第一章 I must protect you. -8-
ざっ、と、柊を守るように立ちはだかって、東城大輝は壁やガラスの破片だらけの地面を踏み締める。
「お前を止めるよ、七瀬七海」
燃え盛る業火の中で、自分でもぞっとするほど低い声で東城は言う。――その声を前に、七瀬は反射的に半歩後ろへ下がっていた。
「――何しに来てんのよ、このバカ……っ」
「お前を助けに」
「敵うわけないって、分かってるでしょ……っ!?」
既に能力を使うだけの体力も残されていないのか、胸元の刻印は光を失っている。そんな状態でありながら、それでも柊は東城を叱責するような言葉を飛ばした。
そして、七瀬もまたそれにうなずいている。
「えぇ、その通りですわね。どうやら能力の使い方を知ってしまわれたようですが、その程度でわたくしを超えられると思われたのであれば、いささか侮りが過ぎるというものです」
水のランスを手に、七瀬はその切っ先を東城へ突きつける。――その水面は、東城の顔が映るほどに整え上げられている。右目の辺りを覆うような炎に似た紋様が、きっと燼滅ノ王としての刻印なのだろう。
水面に乱れがないということは、それだけ完璧に能力を制御しているということ。燼滅ノ王を前に、それでも彼女の心に動揺はないと見ていい。
「もう既に時間はあまりりありません。わたくしに撤退という手段は取れませんし、交渉も決裂している。――ならば、あなたを殺しその首を提げて研究所に戻るしかありませんわね」
放たれる殺気は本物だ。昨晩自分に向けられていなかったものですら肌を突き刺し、東城をすくませた。今のそれは、それだけで東城を射殺すような研ぎ澄まされたものだ。
それでも東城は引き下がらない。踏み締めた足が、まるで根を張ったように、一歩だって下がることを許さない。
「……決めたんだよ」
東城の周囲で、業火が唸りを上げる。
「どんだけ怖くたって関係ない。――俺は何も見捨てたくなんかない。だから一つも取りこぼさない。この手で俺が、全部を救ってみせる」
そんな東城の言葉は、あまりに身勝手で軽いものだ。それは血の味を知らない思想だと、子供のわがままのようなものだと、東城だってそう思う。
きっと嘲りが返ってくるものだと、そう思っていた。
しかし、七瀬は予想に反して真っ直ぐに東城を見つめている。
「高慢ですわね。一時の正義感で覆るほど、この世界は優しくはありませんわよ。そのちっぽけな善意の全てを食い散らかすほど、この世は悪意に満ち満ちています」
そのヘーゼルの瞳に宿るものが何なのか、東城には分からない。――けれど、それはどうしようもないくらい悲しい色をしているような気がした。
「いいでしょう。美学を語るだけでは何も変わらないのだということを、わたくしが教えて差し上げますわ」
「やめて……っ」
「フリーズを起こしたあなたはもはや何も出来ないでしょう? 黙って見ていなさいな。――燼滅ノ王は、殺してでもわたくしが連れていく」
合図はなかった。
ただ気高き騎士のようにランスを高く振りかざした七瀬が、そのまま東城へと突進する。
だが周囲の火炎は東城の意志に沿うように蠢き、七瀬の進路を塞いだ。単調な一直線の攻撃になってしまえば、東城の動体視力でも躱す程度訳はない。
それでも軌道を修正された切っ先がかすめて、頬に焼けるような痛みが走る。
交差するように、東城のタックルが七瀬の体を弾き飛ばす。
一瞬の攻防。あと僅かでも遅れていれば、ランスは東城の頭蓋を刺し貫いていた。
額から流れた汗が頬を伝い、割れたタイルの上に滴る。遅れて警鐘を鳴らすように、心臓が胸の奥で暴れている。
能力を使えるようになり、それでようやく七瀬の前に立つことは出来るようになった。だが所詮はその程度。能力とは扱うもの。そしてそれは、全て自分の身体に依存する。
「よく躱しましたわね。何か格闘技の経験がおありで?」
「中学でバスケしてただけだよ。背が伸びなくてもうやめた」
冷や汗をごまかすように、東城は必死に強がって不敵な笑みを浮かべる。
能力での優位がどれほどかは分からない。だが、少なくとも経験値で言えば絶望的なほどの隔たりがある。その上で精神的な駆け引きでまで後れを取れば、いよいよ勝ち目がない。
「なるほど、少し甘く見すぎていましたわね。――では手数を増やしましょうか」
