第四章 I burn everything to ashes. -4-
アリスライン自由都市・地下街、新居住区予定地。
残された一七〇〇の能力者の居住区となる予定のこの階層は、今は瓦礫の山だ。未完成のビルの鉄骨やあるいはその残骸が乱立しているだけ。
ほとんどが灰色に押し潰されたみたいな世界の中、天蓋に投影された夏の青空だけが虚しく広がっている。
そんな場所に、東城大輝は足を踏み入れた。
目的は、一つ。
「――いるんだろ、神戸」
東城の呼びかけが灰色の空間に木霊し、その残響すら消えてさらに数秒。
物陰から、闇から生まれ落ちるみたいに、その少年は姿を見せた。
「覚悟は決まったみたいですね。それは何より。――僕を殺せば、柊先輩の体内を蝕んでいるリンパ球は活動できなくなります。実際、僕の能力だけで持っているようなものです。残ったところで先輩の体内の正常な免疫細胞に殺されるでしょうし」
見せつけるみたいに、彼は左の手の甲を晒す。――そこには、亀甲にも似た紫紺の刻印が浮かび上がっていた。
「……そうか」
「だから単純明快です。殺すか、殺されるか。シンプルでいいでしょう?」
彼は足下を蹴りつける。
たったそれだけでアスファルトに同心円状のヒビが走った。
およそ人間に許される膂力ではない。触れられるだけで、そのまま全身が砕け散ってもおかしくないだろう。手加減などもうしないと、そういう宣言だ。
――それを前にして、なお。
「悪いな、神戸」
ざり、と靴底で確かめるみたいに東城は地面を踏み締めた。右目の周囲が燃えるように熱くなって、全身から溢れるように滾る業火は天壌すらをも焼き焦がす。
笑う。
状況の何かが変わったわけではない。眼前に立つ敵は悪魔のようで、その強さは微塵も衰えてなどいない。それでも東城の中に怯えはない。
――あれほど絶望に打ちひしがれていた少年は、もうどこにもいなかった。
「俺はもう逃げないよ」
九〇〇〇の能力者の頂点、レベルS二人の視線が交差する。
合図はなかった。
ただ猛然と突進する神戸に対し、東城は紅蓮の業火を解き放つ。
実体を持たない爆炎といえども、それは音速を超えて金属塊を放つほどのエネルギーの塊だ。力任せに生体で突破できるようなものではない。
足を引き抜くように、神戸の体が宙を舞う。
それを東城大輝は見逃さなかった。
右手で自身の炎を掴み、それを剣のように成形する。
炎に実体はない。だが、能力で無理矢理に押し固めることは出来る。例えるなら、それは風船のようなもの。空気に形はなくとも、風船という
低レベルであればその風船は紙風船のような脆さだろうが、ここにいるのはその頂点に君臨する燼滅ノ王だ。その擬似的な硬度はもはや鋼を超えている。
「甘いんですよ」
だが、そこから繰り出す斬撃の全てを、神戸は素手で受け止めてみせていた。
能力で押し固めた際に刃もきちんと成形している。その上で千度を超す高温だ。ほとんどのものは容易く焼き切ってしまうその剣を受けてなお、何でもないように涼しい笑みを浮かべていた。
「本当に僕を殺すつもりがあるんですか?」
「……ねぇよ」
言い切って、東城は神戸の腹に蹴りを入れて間合いを取り直した。爆炎による推進を切り、神戸に合わせるように東城もまた地面に足をつく。
神戸からは一瞬、あの作った仮面みたいな笑みが途絶えていた。
「どうして? 柊先輩を見殺しにするんですか? ――今この瞬間にでも、僕はあの人を殺せますよ」
「殺さないよ。――お前はそういうやり方を選んでる」
今の一瞬の攻防でも十分すぎるくらいに分かった。――神戸には、東城を殺す気がない。三日間の修行期間で東城の体に触れる機会なんて腐るほどあったのだから、そこで何かを仕掛けたってよかった。
本当に殺す気があるなら、そもそも柊をGVHDにする理由だってない。胸を刺し穿ったその瞬間にもう決着はついていた。
行動が支離滅裂だ。明らかに矛盾している。
「ただ煽るだけ煽ってるだけだ。殺すつもりがないってことを誤魔化してるだけだろ」
「二年前にあなたを殺したのは僕ですよ。殺す気がない、なんて吐き気がするほど甘い勘違いですね」
