第三章 I want you to never say die. -3-
「――どうやったらアリスラインの中に入ってこれるんだよ……っ!?」
地下街、新居住区予定地へと繋がる通路を駆け抜けながら、東城大輝は解答などないと分かっていても毒づくしかなかった。
突然の悪魔の襲撃に動揺するなという方が無理だろう。そもそも、アリスラインは物理的に隔絶されているに等しい。目下のターゲットである神ヲ汚ス愚者から侵入してくるなど完全に想定外だ。
「文句を言っていても始まりませんわ。とにかく、今は幻想ノ人の奪還が最優先です。人命を尊ぶのはもちろんですが、現状、レベルAの肉体操作能力者のバックアップを失えばわたくしたちの取れる戦略は大きく狭められる。研究所の壊滅がさらに遠のいてしまいます」
七瀬の言葉に頷く東城だが、柊は返答すらない。会敵してからに余力を残すべく全速力を出すことは封じられているにもかかわらず、柊は完全なオーバーペースで先頭をひた走っているありさまだ。
何か声をかけるべきなのだろう。――だが、かけるべき言葉が見つからない。
そうためらっている間に、東城たちは新居住区予定地へと足を踏み入れていた。
外の天候をそのまま映し出す天蓋は鉛の色をしていて、まだ建造物のない無機質な世界は、たった数十分前とは全く違って見えた。
真夏なのに、あるはずのない冷気で満たされているようだった。
「――大輝様。あちらに」
七瀬が指さした先に、見たことのないオブジェのようなものが屹立していた。
瓦礫を鉄筋で強引に結びつけて作り上げた、そんな歪な十字架だった。
灰白色のはずのその十字架は、しかし、今は赤黒い何かに汚れていて――……
「かん、べ……っ!?」
喉の奥がひりついて、かすれたような声しか出なかった。
その十字架には、まるで聖者の磔のように血にまみれた神戸拓海がくくりつけられていた。
悪趣味どころではない。狂気の沙汰だ。
もはや怒りすら湧かない。こんな真似が平然と出来る相手に、ただただ恐怖だけが募る。
「――あぁ、丁度いいところですねぇ。今やっと完成したんですよぉ」
怖気の走る声がした。
抑揚も音の高低も何もかもが狂った、声と呼ぶにはあまりに不気味な音の羅列。間延びした語尾にはナメクジか何かが鼓膜を舐めるような不快感だけがあった。
何か一枚、世界の位相がずれてしまったかのような異質な存在が、しかしこの広い地下街の一層を全て呑み込むような威圧感をまとってたたずんでいる。
「どうですかぁ、このオブジェ、なかなか上手に出来たでしょぉ? 燼滅ノ王の墓標にするのにちょうどいいかなって思うんですけどぉ」
ゆったりとした足音があった。
見れば、その十字架の足下に『何か』がいた。体格は東城とそう変わらないが、男か女かも分からない。目も口も三日月みたいな、仮面じみた笑顔をたたえた表情だけがある。
その常軌を逸したおぞましさが、東城の背筋を這い回る。
――そんな怯えを隠せずにいる東城の横で、ぞっとするほどの殺気が溢れ出る。
「神ヲ汚ス愚者ぁぁぁああああ!!」
柊茅里が犬歯を剥き出しにして、獣のような咆哮を上げる。理性なんてとっくに
眼底を衝くほどの鋭い閃光が、衝撃波のような爆音と共に炸裂する。
柊の体を起点に放たれた落雷の槍。
秒速一五〇キロ、およそ人体に反応できる速度を凌駕したその雷光は、東城たちが動き出すより先に眼前の神ヲ汚ス愚者の肢体を貫いていた。
レベルSの霹靂ノ女帝がただ怒りに任せて全霊を解放した一撃だ。たかがタンパク質で出来ただけの人体など、灰も残さず消え去るだろう。
――だと、言うのに。
「痛いですねぇ」
そんな間の抜けた言葉があった。
柊の放電を受け、下半身を失い、上半身もその大半を炭化させ、ほとんど生首だったはずのその体から、声がする。
