新暦九九五年 九の月 その三
夢を見ていた。
子供の頃の夢だ。
イリスが五歳のときのこと。
なぜ五歳かというと、そのときイリスの母親が死んだからだ。
目の前の母親の遺体に、誰かが覆いかぶさって泣いている。
誰だっけ。
女の人だ。
その人がイリスに向かって必死に語りかけてくる。
五歳のイリスに向かって。
でも、何をいっているのかわからない。
なぜなら、イリスの耳はふさがれているから。
イリスの背後に立つ人物が、イリスの耳をしっかりとふさいで、その女の人の声を聞こえなくしているから。
自分よりも少し背の高いその人物をイリスは見上げ――。
月明かりが差す部屋の中で目覚めたイリスは、人の気配を感じて、はね起きた。
「私です。影めに、ございます」
部屋の隅、月の明かりが届かない暗闇から、男の声がした。
「影か」イリスは大きくため息をついた。「すまない。いつの間にか寝入ってしまった」
「いいえ」
「いつからいた?」
「ほんのわずかばかり前でございます」
「僕は何かいっていたか」
「いいえ。うなされておいででしたが、はっきりとは聞き取れませんでした」
「そうか。ならいい」イリスはベッドを降りると、椅子に座った。「聞こう」
「ではまず、恐れながら、陛下のご意向をお伝えします。われらはこれまで通り、『太陽が沈む国』国王、デニス・ヤンセンとそれを支持する者たち――いわゆる王兄派を援助する。しかし、長く病に臥せっている現国王から王権を奪取すべく、王弟派が謀反を起こすことはもはや必定とみられる。ヴィレム・レーンを助け、王弟派のたくらみを阻止することに尽力せよ。詳細は書面にて」影が筒状に巻かれた書面を差し出した。「こちらです」
イリスはそれを受け取り、書面を縛っていた紐をほどくと、月明かりの下で読み始めた。その表情が徐々に険しくなっていく。
やがて、書面を読み終えたイリスは暗闇に向かって呼びかけた。
「影」
「はい」
「ユリウス・バウマンについて知っていることをすべて教えてくれ」
影からの報告を受けたあと、イリスは養父ヴィレム・レーンの部屋を訪れた。
ノックの音に、部屋の中からヴィレムが答える。
「どうぞ」
イリスは部屋に入ると扉を閉め、内側から鍵をかけた。しばらく扉の前で耳を澄まし、部屋の外に何の気配も感じないことを確かめてから、ヴィレムの方を向いた。
仕事机の前に座っていたヴィレムは立ち上がると机の反対側に回り込み、入れ違いにイリスが席に座った。
ヴィレムは片膝をついてこうべを垂れた。
「楽にしていい。お前も座ってくれ、ヴィレム」
「恐れ入ります、殿下。ではお言葉に甘えて」
うやうやしく立ち上がったヴィレムは近くにある二人掛けのソファに腰を下ろした。
「本国からの使いが来た」
「はい」
「われら『冠を戴く国』は、今後も『太陽が沈む国』を支援する。条件はこれまでと変わらず、穀物の税制優遇だ。具体的な条項に関してはこれまで通りとする。これは『太陽が沈む国』の現体制、つまり王兄派を支持するということだ」
「ありがとうございます」ヴィレムは頭を下げた。「引き続き、大国『冠を戴く国』の後ろ盾を頂けること、重畳にございます」
「既に、『冠』本国から医師団が出発している。また、場合によっては武力介入もありうると考え、準備を進めている」
「その二点はすでに正式なルートからも通達が来ております」
イリスはうなずき、続けた。
「それと、王弟派への対応だが、詳細はこれを」
イリスが差し出した書面を受け取ると、ヴィレムはランプの下で読み始めた。魔力結晶を原料とした灯りが、ときおりジジジという音を立てた。やがて読み終えたヴィレムは書面をイリスに返した。
「どう思う」
イリスの問いに、ヴィレムは答えた。
「ここに書かれていることは恐らく事実でしょう。ユリウス・バウマンの黒い噂については、これまでにも何度か私の周囲で取り沙汰されてきました。しかし確かな証拠まではつかめなかったのです」
「ユリウスは王弟派の急先鋒だ。もし、奴の尻尾をつかみ、ことを明るみに出せたとしたら」
「王弟派にとっては大きな痛手となるでしょう」
「問題はその方法だが」
「かなり前から準備を進めてきました。恐らく問題はないかと」
「それはそうだが」イリスは拳を唇に押し当てた。
