第一章 I must protect you. -2-

 古びた街灯が、じじと鳴る。

 普段は気にならないような、かすかな音だ。だが、スニーカーとアスファルトが当たるざらついた音と合さって、それがいやに耳に障った。


「結局ファミレスで夕飯まで食うって、いくらなんでも長居しすぎたな……」


 周りには人影もなく、どこか恐怖にも似た背筋を薄く這うような不快感がある。それを無意識に拭おうとして、思わず東城は声に出してしまっていた。

 時刻は八時すぎといったところ。繁華街であれば賑わっているだろうが、住宅街のこの時間では、タイミング次第ではこんな風に人気ひとけが途絶えることもあるだろう。


「なんか気味が悪いんだよなぁ……。まじで柊の言うとおりにさっさと帰ってればよかった」


 熱帯夜なのに寒気を感じ身震いして、東城は歩調を速めた。


 ――その警鐘は、紛れもなく正しくて。

 ――そして、あまりにも遅すぎたのだけれど。


 バチッ、と。

 どこか遠くで、そんな音がした。


「な、んだ……?」


 思わず東城は立ち止まってしまっていた。

 それは何かがはじける音だった。たき火や手持ち花火にも似た、あるいは、冬場の静電気にも。

 ざわり、と、胸の奥で何かが大きく蠢いた。

 言い知れぬ恐怖があった。

 そして、そこはかとない郷愁も。


「どう、いう……?」


 自分の奥で渦巻く感情に整理がつかない。ただ東城は、まるで支配されたみたいにふらふらとその音がする方へと歩いていた。

 曲がり角。

 公園。

 広場。

 そしてそれは、眼前に。


 ――月光の下に紫電がはしる。

 ――向かい合うは二人の少女。


 左の少女の手から電撃を、もう一方の青いカチューシャの少女は踊るように

 くるくると、くるくると、まるで狂ったように舞踏は続く。

 カチューシャの少女の手元で何かがきらめく。それを受けて、対する少女はとっさに後方へと飛びすさっていた。何か見えないものをそれでも紙一重で躱してのけたのだろう。

 荒れ狂うように放たれていた青白い雷光は消え、代わりに夜の静謐さが舞い戻る。はらり、と、二人の間に数本の金色の糸が落ちるのが見えた。――それは、彼女の金糸のような毛髪だろう。


「……は?」


 見間違いではなかった。

 その世界に焼きつくほど美しい金色の髪を、見間違うなどあろうはずがない。

 その少女を、東城大輝は知っていた。


「ひい、らぎ……?」


 声はかすれて向こうには届かなかっただろう。訳の分からないことを前に、平然と声が出せる方がおかしい。

 だって。

 彼女は、柊茅里は、東城のただのクラスメートだ。

 ほんの数時間前まで同じ教室で同じ黒板を眺めていたはずの、どこにでもいる普通の少女だったはずで――……

 ずきり、と、頭が痛む。


「――そんな危ないもの振り回さないでよ」


 金髪の少女は、柊茅里は言う。教室で耳にするものとはまるで違う、冷え切った声音だった。


「あら、危ないのはどちらでしょう。かすめただけで致命傷の規模の電撃を振り回しているあなたの方が、わたくしからすればよほど野蛮だと思うのですが」

「あんたなら避けられるだろうっていう信頼でしょ」


 軽口に軽口で返した瞬間、紫電が駆けた。対する少女が手を放すと同時、電撃の槍に刺し貫かれたそれは飛沫となって爆ぜる。

 水、だったのだろう。

 彼女の手に握られたその武器は、どういう理屈か水を押し固めて形成されていたのだ。

 ――理解できている。

 ――東城大輝は、紛れもなくこの現象を知っている。


「なんだよ、これ……っ?」


 気づけばこめかみを押さえていた。

 まるで頭の中に情報が直接流れ込んでくるような、気味の悪い感覚があった。なんの整理も出来ていない情報の塊に圧迫されて痛みは増して、めまいと吐き気まで襲ってくる。

 ――だが、受け入れるしかない。否定することが東城には出来ない。

 これは、紛れもない現実だ。

 たった二人の少女が、超常の力を手に殺し合っている。


「剣――とは違うみたい。構えもフェンシングに近い。水をドリルみたいに形成して『突く』ことに特化させたって感じかな。まぁ無理に回転させなくても殺傷力なんて変わらないとは思うんだけど、その辺りの制約に何かあるの?」