そんな東城の思惑を見透かしたように、余裕ぶった笑みを彼女は浮かべていた。
水のランスを複製し、両手に持って七瀬は東城へ迫る。回転数を上げてたたみかけようというのだろう。
左右から繰り出される突きを、東城は必死に回避し続ける。躱しきれないものは、掌を起点に爆発を生み出すことで大きく
東城の意志に応えるように、火炎も爆発も自在に生み出される。範囲も動きも温度も、全てが思うがままだ。頭の中に計算式とも呼べない感覚的な演算が駆け巡り、その結果がそのまま世界へと出力されていく。
東城が思い描いたとおりに、衝撃だけは最大に、しかしその温度は徹底して押さえつけて。
「――そうギリギリで
「ふざけんな。それじゃ柊が巻き添えになるだろ……っ」
水が蒸発すれば、その体積は一七〇〇倍に及ぶ。窒素や二酸化炭素であればおおよそ七〇〇から八〇〇倍であることを考えれば、それが物質の中でも特別大きな値であることは分かるだろう。
燼滅ノ王の真骨頂であるプラズマ化による万物の支配も、その蒸発の先にある現象だ。七瀬の攻撃を防ごうと瞬間的にそれだけの熱を加えてしまえば、その体積変化が爆発となって辺りを薙ぎ払う。
七瀬が水の重さを感じていないように、柊が放電に痛みを覚えていないように、能力者が自身への影響を無効化できることは感覚で理解できる。爆発を支配する燼滅ノ王であれば、水蒸気爆発でもダメージを負うことはないだろう。――だが、それでは柊が救えない。
この状況下で七瀬が戦闘続行を選んだのも、おそらくはそれが理由だ。
動けない柊という枷が東城の全力を妨げる。最強としての
どこまでも、彼女の狙い通りだったはずだ。
なのに。
「――ッ」
その様子に、いら立ちを募らせていたのは七瀬の方だった。
「あなたは、あくまで霹靂ノ女帝を守るとおっしゃるのですね」
「……当たり前だ」
「わたくしたちは、守ってくださらなかったのに?」
ぞっとするほど冷たい声だった。
瞬間、本能に突き動かされるように東城は爆発を生み出して自身の体を突き飛ばした。本来なら打ち消す影響をあえて受けたせいで皮膚を焼く痛みが走るが、それすら恐怖が上書きしていた。
見れば、先ほどまで東城が立っていた地面がざっくりと裂けている。
不可視の一撃。水のランスとは違う、彼女の持つ必殺だ。
「能力者は、月に一度自由を与えられます。それは脱走を企てていた前後でも変わりません。本来はストレスの軽減が目的だそうですが、今ではあなたを殺すためでしょうね」
いくら東城を殺すためとは言え、残された能力者に徒党を組ませれば、再び脱走させる機会を与えることになる。だから個人で行動させる。
東城大輝を殺し、しかし能力者の拘束も緩めない。月に一度の自由の日も解放された能力者と合流できないよう、残された能力者全員が人質になっている。非効率的ではあるが、確かに『いつか』は目的に届く安全策だ。
「二年間です」
彼女は指先で自らの首を指す。そこにはチョーカーにも似た何かがある。――おそらくは、それが研究所が下手に逃げることの出来ないように課した首輪なのだ。
「自由など知らなかった頃とは違う。自由の尊さをあなたに説かれ、それを望んだというのに、わたくしたちはそれを二年もの間奪われた」
七瀬の握る水のランスが、小さく震えていた。それは凝視していなければ分からないほどにかすかで、しかし彼女の悲鳴のように見えた。
「全ては、あなたが守ってくださらなかったからでしょう?」
彼女の言う『あなた』を東城は知らない。オリジナルの燼滅ノ王と一切の接点がなかった彼からすれば、それは紛れもなく赤の他人だ。
それでも、そんなことは彼女たちには関係ない。
彼女たちは、東城大輝が取りこぼした。だから、その怨嗟が東城に向くことは何も間違っていない。
「なのに、いまさら何を守ろうというのですか?」
ランスを振り上げ、七瀬は東城へと襲いかかる。
先ほどまでの洗練された動きは見る影もない。ただ泣き喚く赤子のように、彼女は両手で暴れ回って東城を追い詰めていく。
「かつて守り切れず命を落としたあなたが。もはやクローンという別人で、その頃の記憶も経験もないあなたが。どうしてまだ何かを守れるなどと思い上がれるのですか……っ!?」
その憎悪に、東城は決して背を向けなかった。恐怖で足はすくんでいるし、命からがら逃げ出せたらどれだけ楽か。それでも、引き下がってはいけないことだけは分かっていたから。
