第四章 I burn everything to ashes. -8-

 掌が痛いくらい何かに握られている。

 そんな感触が、引きずり上げるみたいに東城の意識を呼び起こす。


「――ひい、らぎ……?」


 その呼びかけに、目の前でぱっと咲くような笑顔があった。涙でぐしゃぐしゃになっているのに、それがどうしようもなく愛おしく見えた。


「よか、った……。よかった……っ」


 そのまま倒れるような形で東城に抱きついて、柊は嗚咽を漏らして泣いていた。まだ記憶も曖昧な東城はどうしたらいいかも分からず、ただ彼女の頭を優しくなでる。


「……俺でいいのかよ」

「いまそれ聞くんじゃないわよ、ばか……っ」


 泣き続ける柊は東城に悪態をつきながら、それでも離れようとはしなかった。

 そのぬくもりを東城はずっと求めていた。――きっと、彼女と出会うずっと前から。

 そう思えるくらいに心地よさがあった。柔らかくて、あたたかくて、心の奥底から何もかもを満たしてくれる。


 ――けれど。

 東城は彼女の肩を掴んで、そっと引き離した。


「悪い」


 そう言うしかなかった。

 朦朧としていた意識が回復するにつれて、記憶は明晰になってくる。

 柊とぶつかるように誰が仕向けていたのか。

 その目的なんて、考えるまでもない。


「いまは行かなきゃいけない」


 ゆっくりと、それでも東城は立ち上がろうとする。

 おそらくは神戸が治してくれたのだろう。だがそれでも認識と体がまだ繋がっていない。そもそも全身の筋肉が感電で使い物にならない状態になっているはずで、どれだけ力を入れたって震えるのは隠せない。


「っ、何、してんのよ。まだ寝てなきゃ――……」

「所長を止める」


 宣言があった。

 それだけは、絶対に譲ってはいけなかったから。


「所長は研究を再開させたがっている。じゃあこのアリスラインに来た理由なんて、この街をぶっ壊す以外にない。その邪魔になりそうなレベルSをまとめて潰し合わせてたんだ」


 だから、この結果すらきっと所長の掌の上だ。どちらが勝とうが彼にとってはどうでもいい。ただ三人が立ち上がれる状態でなくなりさえすれば。


「だから、俺がこの街を守るよ」


 ここで立ち上がれば、ここで立ち向かえば、きっと柊には辛い思いをさせる。また泣かせることになるかも知れない。――そのまま、東城大輝だって命を落とす可能性も。

 けれど、それが止まる理由にはならない。

 ここで膝を折ってしまえば、もう東城は東城でなくなってしまう。

 どんな困難にも己の身を顧みずに立ち向かう。そんな英雄に柊が惹かれていることは百も承知で、自分がそうなれないことなどそれ以上に分かり切っている。


 それでも。

 それでも、その偶像に近づきたいと、そうありたいと、覚悟を決めたのだから。

 馬鹿みたいだと自分でも思う。けれどそれを譲ってしまうことはもう出来ないから。


「やめ、てよ」

「……、」

「私が、ひどいことを言った。それは謝るから……。許してもらえないって思うけど、それでも。――だから、お願いだから、これ以上無理をしないでよ……っ」


 ぼろぼろと涙をこぼしながら、柊は言う。東城の服の裾を、すがりつくように掴んでいる。

 こうして彼が無茶をしようとするのは自分の言葉のせいだと、彼女が東城を英雄であれと駆り立てたと、彼女は思っているのだろう。

 そんな自分の憧憬を切り捨ててでも、彼女は東城に生きて欲しいと願った。だから、涙をこぼして懇願する。

 そのすすり泣く声に心を引き裂かれながら、それでも東城は小さく唇を噛んだ。


「お、ねがいだから……。何でもするから……っ。もう、もう戦わないでよ……っ!!」


 柊の最後の絶叫に、東城の心が音を立てて軋む。

 うなずけたらどれほど楽だろう。

 きっとそうするのが当たり前で、きっとそうするのが何よりも正しい。

 それでも彼は、もう引き下がれない。


「……無理だよ。それは、それだけは、選べない」


 東城のプライドだけではない。ここで引き下がれば、九〇〇〇の能力者はまた自由もなく昏い檻の中に戻される。そんなこと許されていいはずがない。

 助けると、誰も彼も一人残らず救うと、そういまの東城大輝自身が誓ったから。

 だから、それを為すだけだ。


「また、死ぬって言うの……っ? 二年前みたいに、私を置いていくの……っ!?」


 その言葉が卑怯だと、きっと彼女だって分かっている。それでも、彼女はその言葉を振りかざしてでも東城を引き留めたかったのだ。


「そんなの許さない。だったら私がやる……っ。元々、こんなふうに大輝を傷つけたのは私なんだから。だから、せめてその分くらい私が――……」

「駄目だ。――俺は、お前に傷ついて欲しくない」

「な、んで、そんなの私もおんなじだって分かんないのよ……っ!!」

「分かってるよ。分かってて、それでもこうするしかないって思ったんだ」


 彼女を一〇〇%傷つけない方法なんてない。だから東城は選ぶと決めた。――彼女の涙を世界よりも尊いものにするのだと。

 たかだか九〇〇〇人、救えなくてはそれも果たせない。


「――ッ。あんたは、この前までただの一般人だったじゃない。七瀬に誓ったことだって、こんな事態までは想定してない。あんたが命をなげうってまで頑張る理由なんて――……」

「あるんだよ」


 言って。

 東城は少年のような笑みを浮かべる。



「俺は、お前のことが好きだから」



 その言葉はまるで魔法のようで、柊の崩れた表情が硬直した。


「夜闇の中で輝く柊の姿を見たときから。教室で初めて声をかけたときから。――いや、違うな。たぶん出会うずっと前から、俺はお前のことが好きだったんだよ。だから、頑張るんだ」


 だから。

 だから、東城大輝は命を懸ける。

 たった一人、恋した少女を守るために。


「笑ってて、くれよ」


 それがあまりに残酷だと分かっていて、それでも東城はそう口にする。


「いまはまだいいよ。――待っててくれ。絶対に帰ってくるから、そのときには笑顔で」


 そんな契りには何の意味もない。そんなことは東城が一番分かっている。――それでも、そんな約束を残さずにはいられなかった。

 そんなちっぽけな未練が、どこか命綱のように自分を繋いでくれる気がしたから。


「俺は、行くよ」


 まるで別れの挨拶のように、最後を惜しむように、彼は柊を抱き締めた。「あ、」と小さな声が漏れて、彼を引き止めようとしていた柊の力が抜けていく。その代わりに、子供みたいに涙と嗚咽を漏らしていた。

 彼女がここに生きているのだと、腕の中に収まった華奢な体のあたたかさが、教えてくれる。


 そのぬくもりを忘れないように。

 もう一度そのぬくもりに触れられるように。

 しっかりと心の奥に焼きつけて、東城大輝は彼女に背を向けた。

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