「ドリルだなんて美しさのない。どうぞランスと呼んでくださいませ」

「どこの世界に自分で回転するランスがあるのよ。――まぁ何だっていいけど」


 そうして、柊は改めて攻め立てようとぐっと腰を落とした。

 だが、対する水の武器を構えた少女は笑っていた。

 それはまるで、何かを狙い澄ましたかのようで――……


「――ッ、避けろ!!」


 とっさに東城大輝は叫んでいた。

 二人の驚愕が、ほんの一瞬の停滞を生む。

 それを破るように逡巡を待たず反射的に動いた彼女の背後で、虚空に浮かぶ透明な槍がその背を刺し貫かんと撃ち放たれていた。

 ぞり、と何かをかすめ抉り取る嫌な音があった。

 しかし心臓を背から刺し穿つはずの一撃はそのままあらぬ方向へ消えていく。


 ――この場で自分の姿を晒す危険性など、東城の頭からすっぽり抜け落ちていた。

 ただ。

 いつも教室で見かけたらつい目で追ってしまう、そんな彼女が傷つくなんて見たくないと、そういうありきたりでどうしようもない思いに突き動かされていた。


「この場に能力者以外がいるなどあり得ませんが……っ」


 絶好の機会を失ったカチューシャの少女は、憎々しげに声の聞こえた方を向いていた。

 目が合った。

 距離は十メートル以上。だというのに、凍えるほど冷たい榛の瞳が東城の体をすくませる。

 ただの高校生でしかない東城に、あんな意味不明な方法で殺し合う少女と対峙するような力はない。

 逃げなければ、と頭蓋を割るほど警鐘が響く。

 気づけば背をひるがえして東城は走り出していた。それを追うように、背後から足音がする。


「逃げないでくださいませ」

「ふざけんな……っ」


 そう返すので精一杯だった。

 ちらりと横目で後ろを見れば、ブルネットの髪を揺らしてカチューシャの少女は真っ直ぐに東城を追いかけている。

 その手には、透明で細長い円錐状の物体がしっかりと握られていた。長さは一メートル近く、その太さは甲冑でもまとってやっと似合うほど。それがまるで渦潮のような水の流れだけで出来ている。

 たとえ刺し貫かれることがなかろうと、あの重量の水の塊で殴られれば骨が砕け散る。

 理屈などどうでもよかった。それがどうやって生み出されて制御されているかなど欠片も東城の頭にはよぎらない。ただそれが命にかかわることだけは覆らないのだから。

 だが、そんな超重量を手にした少女の足は止まらない。

 恐怖で心臓が荒れ狂っている東城の身体能力は、むしろいつもより遙かに低下していた。正しいリズムが崩れ、無駄に体力だけが奪われていく。


 少しずつ、しかし確実に背後にその少女は迫っている。

 距離がゼロにならなくとも、東城の心臓は常に狙われている。

 あの少女には遠隔から水のランスと呼ぶ武器を投擲する術がある。柊はそれに気づかず、東城の言葉でどうにか回避した。この数メートルの距離すら、もう既に彼女の射程圏内だろう。


「……何やってんだよ、俺」


 所詮はただの高校生だ。命を脅かす相手に立ち向かえるような強靱な心は持ち合わせていないし、肉体ならなおさらだ。きっと街のコンビニ強盗が相手だって何も出来ない。

 そもそも、いったい二人の少女が何のためにこんな危険なことをしているのかも微塵も分からない。もしかしたら正義はこの追いかけている茶髪の少女の方にあるのかも知れない。