ぞわりと全身の産毛が逆立って、本能が警鐘を鳴らしていた。
「まったくぅ、挨拶もなしに人を殺しちゃ駄目ですよぉ?」
あり得ない。あり得てはいけない。
それはまさしく、全てを冒涜する存在だ。
「まぁ僕は不死身なんですけどねぇ」
ぐちゅり、と、腐った果実を踏み潰すような、そんな湿った音があった。
黒い炭となっていた傷口が、筋肉とは思えない不気味な脈動を見せる。そして、それはピンク色にごぼごぼと泡立ち、その下から真っ白な棒――骨を突き出していった。
まるでそれ自体が生きているかのように動き回り、増殖し、標本で見たような骨格を形作っていく。気づけば粘土のようにピンクのぶよぶよした肉が貼りついて、ほんの数瞬のうちに血色のいい肌になる。
ゴキゴキと、骨を鳴らしてその『何か』は立ち上がった。
もはや傷の一つもない。ただ煤にまみれて破れ落ちたズボンを穿いただけで、柊が激昂する前と何ら変わらぬ姿だった。
その光景に、鼻息を荒げて柊の前髪で紫電が弾(はじ)ける。――次弾を装填しているようなものだろう。それが届くことはないと知っていても、怒りにのまれた柊は止まれない。
「――落ち着きなさいな。言ったはずです。いま優先すべきは幻想ノ人の奪還だと」
「うるさい……っ。第一、あのふざけた野郎を殺すことと神戸を助けることは現状じゃイコールでしょ。だったら私が殺す……っ」
頭に血が上ったまま、柊は引き下がろうとしない。デコルテの刻印は狂ったように光を放ち続けている。
――だが、それでもその言い分は確かに正鵠を射ていた。
眼前に立つはレベルSの肉体操作能力者、神ヲ汚ス愚者だ。その身体能力は想像できる範疇を軽々と超えるだろう。
あるかどうかも分からない隙を探して神戸の奪還を狙うよりは、初めから最大火力で敵を屠った方が早い上に確実だ。
「――くそ……っ」
悪態をつきながら、それでも東城の右目の周囲に刻印が浮かんだ。
怯えている時間はない。立ち向かう以外の選択肢をとろうとするのは、そちらの方に正当性を見いだそうとするのは、神ヲ汚ス愚者に畏怖した結果でしかない。その自らの心の惰弱を理解しているからこそ、自分を殴りつけてでも立ち上がらなければならなかった。
「しっかし三対一だなんて卑怯ですねぇ。恥とか外聞とかないんですかぁ?」
対峙する神ヲ汚ス愚者は余裕の表情を崩さなかった。不気味なあの笑顔だけがずっとあった。
その顔を見ているだけで、視神経から精神を侵されそうになる。髄液の奥から、恐怖と嫌悪が溢れ出る。
その怯えを殺すように、東城は右腕を振るった。放たれた業火は津波のように、回避の間隙すらなく神ヲ汚ス愚者へと迫る。だが、そもそも神ヲ汚ス愚者は避けようともしない。迫る業火を前に、ただ笑みだけを浮かべて立っている。
「――まさかこの程度で僕を殺せるとでもぉ?」
一瞬にして焼かれ爛れた皮膚は、しかし次の瞬間には元通りの色に戻っていた。
「火葬場にしたって一〇〇〇度とかの炎で一時間焼くんですよー? この程度の炎で僕を殺せるはずがないでしょー?」
ケタケタと笑いながら、一歩ずつ神ヲ汚ス愚者は東城たちに近づいてくる。まともに取り合う気すらないと、そう宣言するように。
「怯えて近づきたくないのは分かりますけどぉ。僕を殺す気なら、きちんと頭を狙わなきゃ駄目ですよぉ」
自分の頭蓋を指さしながら、平然と神ヲ汚ス愚者は言う。
「ならばそうさせていただくとしましょう」
自身の背後に無数の水のランスを展開した七瀬が、神ヲ汚ス愚者を迎え撃った。
放たれた槍撃は神ヲ汚ス愚者の四肢を、胴を、頭蓋を、容赦なく刺し穿つ。ぼたぼたと血液と脳髄が混じったものが滴り落ちた。
