第一章 I must protect you. -5-
軽く仮眠を取ったときには、もう柊の姿はなかった。
「まぁ帰ったよな……」
怪我の手当も終わっていたし、一睡して疲れも取れたのだろう。お礼と鍵をポストにしまっておく旨のメモだけがテーブルの上にぽつんとあった。
思考は鈍い。半ば徹夜に近い状況だ。いくら軽い女子と言っても抱えて歩くのは相当の重労働。その後も手当や裁縫、洗濯などで時間は潰れている。そもそもたった数時間のうちに処理するにはカロリー過多な情報量で、寝起きの今も胸焼けのような感覚が渦巻いているくらいだ。
それでも東城はいつも通りに振る舞って学校へと向かっていた。
柊の様子から察するに、あれっきり会えなくなるわけではないだろう。今までと同じように、何でもないようなふりをして学校に来ているはずだ。だから、これから先に東城自身の身の振りようはそこで相談すればいいと、そう思っていた。
――それがどれほど甘いかなんて、昨夜のあの殺し合いを見ていれば分かっただろうに。
「……は、?」
校門をくぐり、昇降口を抜けて、そこで東城はぞっとした。
人の気配がない。
山奥に迷い込んだのかと思うほどの、異様なまでの静けさだけがあった。――自分の足音以外が、ほんの少しの間に消えてしまっていたのだ。
午前八時の学校でただの一人たりとも存在がない。まるで深夜にこっそり忍び込んだかのように、孤独と寂寥に包まれている。
「な、んだ……?」
心臓が早鐘のように打つ。
そして。
ずる、ずる、と。
何かを引きずるような、そんな音が聞こえた。――自分以外の音の一切が途絶えたはずのその空間に。
「――アイソレーション。外部の
ぞっと、そんな声がした。
聞き覚えのある、どこまでも丁寧な言葉づかいだった。
何か重くしめったものを引きずる音が、そんな声と共にずっと響いている。東城の背後から、廊下の端の方から、何かを確かめるみたいにゆっくりと。
振り返るしか、なかった。
「あらためまして、ごきげんよう」
青い幅広のカチューシャに、肩より少し長いブルネットの髪だった。柔らかくウェーブさせながらひと房しっかりと編み込んだ、そんな凝ったセットが印象的だった。
深窓の令嬢然とした整った顔は、不自然なくらい完璧な笑みをたたえていた。
首元にはチョーカー。青を基調とした夏らしい服装は、そのままファッション誌の表紙を飾っていそうなほど。
「自己紹介がまだでしたわね。わたくしの名前は、
髪を払い、恭しくその少女は礼をする。
そんな美少女を前にして、それでも東城の背筋は冷たいものが這っていた。
ゆっくりと、見たくもないのに、もう気づいているのに、それでも東城は視線を落とす。
彼女――七瀬の右手は、ずっと何かを引きずるように掴んでいた。
全体の大きさは分からないが、きっとそれは目の前の彼女とそう大差はないだろう。
彼女が掴んでいるものは、もはや元の美しい黄金色が見る影もなく、赤黒く何かに濡れていて――……
「ひい、らぎ……っ?」
しかしそれでも、その目を奪うような黄金の色を見間違うはずもなくて。
それは、どうしようもないほどの絶望にまみれた再会だった。
心臓が胸の中で暴れていて、その音で鼓膜が破れてしまいそうだった。頭はクラクラするくらい過剰に血流が巡って、視界がうっすらぼやけているような気さえする。
けれど、真っ赤な血にまみれた柊の姿だけはぞっとするほど鮮明だった。
「――あぁ、これが気になりますか?」
カチューシャの少女、七瀬は気怠そうに視線を自らが髪を掴んで引きずり回している柊へと向けた。
そして、そのまま見せつけるように持ち上げる。微かな呻き声だけは聞こえるが、彼女に抵抗はなかった。
「あなたを守ろうとしていた以上、街に戻って傷を癒やすことも出来ませんからね。奇襲と同時にその傷を突けば、たとえたった三人しかいないレベルSであろうと一方的に進めることもおかしくないでしょう?」
「そういうことが聞きたいんじゃねぇよ、テメェ……っ」
「あら怖い。――ですが仕方ないでしょう? あなたを守ると言ってわたくしたちの前に立ちはだかるものですから、力で分かっていただいただけですわ」