「あなたが守ってくれなかったから、だからわたくしがやるしかないのでしょう!? たとえ自由の日の全てを食い潰すことになろうとも。わたくしの手が血に染まり、良心の全てが悪意の奔流に呑み込まれてしまおうとも! それでも、わたくししか残された一七〇〇の能力者を救える者がいないから!」
七瀬の両手のランスは暴れ狂い、不可視のギロチンは周囲を切り刻み続ける。
だが、そのどれもが東城には届かなかった。策も駆け引きも何もない。思考を放棄し、ただ感情のままにそれらを振るっているだけだ。それを躱せないわけがない。
――それほどに、追い詰められていたのだ。
すました顔で飄々と、さも覚悟など決まっているかのように振る舞っていながら、それでも彼女はただ耐え忍んでいただけだ。
本当はこんなことをしたくない。誰かを傷つけたくないと、本気でそう思えるほど優しい少女だ。けれど、自分がやるしかないから、本音も弱音も押さえつけ、押し潰し、見なかったことにして彼女はただ一人で立ち上がった。そうするしかなかった。
だから、ここまで追い詰められた。
「……俺が、救ってやる」
そんな少女を前に、東城大輝は誓いを立てる。
その為に東城は立ち上がった。
――自分を守るためなら逃げ出せばよかった。
――柊を助けるためなら自分の首を差し出せばよかった。
どれもしなかったのは、七瀬たちまで救いたかったからだ。
「ずっと、泣きそうな顔してんじゃねぇかよ。もうこんなことはしたくないって、もう誰かを傷つけたくないって、そう思えるんだろ。――だったらそう言えばいい」
「言えるわけがないでしょう……っ。わたくしはアルカナです。その力には責任がつきまとう。わたくしは強者として、弱者を救う義務があります……っ」
「違うよ。それはお前が救われちゃいけない理由にはならない」
業火が唸る。
紅の世界を従えて、東城大輝はただ真っ直ぐに七瀬を見つめていた。
「俺が救う。柊も、お前も、一七〇〇の能力者も、今度こそ一人だって残さずに」
「出来ない……っ、出来るわけがありませんわ……っ!! そんなことが出来るのなら、オリジナルのあなたが命を落としてなどいない!! ――わたくしは、あなたを信じない!!」
叫ぶ七瀬の背後で無数のランスが生み出され、まるでワイヤーで吊られているかのように中空で固定される。
一斉に投擲すれば、人体など形も残さず挽肉にされる。
だがそれを一瞥してなお、東城大輝は一歩も引き下がらない。
「なら見せてやる。俺がお前より強いって。アルカナだとかいうお前も守ってやるだけの強さがあるって、俺がこの場で証明してやる」
その言葉に、七瀬の表情が大きく揺らぐ。怒りや侮蔑、苦しみといったあらゆるものがない交ぜになって、どう出力していいか分からなくなったみたいに痙攣を繰り返している。
「冗談ならば笑えませんわね……っ。背後に霹靂ノ女帝を守らなければいけない以上、あなたは燼滅ノ王の神髄にして本領であるその高火力を、万象をプラズマと化すことで支配するその力を、解き放つことが出来ません」
すっと、声に冷静さが取り戻される。
東城は次々と投擲されるランスをほとんど転がるように躱す。だがそれはどれも紙一重。勝てるなどと思い上がれるような状況では決してない。
「爆発を推進力にするという手もなくはない。あなたの身体能力でそれが可能かは分かりませんが、もし出来れば確かにあなたの手数は増える。――ですが、屋内よりは開けた中庭とは言え、それでも手狭であることに変わりはありません。炎で飛び回っていれば、壁と正面衝突して終わりでしょう」
全ては七瀬の計算ずく。万が一彼がその力を取り戻したとしてもそれを封じきってみせると、徹底して東城の能力を調べ上げたのだろう。それは反論の余地もないほど、完璧なまでに嵌まっている。
「一方で、わたくしの能力は全て健在です。水のランスはその鋭利さも重量も、人一人を殺すには十二分。不可視のギロチンは言わずもがな。――それで、わたくしに勝てるとでも?」
言われるまでもない。状況は間違いなく、一方的に東城の不利だ。
最強の能力を手に入れたところで、所詮はそれだけ。その程度で勝たせてくれるほど甘い相手が、こんな風に東城を追い詰めたりはしない。
――けれど。
「勝つよ」