能力を行使するのはその脳だ。だからこそ、たとえどんな再生能力を秘めていようとそこを破壊された時点で死に至る。そうでなければ理屈に合わない。
――なのに。
「あぁ、レベルAのあなたに僕を殺せるわけがありませんよねぇ?」
嘲笑があった。
神ヲ汚ス愚者の体は水のランスに貫かれたまま。本来ならとっくに絶命していなければならないその体で、なおも彼の歩みは止まらない。
心の折れる音が聞こえた気がした。
眼前の脅威に対し、七瀬の能力ではさざ波一つ立てられない。その事実は、能力に自分のアイデンティティを見いだしているような、彼女ほどの能力者であればなおさら心を蝕むだろう。
「ひざまずかないで。――あんたが折れれば、誰も大輝を守れないんだから」
足の力を失っていく七瀬に対し、柊は冷たくそう言い放った。だがその言葉が、ギリギリのところで七瀬の心の支えとなる。
「まるで勝てるみたいな物言いですねぇ? 波濤ノ監視者なんて相手にもなりませんしぃ、そこの燼滅ノ王はガクブルで使い物にならないですしぃ。ほとんど単騎で僕に敵うならぁ、あの日の燼滅ノ王が僕に負ける訳ないですよねぇ?」
「黙ってろ……っ」
そう吠えたのは、柊ではなく東城だった。
彼女の心の弱い部分に土足で踏み入って、そのままぐちゃぐちゃに抉って潰すような惨い真似だ。それに怒りを燃やさないでいられるほど、無関係ではない。
業火をまとい、東城は一足で間合いを詰めて爆発で神ヲ汚ス愚者の体を吹き飛ばす。宙に舞うその姿を、殴りつけるように焼き払った。
そのまま、躊躇なく東城は右手に炎を形成した。――それは、ただ演算で無理矢理に押し固めただけの炎の剣だ。東城自身も爆炎を噴出することで自在に空を舞い、宙に浮いたままの神ヲ汚ス愚者の体を焼き、切り刻む。斬り飛ばされたものは一息に炎が取り込みプラズマへと昇華させ、完全に自らの支配下へと置いた。
この三日間で嫌になるほど繰り返して習得した、東城だけの戦闘スタイルだ。
空中戦。火炎を操ることで得られる高機動力を前面に活かし、かつ、神ヲ汚ス愚者の身体能力は足場がないことでほとんどが制限される。切った破片がその能力で再生することもあったかもしれないが、炭素のプラズマにしてしまえばそれは神ヲ汚ス愚者ではなく東城の支配下だ。少なくともこの状態に持ち込めれば、東城にだって勝機はあるはずだった。
怒濤の連撃は東城の思惑すら超えて、呆気ないほど神ヲ汚ス愚者の体に吸い込まれる。
斬り飛ばす端から再生するその体も焼かれ、爛れ、炭化し、次第に動きを鈍らせていく。
――だと言うのに。
「何にそんなに怯えているんですぅ?」
痛みに悶えることもなく、中空で神ヲ汚ス愚者は東城の様子をあざ笑った。
「まるで僕に少しでも動かれるのが怖いみたいなぁ?」
「うるせぇ……っ」
「だとしたら、どうしてそんなに頑張るんですかねぇ? 怯えてるならそこで縮こまってればいいものをぉ。……あぁ」
黒く炭化した手をぽんと叩いて、仮面のような笑みのまま神ヲ汚ス愚者は言う。
「そんなに霹靂ノ女帝が大事なんですかねぇ? でも自分が怖いのを押し殺してまで守らなくてもぉ」
「……ッ」
「そんなに怯えてたらぁ、あなたが先に殺されちゃいますよぉ?」
声があった。
それは。
東城の背後から。
「――ッ!?」
「空中なら僕は動けないかもってぇ? 冗談でしょぉ」
振り返り神ヲ汚ス愚者を斬り払おうとするより早く、東城の顔面がその魔手に掴まれた。
暗転した視界のまま、東城は風を切る感覚だけを覚えていた。現状が一切把握できない。ぐるぐると回転しているのか、前後も上下も分からないまま、ただ自分が吹き飛ばされたのだということだけが分かる。
「大輝様――っ!」
どこから声が来るのかすら判別できないありさまで、次の瞬間には東城はどぷんと冷たい何かに飛び込んでいた。息を吸ったつもりが気管に液体が入り込んで、ごぼっと泡のように息を吐いて悶える。
