる。依然として、周囲にざわつきは残っている。が、さきほどの騒がしさはない。
「じゃあ、皆、それぞれの教室に戻って」
そう、藤堂先生が言う。続々と、生徒たちが動き出す。そうして、僕も歩き出す。1-2の教室に向かって。また、周囲のざわつきが大きくなってきた。皆、これからの学校生活のことを話している。けれど、僕の頭のなかは、彼女に会ったとき、何を言うべきかで一杯だった。
ⅲ
「はい。それでは、ホームルームを終わります。皆さん、明日から授業なので、忘れ物をしないように」
藤堂先生はそう言うと、教室を出ていった。瞬間、クラスのあちこちに人が集まり始める。早いもので、クラスのなかでは、グループが既に形成されつつある。
「穂鳥(ほどり)―、これから、皆でカラオケに行こうって話なんだけど、どうする?」
前の席の男子、関口遼平(せきぐちりょうへい)。朗らかな調子で声をかけてくれる。
「ごめん。僕も行きたいんだけど、今日は外せない用事があって」
嘘ではない。けれど、外せない用事というわけではない。それでも、彼女は僕の恩人だ。彼女に再会して、お礼を言わないままにしておくなんて、僕が耐えられない。それに、この学生証も渡さないといけないから。
「そっか、今度行こうぜ。じゃあ、また明日な」
ニッと笑い、関口はその場を後にした。まだ会ってまもない。だから、彼のことは全然分からない。それでも、彼は良いやつなのだろう。きっと。
(よし。僕も僕のやるべきことをしよう)
そう思い、カバンを背負う。重い。大量のプリント、教科書がずっしりとのしかかってくる。姿勢が崩れそうになるのをぐっと堪え、足を踏み出す。目指すは2-1の教室。彼女のもとへ。
階段を登り切る。思わず、息をついてしまう。二年の教室は二階にある。ほんの少しの階段を登っただけだ。けれど、これほどの重さのものを背負っていては流石に疲れてしまう。
(もう少し、運動したほうがいいのかなぁ)
日頃、部屋にこもり、読書に耽る生活をしがちなせいか、どうにも、同年代の男子と比較すると、体力が劣っている気がしてならない。
やがて、息が落ち着いてくる。顔を上げる。
(ここが二年の教室……)
不思議なことに、背筋が伸びてしまう。そう言えば、小学生のときもそうだった。低学年のとき、高学年の教室を訪れると、何故か、緊張してしまったものだ。
辺りを見渡す。すると、2-1と記されたものが目にとまる。あそこに彼女が……教室の扉のまえにつく。扉の小窓から、中をそっと覗きこむ。見たところ、彼女はいないようだった。
(どうしよう……てっきり、まだいるものだと思っていたけど)
「やあ、君、一年?どしたん?」
飛び上がりそうになる。後ろを振り向く。そこには、茶髪で大柄の男の人が立っていた。目は細められ、眉間に皺が寄っている。
「はい……一年生です……でも、どうして一年生だと……?」
恐る恐る答える。なにか、気に障ることでもしてしまったのだろうか。
「はは、この時期に、その挙動不審な動きを見ているとすぐに分かる」
と、彼は朗らかに答える。
「……なるほど……」
どうやら、この人の不興を買ったわけではないらしい。顔が厳めしいからか、怒っているものだと早とちりしてしまった。
「それで?うちのクラスに用事?」
「はい、このクラスに天音施音さんがいると伺って」
天音施音。その名前を出したとき、彼の表情が変わった。まるで、苦虫を噛み潰したようなものに。沈黙。彼は表情を変えたまま、黙りこくっている。やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「悪いことは言わないから。アイツには近寄らないほうがいいぜ。どうして、アイツの名前を知っているのかは知らないけどよ」
未だ、彼の表情は硬い。そして、その言葉の中には、真剣なものが含まれている。さきほどまでの軽さはない。
「でも、どうしても会いたくて……」
沈黙が気まずい。きっと、彼女の名前を出したことがマズかった。どれぐらいの時間が経っただろう。彼は顎に手をあて、何かを考えているようだった。やがて、彼は顔を上げた。
「あとで、俺に文句を言いに来ないこと」
「はい……?」
「それを約束してくれるなら、どこにいるか話す。けど、絶対にいる保障はないからな」
