第三章 I want you to never say die. -4-


 破壊の嵐が止んだあと、その灰色の世界は静寂に飲まれていた。

 あの不気味な笑顔の悪魔は見る影もない。骨すら残さず消えていた。


「……やった、のか?」

「冗談でしょ」


 ため息をついて、柊は風にさらわれる白い砂のようなものを憎々しげに見ている。


「あれはそもそも神ヲ汚ス愚者じゃない。たぶん神ヲ汚ス愚者が能力で構築した端末の一つ」


 おぞましいとさえ思える言葉を、柊は簡単に放った。


「……頭蓋を破壊されても死ななかったから、ですか?」

「別に神ヲ汚ス愚者だって頭蓋を貫いたくらいじゃ死なないわよ。あれの不死身は完全に自動発動する。――私たちが能力を放つ寸前に止めようと思っても止めきれないことがあるでしょ。既にシミュレーテッドリアリティに組み込んでしまった能力は勝手に発動されるの。あれはそういう原理を悪用してるはず」

「じゃあ、なんで……?」

「刻印がなかった。服は破れて焼けてほとんど裸だったけど、どこにも紋様が浮かんでなかった。つまりあれは能力者自身じゃない。――まぁ偵察か何かでしょうね」


 どこまでも冷静に柊は状況を見ていた。

 オリジナルの東城の仇に対して憤怒と憎悪を燃やしながら、それでも頭の奥底はきちんと冷やしていた。――震え上がり、縮み上がり、動けないでいる東城とは何もかもが違う。


「とにかく神戸を下ろして早く対策を立てないと。端末がいるっていうことは本体だっている可能性が高い。下手をすればこのままアリスラインがまるごと壊滅しかねない」


 柊はそう言って、磔にされている神戸へ電気的な加速で何かを飛ばし、彼をくくりつける鉄筋や鎖を引き千切った。

 そのまま抱き抱えるようにして彼を横たわらせる間、ずっと東城は立ち尽くしていた。


「――勝てるのかよ……」


 思わず、そんな言葉が口を衝いて出た。それは驚くほど呆気なく、東城が取りつくろってきた外面も格好も全部を剥ぎ取ってしまう。


「大輝様……」

「あんな化け物だぞ……。俺の炎で止まりもしない。どれだけ焼いたって死ぬ気配もない。あれで端末? じゃあ本体はあれ以上の化け物なんだろ……?」


 勝てるわけがない。

 たとえ最強の発火能力があったところで、死なないのではどう足掻いたって勝機がない。

 ――事実。

 それ故に、二年前に東城大輝は命を落としているのだから。


「どうしろって言うんだよ……っ。勝てるなら戦うさ。かもしれないっていう可能性だけでもあるなら、それに命だって懸けれるよ。だけど、これは駄目だ。あの悪魔に届くビジョンが、俺には見えねぇよ……っ」


 一度折れた心が、東城の体を壊れたみたいに震えさせる。恐怖に屈した体はあまりにもろくて、指先から崩れて消えてしまいそうだった。

 ほんの少し前まではただの高校生だったのだ。死の恐怖を拭えるほど強くなどない。当然で、当たり前で、そんなことは仕方のないことなのかもしれない。

 ――

 ――


「むかつくのよ……っ」


 ぎっ、と何かが軋む音がした。

 見上げれば、柊がどこまでも苦しそうに歯を食いしばって、東城大輝を睨めつけていた。

 怒りのような、悲しみのような、愛しさのような、憎しみのような、切なさのような。

 彼女の瞳の奥にあった絶望が、東城の心を穿つ。


「その顔で、弱音なんか吐かないでよ……っ」


 ぁ、と。

 そんな声が東城から漏れた。

 まるでガラスを砕いたみたいに、取り返しのつかないことをしてしまったのだと、そんな理解だけがあった。


「私の知る大輝は、どんなときでも絶対に諦めたりしなかった……っ。どんな傷を負ったって、たとえフリーズを起こしたって、私の心配を振り切ってでも前だけを見てた……っ」


 ――あぁ、そうだろうとも、そうでなくては、こんな街は作れない。

 誰しもが不可能だと思ったはずだ。目の前に積み上がった障害は数知れず、立ち向かう意思すらその壁を前にするだけで奪われる。だというのに、彼は研究所から出ることで生じるであろうありとあらゆる障害を、微に入り細を穿ち、一歩ずつ、しかし決して立ち止まらずに、ついには全て打ち破ってみせた。