「何か気がかりなことでも」
「いや」少しためらったあと、イリスは口を開いた。「義理の妹とその娘とはいえ、フランカ・アッペルとアマンダ・アッペルを、お前はユリウスのような男のところへ差し出すことになるのだぞ」
◆
影は答えた。
「バウマン家は、ここ『太陽が沈む国』で最も古い名門貴族の一つです。この国で三番目に大きい領地の領主として、これまでは善政が敷かれてきました。しかし、現在の領主、ユリウス・バウマンの評判は芳しくありません」
「どんなふうに」イリスが尋ねた。
「浪費家。自らの欲望の充足のためには手段を選びません。領民たちへの税は重く、私腹を肥やしています。好色で、これまで多くの娘を領内から召し上げています。金と女、そして快楽。ユリウス・バウマンはそれらにどっぷりとつかっています」
「まさに、絵にかいたような悪徳領主か」吐き捨てるように、イリスはいった。「それで、奴の尻尾はつかめると思うか、影」
影が潜む暗闇から、ふっと息が漏れた。
◆
「お心遣い、感謝いたします」ヴィレムは頭を下げた。「しかし、フランカたちがバウマン家に入るということは、そこに様々な人間が随行するということです。こちらの手のものを入り込ませる絶好の機会となります。そして、一度懐に入ってしまえば、崩すのはたやすい」
「それはわかっている」イリスはうなずいた。「そうやって、われら『冠を戴く国』はこれまで多くの国や領土を支配下に置いてきた」
「それに、フランカの亡き夫は、どちらかといえば王弟派に近い人物でした。なにより、フランカはまだ若くて美しい」
イリスはため息とともに、告げた「わかった。以後、この件はヴィレムの采配に任せる。お前が直接指揮をとれ」
「御意」
「それと、もうひとつ」
◆
「もうひとつ、教えてほしいことがある」
イリスは暗闇に向かって、語りかけた。
「影にわかることであれば、何なりと」
「アムスベルク家のことだ」
「かつて『月が照らす国』に存在した名家ですな。ここ――『太陽が沈む国』に併合されたとき、取り潰されたと聞きましたが」
「それは知っている。知りたいのは、シドル・アムスベルクのことだ」
「『月が照らす国』の名誉騎士であり、この東の地最強の騎士といわれたコルネリス・ティーレ、その最後の弟子である女性騎士。しかし、その出自は謎に包まれております。コルネリス・ティーレに剣を教わったのも、『月』が『太陽』に攻め込まれ、降伏したあとだと聞いております」
「やはりその程度しかわからないか」
「シドル・アムスベルクが何か」
「彼女は王弟派と通じている可能性がある」
「なるほど。王弟派には『月』の出身者が多いですから。それは考えられることです。探りを入れておきましょう。シドル・アムスベルクについては、例のこともありますし」
「例の――というのは、例の噂のことか」
「はい」
「シドルは『開く者』ではないか、という噂だな」
「そうでございます」
「影。『開く者』というのはいったい何なのだ。僕はずっと、ただの伝説上の人物だと思っていたのだが」
「『開く者』」影の潜む部屋の隅の空気が、ふっと揺らいだ。「それは、大いなる力を持つ者。この世界が滅びの危機に瀕したとき、必ず現れ、世界を救うことを運命づけられし者。千年に一度の大変革の際、人々を導き、新たな理を興す存在。戦の際には、味方を勝利に導く強大な力を宿している者、ともいわれております」
「それは僕が知っているいい伝えと同じだ。でも、シドルがそんな存在だとは、どう見ても思えない」
「しかし、特殊な能力を宿していることもまた事実です」
「そうだな」
「今回のユリウス・バウマンの件で、シドル・アムスベルクがどう動くのか。まずはそれを見極まる必要があるでしょう」
◆
「わかりました」ヴィレムはうなずいた。「シドルの動きは、これまで以上に、注意しておきます」
「頼む」イリスはいった。「シドルに関しては、こちらの判断に一任されている。僕も何か策を考えておく。話は以上だ。遅くまでご苦労だった」
ヴィレムは立ち上がり、イリスも席を立った。
「おやすみ、ヴィレム・レーン」
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