そう、彼は言う。依然として、苦い表情をしている。決して、居場所を言うことに納得したわけではないのだろう。面倒ごとに関わりたくない。それでも、厄介な一年生に絡まれるよりはマシだ と。そう判断したのかもしれない。
「……! ありがとうございます!」
「図書室。そこにいることが多いらしい」
「本当にありがとうございます! それじゃあ」
精一杯の感謝の気持ちをこめて、頭を下げる。そうして、踵を返し、図書館を目指す。
◇
どうやら、あの一年は行ったらしい。あのままだと、こちらが引き下がるまではずっと食いついてきそうなほどだった。
「はあ、どうしてあんな奴に会おうとするのかね」
脳裏に、かつての記憶がよぎる。
暗い。何も見えない。体育倉庫の扉を開けようと必死に力を入れる。けれど、その努力もむなしいものだ。鍵がかけられていてはどうしようもない。自分の愚かしさにため息が出る。まさか、体育倉庫で寝てしまうなんて。きっと、寝ているあいだに、誰もいないと思い、誰かが鍵をかけてしまったのだろう。ここには誰もいない。そう思うと、ぞわぞわしたものがこみ上げてくる。もうここから出られないのではないか。そんな不安に襲われる。思わず、ひざを抱えてしまう。
「誰か……助けてよ……」
そう呟いた。そのとき、鍵を開く音がした。そうして、扉が開いていく。顔を上げる。
そこには女の子がいた。さらさらの白い髪が、月の光に照らされ、きらきらと輝いている。
「大丈夫。わたしが助けにきたから」
そう言うと、彼女は柔らかに微笑んだ。
情けないことに、俺は彼女にすがりつき、わんわんと泣いてしまった。遠い日、まだ、俺が小学生だったときの記憶。
もしかしたら、あの一年も彼女に助けられたことがあるのかもしれない。だから、居場所を教えた。やがて、彼も知るだろう。彼女が救いようもないほどに、「幸福」であることを。
ⅳ
図書室の扉の前に立つ。このなかに彼女がいるかもしれない。そう思うと、そわそわしてくる。深呼吸し、気持ちを落ち着ける。
(よし、行くぞ。今度こそ、お礼を言うんだ)
図書館の扉をグッと開ける。辺りを見回す。ちょうど、窓際の席、彼女はそこにいた。今も、外では、雨が降り続いている。窓からのかすかな光を受け、彼女の髪がきらめいている。思わず、見とれそうになる。が、頭を振って、気持ちを切り替える。そうして、彼女のもとへ足を運んでいく。
「あの、天音施音さん……?」
恐る恐る、声をかける。すると、彼女が顔を上げた。
「あなた……今朝の……」
「まずはこれを……」
そう言って、学生証を手渡す。
「……これをどこで?」
「今朝、歩道橋で拾いました。多分、階段を駆け下りたときに落としたんだと思います」
「そう、ありがとう。助かったわ。ちょうど、困っていたところだったの」
言葉とは裏腹に、彼女の表情は変わらない。まるで、人形のように。
「それで……ここからが本題なんですけど……」
「……なにかしら?」
「僕のことを覚えていますか? 昔、あなたに助けられたことがあるんです。ちょうど、この町の大通り、錦通りで車に轢かれそうになっているところを」
「……錦通り……ごめんなさい。思い当たることが多すぎて、分からないわ」
目の前が真っ暗になった。まさか、彼女が全く覚えていないとは思わなかった。僕にとって、あのときの記憶はそれほどに鮮烈なものだったから。
「そうですか……すみません。その……あのときは本当にありがとうございました」
何とか、言葉を絞り出す。
「そう。わたしは覚えていないけど、全然気にしていないから大丈夫よ」
そう、彼女は言い。こう続けた。
「だって、わたしにとって、そうすることは当たり前のことだから」
その瞬間、彼女がとても遠いものに思えてしまった。今の彼女、あの日の彼女。どちらが本当の彼女なのだろうか。
「それじゃあ、わたしはもう行くわ。学生証ありがとうね」
彼女は、僕のわきをスッと通り抜けた。ローファーの音が響いていく。やがて、図書室の扉が閉まる音が聞こえた。僕は、何も言うことが出来ず、ただ立ち尽くしていた。
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