「……言うつもりがないならそれでいい。柊を助けるのにお前を殺す必要なんてない。一発ぶん殴って、フリーズさせればそれで終わりだ」
東城の言葉に、神戸の笑みは消えていた。
そしてしばらく睨み合った後、神戸はふっと肩の力を抜いた。
「…………いいですよ、そんなに知りたいのなら教えてあげますよ」
殺気はなく、戦意もない。――当然だろう。東城がまともに殺し合おうとしないのであれば、神戸にはここで無理に戦う意味がないはずなのだから。
いら立った様子で自分の唇にカリカリと爪を立てて、神戸は口を開く。
「僕の能力名は神ヲ汚ス愚者。『細胞』を生み出して自在に操る能力です。そしてこの能力は、研究所が初めて成功させた超能力者の能力でもあります」
「……何を言ってんだ……?」
神戸の見た目は十二、三歳。どう見たって東城たちの方が年上だし、東城たちだって最初期の能力者ではないだろう。初めての能力者、なんて呼称は絶対に年齢が足りていない。――神戸の能力であれば外見を偽造できるかも知れないが、そこに意味があるとも思えなかった。
だがそれに応えることなく神戸は続ける。
「超能力を得るには、遺伝子操作が不可欠です。でも、普通に考えてくださいよ。それの出来る胎児がそんなに手に入るわけないじゃないですか」
それは当たり前だ。実態も不透明、明かされたところで軍事兵器の開発などというふざけた研究に、腹の子供を、あるいは自分自身の体を預ける親などそういるわけがない。金に目を眩んだとしても限度がある。
だが、そこに矛盾があった。
実際には、九〇〇〇もの能力者が生み出されているのだから。
「ようやく初めての能力者として『神ヲ汚ス愚者』を生み出した研究所は、彼の能力を用いて母体を生み出すことで自給し、その問題を解決しました。――あぁ、ちなみに直接に能力者を生み出さないのは、それじゃただのヒトの機能を持っただけで心のない人形しか出来ないから、らしいですけど」
精子バンクやらで精子と卵子だけならよっぽど楽に入手できますしね、と神戸は付け足した。
「けれど、母胎の生成やその管理に尽力させた結果、神ヲ汚ス愚者は過労によって再起不能な状況に陥りました。まぁ当然といえば当然ですよね。失敗数を考えれば一人で数百、数千の母胎を操作していたんですから。――だから研究所は彼の能力を用いて、彼自身の体細胞クローンを生み出しました」
どくり、と鼓動が嫌になるくらい耳に障る。
神戸の続く言葉を、もう東城は理解してしまった。けれどそれは、あまりにも残酷だ。
「僕、神戸拓海はその始まりの能力者のクローンの一人なんですよ」
吐き気がして、思わず東城は口を押さえた。
研究所がやらせたことは、自分の命の複製だ。自らが使い潰した過労死寸前の人間に、いずれ過労死させる予定の新しい肉体を作れと、そう命じたのだ。
ふざけている。
狂っている。
歪んでいる。
だが、それが事実なら――……
「お前、まさか――っ!?」
「そう。僕は僕を憎んでいる。僕のせいで研究所はここまで肥大化したのだから。僕のせいで九〇〇〇もの不幸な命が産み落とされてしまったのだから」
つまり、神戸の望みも策謀もただ一つ。愉悦や狂気などでは決してない。
初めから、彼が言っていたとおりだ。
――殺せるものなら殺してくださいよ。
死による贖罪。
九〇〇〇もの能力者を生み出してしまったその悲劇の罪科を、彼は一人で背負おうとしている。
「けどね、僕は死ねないんですよ」
そう言って、彼は泣きそうな顔で自分の頭蓋をコツコツと叩いて指し示した。
「クローンは同じ能力を発現します。そしてそれは、互いに干渉できるということでもあります。――幾千もの神ヲ汚ス愚者が使い潰される中で集積した『死にたくない』という願いが、能力として僕へ向けて発動してしまった」
クローンは、記憶はなくともその能力を引き継げる。それは東城自身も感じていたことだ。
扱った覚えもない紅蓮の業火を自在に扱えた。あれは、かつての東城の経験がシミュレーテッドリアリティを介して今の東城に流れ込んでいたのかも知れない。ならば死した能力が今の神戸に対して発動していたとしてもおかしいことは何もないだろう。
だから、彼は不死身なのだ。
「僕が欲しいのはただ一つ。この不死の再生能力を上書きできるほど殺して殺して殺し尽くせるような、そんな絶対的な強さを持った能力者です」
神戸が柊や東城を煽っていたのは、それが理由。レベルSの二人であれば、その神戸の望みを果たすことが出来るはずだったから。
「さて、ここで問題です」
受け止めきれない事実を前に動けずにいる東城をよそに、神戸はまたあの笑みを取り戻していた。
仮面のような、不気味で気持ちの悪いその笑みを。
先ほどまで見せていたいら立ちがただの演技だったのだと、そう気づかせるには十分すぎた。
「心優しい東城先輩は、今の話を聞いても僕を殺そうとはしないでしょう。二年前がそうだったから、口止めのために殺すしかなかったんですし。――けれど、それでも僕は真実を告げた。どうしてでしょう?」
血の気が引く。
その問いの答えに、東城は気づいてしまっていたから。
「柊先輩を人質にすれば、怒りで東城先輩が僕を殺してくれる。仮にそうでないとしても、もう一度東城先輩を殺せば、柊先輩は憎悪に任せて僕を殺してくれる。――どっちだっていいんですよ。ただ先輩たちが互いを命よりも大切だと思っていてさえくれるなら」
だから彼は事実を告げた。
東城が拒んだところで、今度こそ柊が神戸を殺してくれるから。
結末は変わらないことを、確信しているから。
「二年前にはこんな方法は使えなかった。柊先輩はクローンであるあなたを守ることにほんの僅かな救いを見いだしていましたし、あの場で真実を告げれば心が壊れたことでしょう。そうなればアリスラインは運営できず、能力者は全員路頭に迷うところだった」
彼の目的は贖罪だ。だから、絶対に能力者は救い出さなければいけない。――それさえ満たせるのなら、どうだっていい。
「もう十分ですよね。街は整った。残った一七〇〇の能力者が救い出されるのも時間の問題で、クローンであるあなたと柊先輩の絆も確固たるものとなった。ピースは全部揃ってる」
初めから、神戸はその為だけに行動していた。
そう考えれば合点がいく。
全てに説明がつく。
――だけど。
「冗談じゃねぇ……っ。それでお前が死ななきゃいけないなんて、絶対に間違ってる」
「……甘いんですよ。そういうぬるいヒーローごっこがしたいんなら、僕の前以外でやってください」
神戸はそう言って、手近な瓦礫の影に手を回した。意図は不明。だがその瞬間の神戸の顔に、不敵な笑みが浮かんでいるのだけが見えた。
そこから、風が駆け抜けた。
何が起きたのか、理解する余裕などない。ただそれに反応できたのは、燼滅ノ王の扱い方と共に流れ込んできた、ある種の本能のようなもののおかげだ。脳が何かを認識するよりも遙か早く、爆発を推進力にほとんど自分を
「な、んだ……っ?」
見れば。
東城の立っていた位置に、その頭蓋があった高さに、禍々しく輝くものがあった。
それが槍だったのだと、ようやく気づく。長さは五メートル近い。もはや旗かと見紛うような長さのそれは鈍く銀色に輝いていて、その内の一メートルほどが分かたれた二本の槍頭で占めていた。
そんな異常な長さの槍をこともなげにくるりと回し、爆発音にも似た重い金属音を響かせて、神戸は槍頭を上にして突き立てた。――歪んだ気配すらなく、その槍は神戸の傍に直立する。
「しかし硬いのはいいんですけど、さすがに重すぎましたかね。全速力ではないとはいえまさか不意打ちを避けられるなんて、ちょっとショックですよ」
瞬間的に出力を上げた肉体の調子を確かめるみたいに、隙を晒して神戸は右腕を大きく回している。
しかし東城はその隙に飛び込めなかった。
構えは確かに隙だらけだ。だが、常軌を逸したその身体能力が前では目に見える隙など当てにならない。――刹那の内の槍撃がその証拠だ。
「呆けていていいんですか?」
言葉があった。
同時、東城は迷わずに眼前に炎を形成して盾を展開した。
灼熱の壁だ。触れるものを全て溶かし尽くし、プラズマへと昇華させて隷属を強いる、最強の能力者たる燼滅ノ王にのみ許された絶対防御。
――それを。
その銀色の槍は一顧だにせず突き破った。
「な――ッ!?」