東城は宣言すらした。
それが、七瀬の最後の逆鱗に触れた。
「ならば勝手に死んでくださいませ……ッ!!」
無数のランスを再度展開し、七瀬はそれらを一斉に撃ち放った。回避は間に合わない。その全てを
だから――……
ぶしゅっ、と。
果実が潰れたような音がした。
東城の体を水のランスが貫いた――のではない。
ただ水のランス全てがその形を失っていたのだ。
「な――っ!?」
ばちゃばちゃと大量の水が滴り落ちる中で、七瀬は言葉をなくしていた。
「蒸発させた……? いや、この瞬間にそれほどの熱量をぶつければ水蒸気爆発を起こすはずです……っ。そうなれば、そこで寝ている霹靂ノ女帝も巻き添えにならなければ……っ」
「――教室に隠れてからここまで、今もずっと考えてた。なんでお前はランスなんて形にこだわるんだろう、って。ドリルみたいに回転させる意味だって分からなかった」
七瀬の問いに答える代わりに、東城はその手に握るものを振るった。
鞭のようにしなりを見せるが、そうではない。それは、紅蓮に輝くプラズマの糸だ。
「理由があるはずだ。回転させなきゃいけない理由が。――たとえば、回転させることでようやく形を保てる、とかな」
「――っ」
「見えない一瞬で切断するあの一撃も、そう考えれば説明がつく。ウォーターカッターとかってテレビで見たことがあるし、お前がそれを再現してるんだろうってことは分かる。不可視の一撃? 違うな。回転させようがないから一瞬しか形が持たないんだ」
そこまで見破ることが出来たのなら、もうチェックメイトだ。
「だから、プラズマの糸で切り裂けば回転が途切れて自壊してくれる。爆発でどうこうする必要ももうない。最小限の労力で、俺はお前を完封できる」
水のランスなら切り裂いて終わりだ。多少なら蒸発も爆発もするだろうが、接触面が小さければ問題にならない。不可視の一撃も、一瞬しか展開できないのなら先ほどまでのように視線一つから躱せば先には続けられない。
元々、全ての物質に支配権を有する燼滅ノ王だ。柊という人質がなければ戦いにすらさせなかっただろうし、その絶対優位を奪い去っても彼が勝つということは変わらない。
七瀬七海では、どう足掻いても東城大輝に敵わない。
そう突きつけるには、今の攻防は十分すぎた。
「……認めませんわ」
俯いて、それでも七瀬はそう言った。
「わたくしはそのような事実を認めません……っ」
それはまるで子供の駄々のようだった。もう何も通用しないと分かっていながら、それでも七瀬は立ち向かうしかなかった。
だが、届かない。
振り下ろされるランスは形を失い、ただ水塊となって地面を濡らすだけだ。
「――もういいんだ」
水流で生み出される無数の刺突や斬撃を全てを躱して、東城大輝はほほえみすら浮かべてそう言った。
「もうお前一人で背負わなくていい」
固く、固く拳を握り締めて、東城は言う。
周囲を圧砕し、切り刻み、刺し貫く全ての攻撃が、東城の前では意味をなさない。
全てを真正面からねじ伏せて、東城大輝は一歩ずつ、それでも確かに七瀬へと手を伸ばして近づいていく。
「俺なら、燼滅ノ王なら、きっとお前たちを助けられる」
その言葉に、七瀬の顔が悲痛に歪む。
「だから言えよ。――――助けて、って」
たった一言、ただそれだけで俺が救う、と。
何も知らないくせに、何も出来るはずがないのに、それでも東城大輝は心底からそう言った。
全ての攻撃を超えたその先で、抱き合うような至近距離で、東城を前に七瀬は水のランスを振り上げて涙をこぼす。
「――本当に、わたくしたちを助けてくれますか……?」
消え入りそうなほどの声だった。
羽音のようにか細く小さな声で、しかし彼女はその懇願をようやく口にした。
その言葉は、きっと今まで聞いた何よりも重く、尊いものだ。
「……あぁ。俺が全部、焼き尽くしてやるよ」
だから、真っ直ぐに東城はそう答える。
その返答にほほえみ、まるで彼の力を試すように最後にランスが振り下ろされる。紅蓮の業火はその一撃を真正面から弾き飛ばし、それと交差するように東城の拳が七瀬の頬を打つ。
跳ね返る衝撃は腕よりも胸に響いて、華奢な少女の体がぐらりと揺れて、東城にすがりつくように意識を失った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます