第四章 I burn everything to ashes. -2-


 蝉の声だけがある。

 答えられない時間が痛いくらいで、その無言に責められているような気がした。

 けれどそれでも、眼前に立つ少女――七瀬七海は決して先をうながそうとはしなかった。自分の意思で、と、そう目で突きつけている。だから引きつる喉で、どうにか声を発する。


「……分かんないんだよ」

「ご冗談を」


 絞り出すような東城の言葉を、彼女は一笑に付した。


「分からないふりは結構ですわ」

「――ッ」


 見透かされたような――事実、見透かしていて――そんな七瀬の言葉に、東城の表情が大きく傾いだ。


「勝てるかよ、あんな化け物に……」


 だから。

 もう取りつくろえなくて。

 どうしようもないくらいの弱音が、東城の口からこぼれた。


「お前を救うって言ったよ。それが出来るって思っていた。――あぁ、お前の言ってたとおりだ。思い上がりだよ。あれには勝てない」

「……わたくしたちのことは、構いませんわ」


 その東城の弱音を、七瀬は優しく受け止める。


「あれには勝てないと、わたくしも心を折られた身です。ですから、それを咎める気はありません。自らが挫折しておきながらわたくしのために命を捧げろなどと、そんな勝手をもうわたくしは二度と言わないと自らに誓いました。――けれど」


 そう言って、彼女は東城との距離を詰めた。

 そして、人差し指で彼の胸に、その心臓の位置にそっと触れる。


「それが、あなたの立ち止まる理由だと?」


 抉るような言葉があった。

 本当に、嫌になるくらい彼女は東城の心を見透かしてしまう。


「違いますわ。だとしたらあなたは、ここで立ち止まることなどしない。――逃げるはずです。本当にあの化け物に勝てないと、心の底から怯えてしまっているのであれば、迷いも何もかもを振り切って逃げ出すべきなのです」

「……うるさい……」

「子供のような回答ですわね。自分に都合が悪いからと言って、相手の口を塞ぐことしか思いつかないとは」

「うるせぇって、言ってんだろ……っ」


 頭が沸騰するような感覚があった。七瀬の言葉など無視してさっさと去ればよかったのに、そんな思考が起こるよりも前に東城は叫んでいた。

 それでも七瀬の表情は微塵も崩れない。それすらもが、余計に腹立たしかった。


「あなたが立ち止まる理由は、神ヲ汚ス愚者などではないでしょう?」

「黙ってくれよ、頼むから……ッ!!」


 そんな事実に、東城だってとっくに気づいている。

 気づいているから、どうしようもないから、きっと道を間違えたのだと、もっと手前に立ち返ればどうにか出来るはずだと、そんな無意味な逃避で心を騙していただけだ。


「――では一つだけ、お聞かせいただきたいのですが」

「…………何だ」



「あなたは、柊茅里を守りたくはないのですか?」



 今度の今度こそ、東城が逃げ続けた問いを七瀬七海は突きつけた。

 逃げるなと、そう伝える代わりに。


「このまま放っておけば、神ヲ汚ス愚者の能力に冒された柊茅里の命はありません。それは、あなたが一番分かっているでしょう」

「……っ分かってるよ、あぁ、分かってるさ!」


 どうしようもなくなって、ほとんど自暴自棄気味に東城は叫んだ。


「あいつを死なせてたまるかよ。柊を守りたい。あいつを傷つける奴は一人だって許さねぇ。その為なら命だって懸けられる。あの化け物を相手にしたってな」


 確かに東城は神ヲ汚ス愚者のその不死性に恐れをなした。――だがそれは、柊の命が懸かる前の話だ。

 柊の生殺与奪の権を握られたいま、そんな恐怖で立ちすくんでなどいられない。そんなところで止まってやれるほど東城大輝は甘くない。

 自分の命に代えても、絶対に彼女を守る。

 そんな衝動が、煮えたぎるみたいにずっと腹の奥から全身を焼き焦がしている。


「だけど、それじゃ駄目なんだ……ッ」


 それに気づいてしまったから。

 だから、東城は動けない。前にも後ろにも歩けない。


「柊は、ずっと俺じゃない俺を見てるんだ。――あいつが初めから求めてたのはもう一人の俺で、いまの俺じゃない」

「…………、」

「俺がここで立ち上がれば、なるほど、もしかしたら柊を救えるかも知れない。だけど、あいつのはどうなる? あいつが大事に抱えている東城大輝の思い出を、ぼろぼろになった俺が汚く上書きするんだ」