七瀬はそんなことを平然と言う。柊を盾にするように掲げたまま、動きはしない。
「――俺に、何の用だ」
「話が早くて助かりますわ」
血に染まるほど痛めつけた柊を、それでも命を奪わずに引きずって東城の前に来た。それはつまり、昨晩のような偶然ではなく、そうしてでも東城に近づく理由があったのだ。
裂けるほど唇を噛んで、東城はただ七瀬を睨み据える。
「交渉をいたしましょう。――あなたがわたくしに拘束され、ついてきてくださるのであれば、このまま霹靂ノ女帝は解放いたしますわ」
「……断れば」
「時間を無為にするような問いかけはおすすめいたしませんわね」
そう言って、いつの間にか握られていた透明な円錐状の武器――曰く水のランスの切っ先が、柊の喉元に突きつけられていた。
選択肢なんて、始めからなかった。
「もちろん所詮は赤の他人ですから、見捨てるという選択もあるでしょうけれど」
「……俺の人となりを知らないのなら、その可能性は低くないよな」
「えぇ」
「そんな『かもしれない』ってことの為だけに、そこまで傷つけて、引きずってきたっていうのかよ……っ」
「価値観の相違ですわね。――残された一七〇〇の能力者の自由がかかっているのです。どれほど期待値が小さくとも最善を尽くす。これは必要悪というものです」
断言すらして、彼女は血まみれの柊を掲げたまま笑みを浮かべた。
きっと、どんな言葉も届きはしないだろう。
十五年以上も平和にまみれて平凡で自由に生きてきた東城の言葉が、彼女たちの心に欠片だって響いてくれるとは思えない。
けれど、黙ってそれを許すなんてことは絶対に出来なかった。
恐怖で足はすくんでいる。背中は冷たい汗でじっとりと濡れている。それでも、目の前の少女から目を逸らすことだけはしない。
「そうまでして、俺に何の価値があるっていうんだ」
「……あら。そこすら自覚がなかったとは。一晩もあったというのに、彼女からは何も聞かされなかったのですか?」
「能力者のことは聞いた。お前たちが囚われているってことも。共鳴? だかなんだかで、能力についても把握できてるつもりだ。――だけど、俺を狙う意味が分からない」
「……共鳴、ですか?」
「柊がそう言ってた。それのせいで、俺はシミュレーテッドリアリティってヤツの存在を知覚できてしまったんじゃないかって」
柊に言われた言葉をそのまま伝えたところで、まるで耐えきれなくなったかのように七瀬は笑い出した。
「ふふ、なるほど。共鳴ですか。共鳴。それは面白い。――あなた、そんな嘘をついてまで彼を遠ざけたかったのですか?」
「う、そ……だって?」
「えぇ、嘘です。あり得ない。そんな風に能力が伝播するのなら、研究所はあれほどの赤子を失敗作と称して火にくべることもなかったでしょう? 能力は、遺伝子操作と薬物投与によってのみ発現する。それは不変ですわ」
だから、本来ならば東城は能力に関してシミュレーテッドリアリティとやらから情報を得ることなど出来るはずがなかった。
なのに、実際に東城はそこに接続している。話が噛み合っていない。
「ご自身のことを何も知らないのですわね。――自らの出自を、疑問に思ったことは?」
「――ッ」
「名札だけをつけられ捨て子として発見され、親もなく、児童養護施設で育ったそうですわね。幼い内にお医者様のおじさまに引き取られ、今の生活には何不自由ないとか」
「……どこで聞いた」
「調べ上げただけですわ。必要でしたから」
別段、それを東城が隠しているわけではない。白川も四ノ宮もそれを知っているし、腫れ物を触るような扱いをしたことだってない。
だがそれでも、それは非常に繊細なプライバシーだ。そう簡単に、昨日見知ったような女の子が一晩で知り得るような情報ではない。
逆説的に、始めから、彼女は東城のことを知っていたのだ。
「――
どくり、と、心臓が一際大きく鳴った。
イクセプション、なんて言葉を東城は聞いたことがない。それが何を指し示すものなのかも見当がつかない。
だがそれでも、東城の体は七瀬が放ったその単語一つに過剰なまでの反応を強いられていた。それはまるで、本能や魂に刻みつけられていたかのように。
