半径0メートルの幸福論~Relative theory of happiness~

仔月

Prologue 最古の記憶。あの日の少女



それは最古の記憶。いつだったろうか。幼いころ、些細なことで、家族と喧嘩し、家を飛び出したことがあった。ポケットのなかにありったけのお小遣いを詰め込んで。そうして、雨が降るなか、近くの駅に駆け込み、切符を買った。どこへ行こうとしたかも覚えていない。ただ、遠くへ行きたかった。誰もいないところへ。けれど、そんなところに行くことなんて出来なかった。見知らぬ駅。いくら探っても、ポケットのなかは空っぽ。心のなかに冷たいものが満ちていった。そう、心細かった。雨に濡れながら、僕は必死に足を動かした。


気が付いたら、家の近くの大通りに着いていた。これで、家に帰れる。そう思い、足を踏み出そうとした。そのとき、奇妙なものが脳裏を走った。それは光景。そのなかで、僕の体は宙を舞っていた。やがて、それは地面にたたきつけられた。


信号の音が聞こえてくる。奇妙な光景を追い出そうと、頭を必死に振り回す。そうして、僕は足を踏み出す。家に帰るために。瞬間、けたたましいクラクションの音が鳴り響いた。


衝撃が走る。気が付くと、僕は宙を舞っていた。くるくる、くるくると。やがて、僕の身体は地面にたたきつけられた。顔を上げると、大きな車から、何人かの男の人が飛び出してきた。どうやら、彼らは言い争っているようだった。ああ、これで終わりなんだ、僕は帰れないんだ。そう思うと、涙が溢れてきた。そのとき、泣き声が聞こえてきた。にじむ視界のなか、そちらに目をやる。そこには、少女がいた。彼女は泣きながら、僕の手をギュッと握ってくれていた。そうして、温かなものに包まれながら、僕は意識を手放した。



これで終わった。そう思っていた。けれど、僕はたたきつけられた。何度も、何度も。テープを巻き直すかのように。何回、たたきつけられただろう。それすらも分からなくなっていた、そのとき。ギュッと引き留められた。目の前を大きな車が通り過ぎていく。手の中には、暖かな感触。振り向くと、少女が僕の手を握ってくれていた。サラサラの黒い髪、くるくるした目。そこからは大粒の涙が零れ落ちていた。


「やっと……」


鈴のような声が鳴る。ああ、きっと、彼女は天使で、僕を迎えに来てくれたんだ。そう思うと、力が急に抜けてきた。


目が覚めると、病院のベッドの上にいた。僕は生きていた。そう、あの子に助けられて……





目覚まし時計のけたたましい音がひびく。曖昧な意識のなか、手をグッと伸ばし、目覚まし時計を止める。時刻は午前六時。春先だからか。外はまだ暗く、かすかな明るさがカーテン越しに透けている。


ふと気付く。シャツが重い。触ってみると、寝汗を吸っているようで、べったりと纏わりついてくる。さきほどの夢を思い出す。あれから、数年が経った。当時、僕の身体に外傷は認められなかったが、精神的なショックを受けていたようで、数週間、入院することになった。そのあと、無事退院することはできたが、あの日のことを夢に見ることは多く、今になっても、こうして、記憶が甦ってくる。


(結局、あのときの彼女にお礼を言えていないなぁ)


そう、あの日以来、僕は彼女に会えていない。僕の命を救ってくれた人。もう一度会って、キチンとお礼がしたい。


そのとき、扉がノックされる。


「歩(あゆむ)、起きてる? 朝ごはん出来たわよ」


母さんだ。


「起きてるよ。着替えてから行く!」


そう言うと、ぼくは、クローゼットの扉をグッと開ける。そこには、小鐘(こがね)高校の制服が。慣れない手つきでそれを取り出し、袖を通していく。そうして、ネクタイを結ぼうとする。今日まで、何度か、練習してきた。にもかかわらず、僕の手は思うように動いてくれない。仕方がない。ベッドのわきのスマートフォンをとり、ネクタイの結び方を検索する。そして、それを机の上に立て掛け、見よう見まねで、ネクタイを結んでいく。


タイの先端を通す。わずかな満足感に浸る。これで綺麗に結べたはずだ。鏡を見る。首には奇妙な形状の紐が絡まっていた。スマホの画面を確認する。どう見ても、同じものには見えない。


(このっ! どうして、こんなに結びにくいものがあるんだ……)


ため息をつきつつ、タイを解いていく。


やっとの思いで、着替えを終える。何となく、落ち着かない。ふと、かたわらの姿見を見る。そこには知らない自分がいた。似合っていない。服に着られるとはこういうことを言うのだろう。


「歩―。早くしないと遅刻するわよー」


階下から、母さんの声がしてくる。時計を見ると、六時三十分だった。急がないと、本当に遅刻してしまう。


「今、行くよ!」


そう言って、僕は部屋の扉を開ける。ある春の日。今日、僕は小鐘高校に入学する。





居間に着く。母さんは席につき、テレビを眺めている。今日の朝食は、白ご飯、焼き魚、味噌汁、漬物だった。味噌汁の香りが食欲をそそる。


「「いただきます」」


二人の声が揃う。箸と食器が触れ合う音が響く。黙々と食事を進めていく。ふと、テレビを見る。そこには、朝のニュース番組が映し出されていた。ちょうど、今日の天気のコーナーだ。どうやら、今日の天気は雨らしい。せっかくの入学式の日にあいにくの雨。昔から、雨には良い思い出がない。今朝の夢を思い出しそうになる。