 本当に同じ遺伝子から成り立っているのか疑いたくなるくらい、かつての東城大輝の行動のどれもが、今の東城には考えつきもしないほど突飛で大胆で、惹きつけられる。

 まさに英雄だ。

 どうしようもないくらいに。


「生きていればいい、なんて言うんじゃねぇぞ。あいつは、柊茅里は、この二年間その小さな『思い出』の欠片のために命を懸けて戦っていたんだから」


 今の東城と彼女の知る東城は別人だ。そんなこと、誰よりも柊自身が分かっている。

 それでも彼女は東城大輝を守ろうとした。

 全く同じ容姿の東城を見捨てることが出来ないから。だから、たとえ血まみれになったって七瀬に立ち向かったのだ。


「柊を助けるっていうのは、そういうことなんだよ……っ。あいつの大事なものを、命より大切だって分かっているを、俺のエゴでずたずたに引き裂くんだ……っ!!」


 ただ東城は柊茅里を守りたかった。彼女が傷つき、涙を流すなんて認められなかった。だから拳を握って立ち上がり、その業火を掴んでみせた。

 なのに彼女を傷つける以外の選択がない。

 だから、動けない。

 どうしたって正解がない。

 東城が守りたいと思った少女は、命を落とすか、あるいは、その命よりも大切なものを壊される。そんなたった二つの道しかない。

 袋小路だ。

 だから、東城は現実に背を向けた。目を閉じ耳を塞いで逃げ出した。


「どうしろっていうんだよ……っ、俺に、何をしろっていうんだよ……っ!?」


 七瀬の華奢な体にすがりつくみたいにして、東城大輝はそんなかすれた声を絞り出す。

 救いが欲しかった。

 けれど。


「……全てを上手く収めることなど、誰にだって出来はしませんわ」


 彼女はそう突き放した。

 見れば、彼女はずっとほほえんで東城を見ている。――その瞳に映る自分の姿は、あまりにひどい。みすぼらしいくらいにぐしゃぐしゃに崩れた顔で、情けなく答えを乞いねだる哀れな姿だった。

 なのに、彼女はずっと優しい笑みを浮かべてくれていた。


「それが出来るのならわたくしはあなたを殺そうとはしなかった。あるいはここに来ることもなかったでしょう。わたくしの手で神ヲ汚ス愚者を倒せば、それこそ全て解決ですもの」


 そう言って、彼女はそっと東城の頬に触れた。

 あたたかかった。

 日だまりに包み込まれるみたいな、そんな優しさだけがある。

 そして彼女は、東城に道を指し示す。



「だからこそ、人は選ぶのでしょう」



 光が差すようだった。

 真夏の日差しの下で、自分だけが凍えていたのではないかと思えるくらい、その言葉は東城の中の何かを溶かし、粉々に打ち砕いた。

 当たり前で、ありきたりな答えだったのかも知れない。それ自体が全てを解決してくれるわけでは決してない。――それでも、その言葉は東城を突き動かすには十分すぎた。


 ――立ち上がる。

 自分の意思で、自分で選んで、その道を突き進む。

 たとえそれを他の誰が、柊自身が非難したって関係ない。

 エゴでも何でもいい。開き直りだとさげすまれるのならそれでも構わない。

 それを背負う覚悟はあるのか。そう問われているだけだ。――その答えなんて、初めから決まっていただろうに。


「もう一度だけ、訊きますわよ」


 その言葉にうなずいて、東城は天を仰ぐ。

 蒼天は高く、雲はない。


「あなたは、どうしたいのですか?」

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