「それがあなたの――……」
バチィッ、と、その声を遮るように紫電が走る。
呻きながらブルネットの髪を振り乱して、七瀬の身体がその雷撃に
「喋りすぎよ……ッ!!」
かすれた声で、それでも怒号が飛んだ。
気づけば柊の胸元、ネックレスのすぐそばで黄金色に何かが輝いていた。――刻印だ。
ずっと引きずられていた柊だが、それでも最後の力は残していたのだろう。感電し動きを止められた七瀬の手から抜け出して、そのまま血まみれの体を押して東城の手を取る。
「目を、閉じなさい……っ」
その言葉に東城が従って瞼が閉じるか否かというギリギリのタイミングで、さらに耳が痛くなるほどの轟音と共に閃光が炸裂する。
放電で擬似的にスタングレネードを模したのだろう。本物ほどの光量はないが、それでも感電している七瀬の身動きをさらに封じるくらいは出来る。味方のはずの東城ですら、三半規管が狂うくらいに耳鳴りがしている。
「こっちよ……」
かすれた声のまま、柊は東城の手を握って廊下を駆け抜ける。その手がぬるりとしていたことが、その液体の正体が、東城は恐ろしかった。
柊はあえて昇降口を抜けようとはせず、別棟の適当な教室へと滑り込んで戸を閉めた。
そして、戸にもたれかかるようにずるずると柊が座り込む。
「これで大丈夫、なのか……?」
「どうかな。どうせ馬鹿正直に昇降口に出ようとしたって罠があるだろうから隠れたけど、あんまり時間稼ぎにもならないかも。相手はアルカナだし……」
少しでも安心させるようにか笑顔を作って、それでも柊は嘘をつかず真摯に答えていた。
「アルカナっていうのは、まぁ称号みたいなものね……。私の発電能力とか七瀬の液体操作能力とか、二十二種の能力のそれぞれで最も優れた者に与えられる名前。――だから、相手は間違いなく強い。少しくらい気休めは言いたいけど、あんまり楽観視は出来ない……」
「とにかく待ってろ、いま簡単でも何でも手当を――」
「いい。それより、下手に物音を立てて、七瀬にバレる方がまずい……」
柊の呼吸は荒く、胸元の稲妻の刻印は不規則に揺れている。痛みを必死に耐えているのが東城にだって分かる。――だがそれでも、いまの東城には彼女にしてあげられることが何一つとしてなかった。
ただ己の無力を前に、歯噛みするしかない。
「――ごめんなさい」
なのに、謝ったのは柊の方だった。
「なんでお前が謝るんだよ……っ」
「……なんで、かな。色々絡み合ってて、言葉にはしづらいかも」
「だったらそんなのは謝らなくていい。――だいたい、七瀬が追ってるのは俺なんだろ。巻き込んでるのは俺の方じゃねぇか……っ」
「それは、少し違うかな。七瀬があんたをこうして追ってるのも、今のあんたには関係ない理由だから」
そう言って、柊は戸に背を預けたまま長い息を吐く。
「……教えて、くれないか。俺が何なのか。イクセプションっていうのは、何なのか」
「それを聞いてどうするの?」
「分かんねぇよ……っ。だけど何も知らないで、ただお前が傷つくのなんて納得できない」
「このお人好し。――……そういうところ見せられると、未練が出てくるでしょ」
心底呆れたように彼女は言う。最後に小さく付け足された言葉は、東城の耳には届かなかったが。
「――十七年前」
そして、そんな風に柊は切り出した。
「研究所は一人の
「それが特殊なのか……?」
「えぇ。世の中の物質には必ず融点があるし沸点もある。つまり発火能力者の手にかかれば全ての物質が形を保てなくなる。そして、形をなくした物質は、ついには電子もなくす」
ハッとした。その東城に答え合わせをするみたいに、柊は続けた。
「電離した物質。それがプラズマよ。そしてその特異な発火能力者はプラズマさえ支配する」
言われ、東城は絶句していた。
たとえば、彼が意志を持って触れれば大地であろうと海であろうと大気であろうと、みなプラズマとなって彼の手に収まる。
物理的な威力以前の問題だ。全ての物質が物質である限り、それは彼の所有物となる。彼は万物に対して支配権を持っているということだ。