 だけど、体が動いていた。助けなければと、そう思った。それが間違っているかどうかなんて関係ない。

 ――だから、これでいい。


「鬼ごっこは終わりにしましょう」


 声があった。

 それよりほんの刹那早く、殺意を感じて東城は急制動をかけていた。

 瞬間、東城の眼前を何かが抜けた。

 ただ冷たい飛沫と共に、ほんの十センチ先のアスファルトが、まるで豆腐か何かだったかのように切り裂かれている。

 止まっていなければ、今頃首が落ちていた。

 ぞっと背筋が凍る。

 ――そして、追い打ちをかけるように。


「チェックメイトですわね」


 足音はもうなかった。

 振り向くことはおろか、死を覚悟する余裕すらくれなかった。

 瞬間、東城の感覚は途絶える。

 視界は白一色。

 音は塗り潰された。


 ――ただ。

 それは死ではなかった。

 なにか空気の壁のようなものに叩きつけられているのだと気づいて、そのひと筋戻った感覚が、彼の命の証明だった。


「な、にが……」


 反射的に閉じていたらしい目を開けて、彼はゆっくりと後ろを見た。

 目に飛び込んだのは、燦然と輝く黄金の色だった。

 月光を受けてきらきらと輝く、凄絶なまでに美しいその髪に、ただただ東城大輝は目を奪われた。


「――やらせない」


 どんな手を使ってか二人の間に舞い降りた柊茅里は、立ち塞がるようにカチューシャの少女を睨みつける。


「だから早く帰れって行ったのに。――けどまぁ大丈夫よ」


 そして、ちらりと彼女は肩越しに東城を見やり、まるで神に祈るように胸元のネックレスを握り締めた。


「私が、あんたを守るから」


 その宣言と共に、タンザナイトの瞳に紫電のような眼光が宿る。


「……刺し貫けなかったとは言え、動けるとは思えませんでしたが」

「冗談。あの程度で、私が止まると思ったの?」


 まるで雷神のようにその身に雷電をまとった柊の周囲で、電圧に負けて空気がはじけていく。

 漏れ出た放電一つでも体に触れれば、その時点で致命傷。そんな過剰な力を見せつけるように、彼女の周囲の雷電は圧を高めていく。


「――やめましょう。そもそも真正面から戦えるとは思っていませんもの」


 それを前にしてカチューシャの少女からは先ほどまでの刺すような殺気が消えた。髪を払って小さなため息をこぼしたかと思えば、両手を挙げ降参の意思を示す。

 ざぁ、と風が吹き、ひやりとした感触が東城を包み込む。

 それだけで、気づけば東城の視界は奪われていた。数十センチ先はどうにか見えるが、それより先は白くぼやけて、眼前に立っているはずの柊の黄金色の髪さえもろくに見えない。


「霧、か……?」


 それは夏場のいまよく見かけるミストシャワーを想起させた。それがあまりに広範囲に広がっているせいで、自然の霧などよりもよほど濃く視野を遮っている。

 水を操っていた延長で考えれば、そんな真似が出来ても不思議はない。――そう納得できてしまう辺り、もう東城の中では常識がほとんど機能不全を起こしているのかもしれないが。


「先ほどの不意打ちからレーダーを張っているやもしれませんが、これだけの濃霧の中ではまともに機能しませんわ。もちろん目視は不可能」


 霧の向こうで彼女の声がする。――ただそれは、いつの間にかあまりに遠くにあった。


「悠々と撤退させていただきましょう。では、ごきげんよう」


 その声を最後に、ぷっつりと彼女の気配は途絶えていた。視界はまるでひらけていないが、それでももう彼女がいなくなってしまったことだけは確信できる。

 やがて数分もしないうちに霧は晴れて、後には月光の下、ぽつりと東城と柊だけが取り残されていた。


「助かったのか……?」


 安堵に胸を撫で下ろす東城だったが、そこではっとした。

 ぽたぽたと、彼女の腕を伝って赤い滴がアスファルトに染みを作っていた。風に乗って、ふわりと鉄錆みたいなにおいがする。


「血って、お前、大丈夫かよ……っ!?」


 近寄りながらポケットのスマートフォンに手を伸ばした東城を、柊は笑顔で制した。


「大丈夫だから。病院とか救急車とかは、やめて。――あんただって、今のあれこれを説明できないでしょ?」


 彼女の言葉に、ぐっと東城は言葉を詰まらせる。

 通報すれば事情を聞かれるのは否めない。だが、いま見た光景のどれか一つだって信用してもらえるとは思えなかった。下手をすれば、誤解を受けて誰にどんな迷惑がかかるか分からない。


「うん、それでいい。――ただ、その、ちょっとだけ休ませてもらえると、助かるかな……」


 そう言って、ふっと彼女の瞼が降りて、そのまま膝を折った。

 慌てて伸ばした東城の腕の中に柊の驚くほど軽い体が収まる。

 先ほどまでのが虚勢であったのだろう。痛みに耐えて脂汗を浮かべた少女は、彼の腕で眠るように気を失っている。

 それほどの傷を負ってなお、彼女は自分なんかを守るために立ち上がってくれたのだ。


「……何が大丈夫なんだよ……」


 もう何が何だか分からない。全てが理解の埒外だ。

 けれど。

 それでも、柊を抱え上げて歩き出すことに躊躇はなかった。

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