 絶望も無力も当然のようにあっただろうに、彼は挫折を知らなかった。その程度で彼の心は折れなかった証左だ。

 ――きっと今の東城とは、似ても似つかないのだろう。


「その大輝と同じ姿で……っ」


 足場がひどく不確かで、自分が立っているのかどうかすら定かではない。

 ぐしゃぐしゃに歪んだ柊の表情が、わなわなと震える柊の声音が、まるで殴りつけるみたいに東城を揺さぶってくる。


「泣き言なんて言わないでよ……っ」


 つぅ、と。

 透明な滴が、彼女の頬を伝う。


「私の思い出を壊さないでよ……っ! ――私をこれ以上苦しめないでよ!!」


 痛みに耐えきれなくて心が乖離する。ただ呆然と、東城はその姿を眺めるしかなかった。

 なんでそんな風になっているのか、東城には分からなかった。――分かってはいるけれど、分かりたくなかった。

 東城が立ち上がったのは、柊茅里のためだ。

 自分なんかのために彼女が傷つこうとしているから、それをどうにかしたくて、どうすればいのかも分からないままにとにかく脅威に立ち向かった。

 全部全部、彼女が傷つく姿なんて見たくなかったからなのに。

 なのに、それがどうして、彼女を泣かせることに繋がっているのか。


「――ごめん、忘れて」


 すっ、と荒れ狂う感情の吐露は消えていた。――それはどこかで、失望にも似ていた。

 目元は少しはれていて、鼻の頭も赤い。けれど、それだけ。表情は完全に立て直されていて、もう東城には彼女の本心を覗くことすら許されはしなかった。

 拒絶だった。


「あんたはあんたで、私の知っている大輝とは違う。どれだけ似ていたって、重ねちゃいけないなんて当たり前だった」


 心が激しく軋んだ。

 彼女の瞳に自分の姿が反射している。この弱さを曝け出した醜い自分の姿が。

 見限られたと、そう思った。

 ――けれど、食い下がれない。

 そんな無様が彼女の心をまた傷つけるかも知れない。あるいは動かずにいる方が、さらに彼女の中の『東城大輝』をおとしめてしまうことになるのかも知れない。

 もう何も分からない。

 何が正しくて、どうするべきで、どうしたいのか。

 分からなくて、ぐちゃぐちゃのまま、ただ立ち尽くすしかない。


「私は神ヲ汚ス愚者を殺す。あんたは好きなようにしたらいい」

「あ、――……」


 何も言えなくて、ただ手を伸ばそうとして。



「僕を殺す? 冗談でしょう?」



 柊の胸で花が咲いた。

 真っ赤な五本の花弁は、ヒトの五指だった。


「は、……?」


 理解が出来なかった。

 それは東城も七瀬も、柊も同様だったのだろう。

 ただ、ごぼり、と。

 まるであらゆる反応がようやく現実に追いついたかのように、彼女の口から真っ赤な液体が溢れ出した。



 腕が。

 彼女の胸を背から貫いていたのだ。



「ひい、らぎ――……っ!?」


 声がかすれてまともに出ない。ずるり、と崩れ落ちながらその腕が胸から抜けるまでがいやにスローモーションに映った。

 手を伸ばそうとするのに体の動きが意識にまるでついて行かなくて、ただ彼女の体が血の海に沈むのを眺めるしかなかった。


「――いやぁ、レベルSのお二人が気を抜いてくれる瞬間なんて本当に珍しいので助かりましたよ。なにせ、二年も待ったんですから」


 からからと笑う声があった。

 倒れた柊の背後に立っていたのは、大人しそうな少年だった。

 第一ボタンまできっちりとかけていて、この熱い中にサマーベストまで着込んでいる。そんな中学生くらいの、片腕を真っ赤な血で汚した少年だった。


「神戸……っ!?」


 思考も感情もぐちゃぐちゃだ。たった数十秒前までとは、何もかもに隔たりがありすぎる。いっそ隔絶しているとさえ言っていい。

 柊に見切りをつけられ、失望され、東城はその自分の惨めさに押し潰されていた。苦しくて、もがいていて、それでも少しでも、彼女の期待を取り返したいと胸のどこかには渇望があったのかも知れない。それだけあれば、きっと何かを変えられたのかも知れない。