驚愕より先に、ただ反射的に体は動いてくれていた。身をよじり、その刺突をギリギリで回避してみせる。
「残念」
それすらせせら笑い。
神戸が横に薙ぎ払った五メートルを超す槍は、そのモーメントを持ってして東城大輝の体を易々と吹き飛ばしていた。
「――っが、ぁぁああ!?」
重い衝撃が内臓をぶち抜いて、そのまま背中から辺りの鉄骨へと激突していた。響く乾いた音は、その鉄骨からか自身の頭蓋からか。
下半身がもげたのかと錯覚するほどの激痛に東城はのたうち回るしかない。吐き気に抗わずにいれば口から出たのは吐瀉物ではなく、赤黒く粘ついた液体だった。
「どれだけの高温を用意したって、あの一瞬じゃこの槍は溶かせませんよ。それどころか軟化もしないでしょうね」
柄尻を握るようにしてその五メートルの槍を最大限長く持ち、神戸は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
「この槍は全て余すところなくタングステン鋼で作られています。これをあんな一瞬の防御で無力化しようと思うのならどれだけの熱量が必要なんでしょうね」
東城の能力は燼滅ノ王、
しかしそれは、可能であるというだけだ。そんな馬鹿げた熱量を生み出せば、その時点でアリスラインの地下街は消滅するだろう。
「――なら」
言って。
東城はふらつく身体を押して、それでも業火を推進力に無理矢理に立ち向かった。
タングステンなどといっても所詮は金属だ。一切の加工が出来ないわけではない。――ならば、最小の体積の炎で限界まで熱を研ぎ澄ませれば、あの槍を切断することだって物理的には不可能ではない。
既に七瀬の水のランスでやった手で、十分に有効打になり得るはずだ。仮に切断まで行かずとも、あれほど長大な槍であれば切れ込みさえ入れられれば爆発の加重と合わせてへし折ることだって出来るだろう。
だが。
「先輩の考えてることくらいお見通しですよ?」
神戸は槍をぴたりと構える。その穂先を東城の眼球へと向けて。
「な――っ!?」
たったそれだけ。それなのに、東城は急制動をかけるしかなかった。
距離感が完全に消失した。神戸の構えた切っ先が常に点となって東城の視界に存在して、その柄を決して見せない。神戸との間合いを計ることも出来なければ、どこにプラズマの刃を振るえば当たるかさえ。
まるで魔法のようだった。
気がつけば東城は神戸の間合いの中にいて、ただの一撃であっさりとその槍に薙ぎ払われていた。
「が、ふァ……っ!!」
「槍に触れることさえ先輩には出来ませんよ。レベルSの肉体操作能力者が相手なんですよ? 先輩の眼球運動さえ僕には手に取るように見えますし、トリックアートみたいに間合いをずらすことだって息をするより簡単に出来る」
頭上でタングステンの槍を振り回す神戸はべらべらとその舌を動かし、三日月のように口を歪めて嗤っていた。
「細かく熱を蓄積させるのも無駄。この二叉の槍は冷却効率を上げるためです。爆風で
たった一つの武器だった。しかしそれは完膚無きまでに東城の能力を封殺している。
「まぁそれでもこんな戦法を選べるのは僕だけでしょうけどね。溶かせないとはいえ金属のこの槍を先輩に向けて振るったら、熱伝導率がすごくいいせいで槍の前に腕が溶けますから。僕の再生能力がないとただの拷問道具だ」
そんな風に笑う。それは裏を返せば、神戸拓海が持つ限りおおよそ何の弱点もないという意味でもあるから。
「――勝てると、思っていましたか?」
現実を突きつけるように、神戸はその槍で空を切る。それだけで、まるで鉄板でも叩き割ったのかと錯覚するほどの破裂音が響いた。――空気を割った音だ。鞭と同じ、それだけで音速を超えているのだ。
突き刺されれば致命傷。避けたところで音速の打撃はことごとくを破壊する。
「僕は死ぬためだけに生きてきた。この二年間はなおさらです。ただこの瞬間に僕が救われる余地もなく殺してもらえるよう、幾千幾万もの策を張り巡らせ、先輩たちの能力を一片だって見落とさず研究し尽くした。――一朝一夕で超えられるだなんて、図に乗るなよ」
そして。
「僕を殺せないのなら、さっさと死んでください」
言葉は東城の眼前で。