「雨なのねぇ。桜も散ってしまうのかしら」


と、母さんは言う。僕のことを気遣ってくれているのだろう。あれ以来、母さんはあの日のことを触れないでいてくれる。その気遣いが嬉しかった。


「そうだね。校庭には、綺麗な桜が咲いているらしいけど……散ってしまうと残念だなぁ」


箸を置く。時計を見ると、針は午前7時を指していた。今から出たら、ちょうど良い時間になるだろう。


「ごちそうさま、じゃあ、行ってくるね」


「歩、ちょっとだけ待ってくれる……?」


母さんが躊躇いがちに声をかけてくる。


「母さん、どうしたの?」


「せっかくの日だから、お父さんにも挨拶してあげてほしいの……」


そう言って、居間の奥の部屋を指す。思わず、顔をしかめそうになる。そこには、父の仏壇がある。僕が、10歳のとき、父は死んだ。病気ではない。人を助けて、それで死んだのだ。今日のような雨の日。川で溺れそうになっている子どもを見つけ、その子を助けるために川に飛び込んだ。そうして、父はその子を助け、あっけなく死んでいった。方々で、父の行いは称賛された。やれ、勇敢だ。やれ、献身的だ。昔からそうだった。困っている人を見ると、助けずにいられない人だった。別に、人助けが悪いことだとは思わない。けれど、死んでしまったあと、残される人のことも考えてほしかった……


だから、僕は……


「ごめん、母さん。まだ、僕はあの人を許せそうにない……」


そう言うと、母さんは悲しそうな顔をした。居たたまれない。けれど、自分の気持ちに折り合いをつけることはまだできそうにない。そのことが堪らなく申し訳なかった。


靴を履き、傘を持つ。そうして、忘れ物がないかを確認する。


「よし、大丈夫。じゃあ、いってくるよ」


「いってらっしゃい。気をつけてね」


玄関の扉を開ける。外では、雨が降り続いている。まるで、あの日の続きのように。





改札機に切符を通す。そうして、人の流れに吞まれながら、なんとか、駅の構内を抜け出す。思わず、息をついてしまう。まさか、この時間帯の駅がこんなに混雑しているだなんて。中学までは徒歩で通学していたから、満員電車がこれほどの疲労感をもたらすことに想像が及ばなかった。それでも、これからはこの電車に乗ることになるのだ。気合を入れ、前を向く。


そのとき、奇妙なものが脳裏を走った。それは光景。そのなかで、僕は歩道橋の上を渡っていた。目の前には、小鐘高校の制服を着た女の子。やがて、階段に差し掛かる。そのとき、女の子が態勢を崩してしまう。そして、女の子は頭から落ちていく。やがて、大きな音が響く。階下には、女の子が倒れている。真っ赤な血を流しながら……


頭を押さえる。まただ。あの日以来、奇妙な光景が脳裏を走るようになった。今まで、さまざまな光景を見てきた。そして、その光景のいくつかは実現してきた。だから、僕はこれを「未来視」と呼ぶようになった。


そして、これが「未来視」によるものならば、この光景は実現するかもしれない。だとすると……


(あの女の子が危ない……!)


辺りを見渡す。ここの通りを沿っていったところに歩道橋が見える。きっと、あれだ。急がないと……無我夢中で足を動かす。手遅れにならないように。


歩道橋の階段を登っていく。全力で駆け抜けたからか、息がきれそうになる。けれど、止まるわけにはいかない。そうして、階段を登り切る。顔を上げる。歩道橋の通りを女の子が歩いている。見ると、階段に差し掛かりかけている。


(休憩している時間はない……!)


最後の力を振り絞り、駆けだす。


「待って! そこの君!」


精一杯声を張り上げる。けれど、雨の音に掻き消されてか、女の子はずんずんと進んでいく。


(駄目だ。このままでは追いつかない)


息が上がっている。足の感覚も曖昧だ。日頃の運動不足がたたっている。それでも、泣き言を言っている場合ではない。足に力を入れ、一気に踏み込む。徐々に距離が近づいてくる。そして、女の子の背中に手が届きそうになる。その瞬間、彼女の姿勢が崩れる。


彼女の手をとるため、足を踏み込もうとする。そのとき、母さんのことが脳裏をよぎった。一瞬の躊躇が僕の足を止めた。そうして、彼女はゆっくりと落ちていき……


「どいて。危ないから」


思わず、声のほうを見る。少女が自分のわきをすり抜けていく。そして、何の躊躇もなく踏み込む。倒れていく彼女のほうへ。少女は一足飛びに階段を駆け下りていき、落ちてきた彼女をグッと抱きとめた。


「大丈夫かしら? 怪我はない」


鈴のなるような声。サラサラとした白い髪。そして、どこかあどけなさが残る顔立ち。


「はい……大丈夫です。ありがとうございます」


彼女は困惑しているようだった。きっと、何が起こったか分からないのだろう。


少女がこちらを見る。くりくりとした目に魅入られる。髪の毛の色は変わっている。けれど、僕が彼女を見間違えるはずがない。何度も夢に見てきたのだから。あの日の光景を。


「やっと……会えた」


その日、ぼくはあの日の少女に再会した。



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