一呼吸もないうちに東城を包んでいた水はほとんど消失し、ずぶ濡れになった東城がアスファルトの上に放り出された。やっとの思いでまともな呼吸が出来て、東城は何度も咳き込みながらどうにか酸素を求めていた。
「ご無事でしたか!?」
耳鳴りの向こうで七瀬の声がする。水の滴る髪を掻き上げてみれば、顔面蒼白の七瀬が東城の傍にいた。
「あ、あぁ……?」
そして、ふと自分の背後を見やる。
ぞっとした。
ほんの数十センチもない位置に、コンクリートの壁面があった。もしもあのままの速度で衝突していたら、五体満足とは行かなかったかも知れない。――その直前で、七瀬が能力を使ってどうにか緩衝してくれたのだ。
「燼滅ノ王の脅威はその制圧力ですよぉ? 誰も近づけず、ただただ蹂躙し続けるってぇ。爆発を推進力に使うのは邪道ですねぇ。それをするということはぁ、本来なら能力者自身が打ち消せる影響をあえて受けるっていうことですしぃ」
ある一定のレベルを超えた能力者は、自身が掌握する対象によって傷つくことはない。それは無意識下でその対象を消滅させているからだ。
だからこそ、東城が爆発で飛び回っている間は意識的に打ち消さないようにスイッチを切っていた。それはつまり、その間は最強の発火能力者であっても焼かれるということだ。
周囲に無用に業火を解き放つような真似は出来ない。――そしてそれが出来ないのなら、もう何も恐れるものはない、と。
だから不用意に掴みかかれる。たった一度でも触れられればそれで十分。人体はおろか生物の限界すら超越したその膂力を持ってすれば、それだけで確実に致命傷を与えられるのだから。
「――足」
目も口も吊り上げて作り上げた仮面のような笑みが、さらにまた吊り上がったように見えた。
そうして指された自分の足を見て、東城は気づいた。
震えていた。
がくがくと、いっそ痙攣しているのかと錯覚するくらい、膝が笑ってまともに動かない。東城の脳が送る指令の一切を無視している。
「そんなに震えるほど怖かったですかねぇ? 絶叫系とか苦手な感じですかぁ?」
「ふざ、けんな……っ」
どうにか立ち上がろうとするのに、震えは増すばかりだった。足から伝播して全身が凍えたみたいに震えてしまう。
立ち向かおうとする意思が、根っこの方から腐り落ちていくようだった。
気づけば、右目の周囲に熱はない。――刻印すら、能力すらもう消えてしまっていた。
「じゃあここらで終わりにするとしましょうかねぇ? 二年前と同じようにぃ」
「そうね、終わりにしましょうか」
バチィッ、と空気が
東城たちの如何なる攻撃も意に介さずに突き進んでいた神ヲ汚ス愚者の足が止まる。
そうさせるだけの圧が、その声にはあった。
「もう二度と、私の大切なものに手を出させたりはしない」
全身から紫電を迸らせた柊の姿があった。
その表情は東城からは見えない。ただ放つ殺気だけは、時間をおいてなお研ぎ澄まされている。
触れればそれだけで絶命するほどの雷電をまとい、柊はその鉄槌を振り上げた。
「――……もう十分ですかねぇ?」
小さく神ヲ汚ス愚者が呟いた直後だった。
天と地を結ぶような雷霆があった。
もはや柱と化すほど、無数の雷電が束ねられて幾度となく降り注いだ。直径にして五メートルほどのそれは、神ヲ汚ス愚者の体を呑み込んだまま蹂躙し続ける。
視界は白に。平衡感覚すら奪うほどの衝撃波を前に、目を開けるのがやっとだった。
眼底を衝くほどの閃光の嵐の向こうで、肉を焦がし骨を焼き、ただただ消えていく人影だけがぼんやりと浮かんで見えた。
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