気づけば、突き出された槍が東城の左肩を貫通していた。
遅れて、血が噴き出した。
「――っご、ぁぁぁあああ!?」
頭の中、さらにその奥の脳髄から突き破るように熱が噴き出す。眼球が飛び出すかと思うほど、訳の分からない力が体の奥で爆発している。
一メートルはある分かたれた二本の槍頭のうちの一つが、その半ばまでを東城の左肩にうずめていた。神戸がぐり、とねじるだけで、これ以上はないと思っていた痛みの信号がその限度を超えて荒れ狂った。
それでも、砕けそうになるくらい歯を食いしばって、東城は必死に耐えていた。ここで痛みに負けてフリーズを起こしてしまえば、その時点で何もかもが終わってしまう。
事実、神戸はもうこれで決着はついたと思っているのだろう。
――それは、あまりにも甘い。
東城は朦朧とした意識のまま肩口の刃に触れていた。
「図に乗ってるのはどっちだよ……っ」
「無駄ですよ。先輩の筋力で僕を押し返そうだなんて――……ッ」
言いかけて、何かを察した神戸は引き抜こうとした。――けれど、もう遅い。
神戸は槍を引いていた。だが肩に槍の穂先は残ったままに。
「これを溶かせないのは、防御の一瞬だからって話だ。――だったら、掴んでしまえば焼き切れる……ッ。残ってるそれも曲がっちまってるから、距離感を狂わせることはもう出来ない。ヒットアンドアウェイをやめたお前のミスだよ……ッ」
言って、肩口に残った穂先を東城は無理矢理に引き抜いた。腕が引きちぎれるかと思うような激痛に耐えて、地面に倒れたまま虫みたいに身を丸めて、東城は舌を噛まないように呻く。
ぼたぼたとアスファルトの上に血だまりを作り、視界はぼやけて曖昧だ。いま自分がどちらに傾いでいるのかも分からない。
「……そんな傷じゃ、五分と持たずに失血で死にますよ」
神戸の言葉を遮るように、じゅっと、嫌な音がした。
東城の顔が酷く歪み、うっすらと傷口から白い煙が漂う。同時に人体の焼ける独特の嫌なにおいが鼻の奥を刺激した。
「な、にを――」
「焼いて、出血を止めた……ッ」
粘つく汗を額に滲ませながら、それでも東城は笑おうとしてみせた。
高位の超能力者は自身の能力の影響を打ち消せるが、あえてそれを意識的に切ることもできる。東城の爆発を推進力にした加速もそうだし、いまの止血も同様だ。
そしてそれには痛みが確実に伴う。東城が高速移動を難なく行えているのは、その衝撃の方向を緻密に計算し、熱や反動といったものが自分へ向かないようにコントロールしているからだ。今の止血の苦痛は、なんら和らげるものが介在できない。
「馬鹿なんですか……? そんなの、なんの意味もない。ただ自分を痛めつけて、負けるまでの時間を延ばしてるだけだ……っ!」
勝てる道理なんてない。
そんなことはもう脳を掻きむしるみたいに走った痛みが嫌というくらい教えてくれている。心よりも先に、ただの一撃で体が折れた。
――なのに。
「勝つ、さ……」
かすれた声しか出なかったのに。感覚のなくなった足だが動かしてみたら動いたから、なんていうありさまで、それでも東城大輝は亡霊のように立ち上がった。
「俺はもう、何一つだって取りこぼしたりなんかしない……っ」
浮ついた感覚を叩きつけるみたいに東城大輝は地面を踏み締めて、その両の足で根を張った。
「……なんで、そうまでするんですか」
言いながら、神戸はタングステンの槍を振るう。
とっさに炎の剣で受け止めた東城だが、演算で固めた剣が折られることはなくとも、根本的な筋力差が絶望的だ。呆気なく地面から引っこ抜かれて、軽々と吹き飛ばされていた。
砕けた瓦礫の山を転がって、痛みに喘いで、それでも眼光だけは衰えない。震える体に鞭を打って、それでも自分の足で東城大輝は立ち上がった。
「勝てるわけがないじゃないですか。同じレベルSです。たとえ有利不利があるとしても、事前に策を練り続けた僕とその場しのぎの先輩とじゃ話にならない。――もう諦めればいい。僕の命になんて価値はない。殺すと、そう約束してくれれば先輩は傷つかずに済む。柊先輩だって守れるんです」
「……かもしれない」
「僕は悪だ。九〇〇〇の命にあがないたいなんて言いながら、いま目の前で散らせるあなたや先輩に対して何の罪悪感もないんです。人を傷つけることに、僕はもう何も感じない。そんなやつがのうのうと生きていていいわけがない。……なのに、なんで」
「お前のためじゃないよ」
言い切って、東城は笑みを浮かべていた。
「俺は、柊を傷つけるしかない」
それを東城は見せつけられた。
自分という存在は、彼女が命よりも大切にしている思い出に泥を塗るだけ。たとえどんな形であろうと、東城大輝が傍にいる限り彼女の涙は涸れることがないだろう。
「それでもあいつを生かしたいなら、守りたいなら、俺は立ち上がらなきゃいけない。――だから切り捨てた。あいつを泣かせてしまうことを、俺は諦めたんだ」
そんな真似はしたくなかった。今だって心が張り裂けそうになる。
彼女一人が泣かなければいけないなんて、絶対に間違っている。
だけど、そんな道しかなかった。それしか東城には残されていなかった。
だから。
「決めたんだ。俺に柊を泣かせないなんてことが出来ないなら、他の何一つだって出来ないことをなくせばいい。――世界だって救ってやる。そうすれば、あいつの涙は世界よりも重いものだって俺が証明できるから」
道がないのなら、せめて。
それだけが東城大輝の立ち上がった理由だ。もはや天秤にかかりさえしない。それで得られるものが何一つとしてない。そんなことは分かった上で、それでも、そんなことでしか東城は自分を許せないから。
「だから、お前も見捨てない。お前がそれを拒んだって関係あるかよ。俺が救いたいと思った。だから救う。それだけで十分だ」
あまりにも高慢だと、自分でも思う。けれど、それでもいいと思えたから。
他の何よりも大切なそれを東城は切り捨てた。だからその他のものは一つ残らず掴み取る。それが、今の東城大輝の在り方だから。
「お前を救うよ、神戸拓海。――殺せと願うお前のその心を、俺が焼き尽くしてやる」
地面を踏み締めて、東城大輝は笑っていた。
――その様子に、神戸のあの作った笑みにノイズが走ったような気がした。
同時、地面を蹴りつけた神戸は開いていた間合いを一瞬のうちに詰めると、その槍を真上から振り下ろしていた。
だが、それを東城は炎の剣一つで受け止める。耳をつんざく金属音が、この灰色の世界に反響した。
東城自身の膂力ではない。炎の剣自体を爆発させ、その加速を力に上乗せしているのだ。
おおよそ人体ではなし得ない神戸の膂力に、東城はそれだけで食らいつく。
神戸の槍撃を跳ね上げ、そのまま東城は反撃へと転じた。
獅子のごとき咆哮を上げ、東城はがむしゃらに刃を振り下ろし続ける。
その剣が爆発によって加速するのだから、どんな方向にだって太刀筋を曲げられる。筋繊維が引きちぎれようが関節がねじれようが、関係ない。東城の攻撃は神戸が立てた予測を無視して、神戸の動きのことごとくに滑り込んでいく。
人体の限界すら超えたその速度の中で、どれほどの時間がたっただろうか。
そこにあったのは、異常な光景だった。
凄絶な斬撃の嵐の中で、互いに一撃たりとも浴びせられない。ただ絶え間なく火花が二人の間で散り続け、それが攻防の軌跡と化して薄暗い空間の中で二人の間を照らしていた。
だが永遠に続くとさえ思ったその剣戟は、唐突に終焉を迎える。
東城の渾身の一撃を受けて、神戸が吹き飛ばされたのだ。
がりがりと靴底を削りながら二〇メートル近く飛ばされて、神戸はどうにか止まっていた。
「なんで……」
そんなあり得ない状況に東城は目を剥いた。
東城と神戸の力は拮抗していた。今の一撃にしたって、神戸の身体能力があればそこまで距離を開けるようなものではない。仮にそれだけの差があったとしても、先ほどまでなら着地と同時に反撃に打って出ていたはずだ。
立ち止まる必要なんてない。
「あぁ、もう時間ですか……」
小さく舌打ちをして、神戸は汗が滴る前髪を掻き上げた。気づけば彼は肩で息をしていたし、その指先が震えるほどに疲弊しきっている。
同じだけの動きを行っていた東城は、まだ息が荒い程度。どう考えても釣り合っていない。
「――っ。そうか、お前の能力は、細胞を操ることだったな」
気づく。
肉体はまとまりのあるものではない。一つ一つ異なる細胞の集合体だ。神戸はそれを操って全身の動きを底上げしている。体中の三七兆個の細胞、その一つ一つ全てを、だ。
そんな演算は当然膨大なものになる。あんな膂力で腕を振るえば、その反動だけで筋繊維も骨もずたずただ。一撃ごとに肉体を再構築し続けなければいけない。
共通のアルゴリズムがあるにしても、その演算量は東城のそれを遥に超える。そんな能力を酷使し続ける神戸の脳も、それに対応した肉体も、それらに見合うだけの膨大なエネルギーを必要とするだろう。
「持久力。不死身に見えたお前のその能力の唯一の弱点がそれってことか」
そのエネルギーが尽き果てれば、神戸はもう動けない。圧倒的な膂力を振りかざし、緻密な策略を幾重にも張り巡らせ、無敵のようにすら振る舞い続けていた神戸の、僅かな綻び。
それはどれだけの絶望を前にしても諦めなかったからこそ得られた、唯一無二の可能性だ。
策なんてなかった。狙ってやったことなんて一つもなかった。それでも東城は、たった一つの勝利の道筋を掴み取ってみせたのだ。
「……なんで、そんなに僕を助けたがってるんですか」
一度ついてしまった差は開き続けるだけだ。勝敗なんてもうこの時点に決している。それが分かっているから、神戸は攻撃に出ずにただ泣きそうな顔で呟くしかない。
「僕は救われちゃいけない。許されていいはずがないでしょう……っ!?」
神戸が声を荒げる。それはやっと、彼の感情を堰き止めていたものが壊れた証だ。激怒も歓喜も絶望も感動も、全て正しく人間のそれとして、彼の顔の上で渦巻いている。
「僕のせいで、他の誰でもない今までの僕のせいで! この研究はここまで肥大化した。生きているのは九〇〇〇人。じゃあ失敗した人数は、その途中で死んだ者は!? どれだけの数の命を使い潰したと思ってるんですか!? そんなの駄目だ。だから僕は死ななきゃいけない。死んで罪を償わなきゃいけない!」
喉が裂けてしまいそうなほど声の限りを尽くして、神戸拓海は叫んでいた。もう彼の選択は残さず東城に奪われた後だ。だから、そうやって感情のままに怒鳴るしかないのかも知れない。
「いい加減にしろよ……。お前、自分でなんて言ったか分かってるだろ」
それほどの覚悟で、そこまで口に出して、神戸はいまこう言った。『死にたい』ではなく、『死ななきゃいけない』と。
だったら、そんな人間は死ぬべきじゃない。
死にたくないと、生きていたいと思える限り、神戸拓海は生きるべきだ。絶対に生きていかなければならない。
「ちが、う。違う、違う!!」
顔を真っ赤にして神戸は駄々をこねるように叫んでいた。
そうでなくてはいけないから。
それを認めてしまえば、何かが根底から崩れてしまうから。
「お前は、確かに償わなきゃいけないことをした。――けどそれは、
その言葉に、拠り所を失った神戸は絶叫した。
タングステンの槍を構えて、もうあの膂力は見る影もないありさまで、それでも猛然と東城へと突進する。その反動は、彼の全身の皮膚を血が噴き出すという形で見て取れた。もうまともな再生も出来なくなっているのだ。
だが、対する東城の体だってもう限界だ。エネルギー云々の以前に、東城も既に満身創痍。普通だったら歩くことはおろか意識を保っていることすらままならない。
それでも、笑みすら浮かべて東城は言う。
「死んでも償えないよ、お前のそれは」
弓矢のように胸を反らして槍を引き絞る神戸へ、それよりも僅か早く踏み込んで、東城大輝は拳を握り締める。
お前の罪ではないと、だから償う必要がないと、そう言い切ってしまうのは簡単だ。それは事実で、きっと何よりも正しい。――けれどそれは、神戸拓海にとってどこまでも残酷な現実でしかない。何も出来ず、ただ幻覚の罪の重さに潰されるしかないから。
だから。
「まずは生きろよ。生きて、どうやって償うか考えろ。――
「あ、――……」
ようやく。
自分が犯したものの重さに気づいたように。
東城の拳に頬を打ち抜かれた神戸はつぅと涙を流して、その意識は真っ白な世界にのみ込まれた。
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