 けれど、もうそんな段階は通りすぎた。機を逸した。

 誰もそんなことを待ってはくれない、と。

 東城大輝にはそんな些細な躊躇すら許されないのだと、そう殴りつけるみたいに告げられている気分だった。


「そんなに怖い顔で睨まなくても。よく見てくださいよ」


 まるでいつもと変わらないようにそうほほえみを向ける神戸拓海は、地べたに落ちた菓子でも拾うような粗雑さで柊の髪を掴んで上体を起こさせた。

 血はなかった。

 服が大きく破れている程度。破れた布の下に覗く柔肌は綺麗なままで、あるはずだった風穴はおろか傷一つない。ただただ足下にだけ不可思議な血だまりだけが残されている。


「何もして、ない……?」

「そんな馬鹿な。僕が治しただけですよ」


 そう言って、神戸は掴んだ髪を離す。そのまま力なく、柊はべしゃりとアスファルトの上に横たわっていた。

 苦しげな呻きだけがある。力はなく、痛みを堪えるのとはまるで違う。もっと別の苦悶があった。


「GVHDって分かりますかね。日本語にするなら『移植片対宿主病』ってやつですけど」


 柊はただ脂汗を浮かべて、怒りとは全く違う様子で真っ赤な顔で神戸を見上げている。そのまともに焦点すら合っていないありさまに、神戸は満足そうにうなずいていた。


「まぁ拒絶反応みたいなものですよ。正確にいうなら、普通の拒絶反応が『宿主が異物を殺す』反応なのに対して、GVHDは『異物が宿主を殺す』反応ですね」

「どう、やって……」

「風穴を開けて治したんですよ? その過程で体の中に、僕が操作して活性化しているリンパ球を大量に送り込みました。本来なら発症には時間がかかりますが、その辺りは僕の能力でどうにでもなる」


 状況の何か一つでも理解できるものがなかった。いったい何がどうなって、神戸の立場はどこなのか。もうそれすら把握できなくて、全部を投げ出してしまいそうになる。


「気を付けてください。GVHDは酷く症状が重く、致死率が高いですから」


 ただそれでも、その言葉だけは十分すぎた。

 


「誰かに操られでもしたか……っ?」

「そう思いたいならご自由に」


 ケタケタと、楽しそうに笑っている。その様子はどこまでも神戸拓海と乖離していたのに、あまりにも自然に見えた。

 証拠が何かあるわけではない。けれどその言葉が真実であることに疑いの余地はなくて、そうでないと考えるのは逃避にすら思えた。


「――何が目的だ」

「何だと思います?」


 はぐらかすように彼は言う。

 あの大人しい年下の少年らしさなんてもうどこにもない。

 あるのは愉悦に歪んだ悪意だけだ。


「お前は、誰だ……っ」

「おぉ怖い。それに誰だ、はないでしょう? もう分かり切っているでしょうに」


 そう言って彼は笑みを浮かべる。

 ――目も口も三日月みたいに歪んだ、仮面じみた笑みを。

 ――ほんの数分前までそこにいた、悪魔の笑みを。



「僕が神ヲ汚ス愚者の正体でしたー」



 ――否定する材料は、どこにもなかった。

 アリスラインは原理上侵入経路がほとんど存在しない。そこに神ヲ汚ス愚者の端末があるのなら、考えるべきだ。既に内部へ潜り込んでいるのだという可能性を。

 別の能力者のふりは出来ないだろう。だからこそ、同じ肉体操作能力者には最大限の警戒をすべきだった。ましてやそれが、燼滅ノ王と霹靂ノ女帝という二人のレベルSに近しい存在であるのなら、なおのこと。


「いやぁ、推理劇の末に指をさされるのも個人的には大好きなんですけど、そういうのはもう二年も前にしっかり終わってますしね。再演するのも面倒なんで必要な所だけちゃちゃっと済ませましょうか」


 そう言って、彼は足下の柊を指さした。


「助けたいですか?」

「――ッ」

「そんなに怯える体で、何を守れるというのかは知りませんが。殺せるものなら殺してくださいよ」

「て、めぇ……ッ!」


 激昂する東城の周囲で業火が爆ぜる。――けれどそれは、決して神戸の体へ届きはしない。

 まるで、分かっているかのように。

 決して神ヲ汚ス愚者には敵わないのだと、理性を剥ぎ捨てた感情の原泉すらもが判断しているかのように。

 そんな自分の矮小さが、吐き気がするほど憎かった。


「猶予を上げましょう」


 指を一本立てて、彼は笑う。


「一日。その間に僕を殺せれば柊先輩は無事に助かる。――それまでに僕を殺せなければ、GVHDに冒されて命はない。シンプルでいいでしょ?」

「……ふざけてんのか」

「真面目に見えます?」


 嘲笑、そして嘆息。


「もう下のレベルの能力者を相手にするのには飽きたんですよね。あれはつまらない。弱い者いじめって度が過ぎるとやる側も苦行なんですよ?」


 そうして神戸は背を向けた。


「待てよ……っ」

「強がるのは結構ですが。――まずはその震えをどうにかした方がいいですよ」


 図星を突かれ、東城の顔がカッと熱くなる。――けれど、骨髄の奥から沸き起こるような震えはどうしたって止まってはくれなかった。

 誰も、何も、彼の歩みを止められない。その気概すら根底から封殺された。


「じゃないと、二年前みたいに死んじゃいますよ?」


 歩き出し背中越しに告げられた言葉が、東城の心を冷たく掴む。

 身体の中の大切な何かが、折れる音が聞こえた気がした。

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