「世界の全てを破壊し、支配する能力。九〇〇〇の能力の頂点に君臨し、異例の名を与えられた能力者。――それが、『燼滅ノ王』よ」
その名を口にした柊の瞳は、どこか寂寞と空虚さをたたえていた。
何を言えばいいのか分からないでいる東城をよそに、彼女は続けていく。
「研究所は、その最強の能力者を飼い慣らすことに失敗した。彼が主導してアリスラインっていう能力者だけの街を作り、能力者全員を引き連れて脱走。研究所はほとんど壊滅した。けれど、研究所も甘くはなかったのね。一七〇〇の能力者の脱走は阻止して――そして、燼滅ノ王を殺害した」
ずきり、と血管の中にトゲが流れるみたいに頭が痛む。
「けど研究所は、その最強の能力者にある保険をかけてしまっていた。――その貴重な能力者のクローンを作っておいて、何にも巻き込まれることのないように外へ放逐していたの」
「クローン……だと……?」
何か、胸騒ぎにも似た嫌な予感がずっとしていた。これ以上先を知ってしまうと、東城の中の何かが根底から覆されかねないような、そんな予感が。
「そう。けど所長の代替わりとかのゴタゴタがあって、そのクローンは随分前に行方知れずになってどこでどんな風に育ったかは誰も把握できなかった。――だから、壊滅状態の研究所はその燼滅ノ王のクローンを生死によらず手に入れようとしているの。把握できないということは、能力者の味方をしている可能性だってあったからね」
――あぁ、そうか。
諦観にも似た理解があった。がらがらと足下が崩れていくような恐怖と共に、霹靂のような衝撃と共に、ただ、東城はそれを認めるしかなかった。
「あんたは、最強の能力者――燼滅ノ王のクローンなの」
言われて、それはすとんと胸に落ちた。
自分は燼滅ノ王のクローンで、その彼は研究所を壊滅させ能力者を救い出そうとした英雄で、そして失敗したいまバックアップの自分が代わりに狙われている。
ただそれだけの話だ。
それだけの話、なのに。
「認められないのは分かる。いきなりクローンだとか、受け入れがたいのも」
柊はそう言って、そっと東城の右手に触れた。――そこでようやく、東城は拳を固く握りすぎるあまり、血が出るほど爪が掌に食い込んでいたことに気づかされた。
「だけど、それが今までのあんたの生き方を否定するわけじゃない。俺には関係ないって、そう胸を張っていいの」
「……でも」
「大丈夫」
否定して何を続けたかったのか、東城にも分からない。だけど、そんな東城に柊は笑顔で言った。
「言ったでしょ。あんたは私が守るって」
そう言って、彼女は胸元のネックレスを握り締めて立ち上がる。
もうどこにもそんな力は残っていないはずなのに。東城を守るだなんて、そんなこと出来るはずもないのに。
「七瀬はあんたのことを最大限に警戒している。――最強の能力者のバックアップだもの。もし燼滅ノ王を万全に振るえるとしたら、七瀬の能力じゃ敵わない。昨日の晩で取り逃がした時点で、その警戒は跳ね上がってる。だから、七瀬はあの状況でも攻撃しようとはせず交渉を持ちかけた」
きっと彼女にも、東城がただの一般人であることは分かっているはずだ。
だがそれでも、万が一の可能性が捨てきれない。何かのきっかけを与えるかも知れない。そんな恐怖があるからこそ、正面を切っての戦いという選択は絶対に避けるべきカードだ。
「ちょっと休んで、私も少し回復したしね。七瀬は私が引きつけておくから、その間にあんたは正面以外から逃げなさい。交渉のテーブルに着きさえしなければ、七瀬にはあんたをどうする用意もない。つまりあんたの勝ち逃げってこと」
回復した、なんて、そんなのがただの強がりであることなど東城でなくとも分かる。彼女の胸元の刻印とやらは、不規則に点滅していた。まともに能力を使えるような状態ではないのだろう。
だがそれでも、それがきっと正しい選択だということは分かった。それ以外に道なんて何もないということも。
そして彼女はそんな笑顔のまま、戸を勢いよく引いて再び戦場へと飛び出していった。
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