新暦九九五年 九の月 その二
バタン、と盛大に鼻血を吹き出しながら、男が床に倒れた。
「やれやれ。よくもまあ毎回飽きもせず……」そういいながら、カウンターから出てきた店番のバルトが、桶に入った水を倒れている男の顔にぶちまけた。
「おい、起きろ、ディック」バルトが倒れた男――ディックの頭を足で小突いた。「商売の邪魔なんだよ。まったく」
「ううう」ディックは頭を振りつつ、ゆっくりと起き上がった。「またやっちまった」
バルトはカウンターの中に戻りながら、アマンダたちに尋ねた。
「嬢ちゃんたち、いつものでいいかい」
答えを待たず、バルトはカウンターに並んでいるアマンダ、レオ、イリス、シドルの前に飲み物を置いた。
「いやぁ、やっぱり姉さんの技はすげえや」ふらふらとディックが立ち上がり、シドルのそばにやってきた。「何回食らっても、拳がちょびっとも見えねぇ」
「だから、その姉さんって呼ぶのやめてよ。あんたよりいくつ若いと思ってんのよ」
頭から水滴を滴らせながら近寄ってくるディックを追い払う仕草をしながら、シドルがいった。
「でもなぁ。外見は確かにそうなんだけどよ、俺にはあんたが年下だとは思えねえんだよな。なぜだかさ」
一瞬、複雑な表情を浮かべたシドルは、首を振った。
「それに。何回もいってるけど、あんたが私をいやらしい目で見る限り、あんたは私に倒され続けるんだからね」
「だってよ、こんなべっぴんさんが目の前にいんだぜ。そりゃあ、口説きたくもなるってもんだろが。なあ、バルトよ。お前さんもそう思うだろ」
「あんたは見境がなさすぎる」
「ひでえなぁ」
「それと、ディック。あんた、そろそろ――」
ディックはバルトの言葉に何かを察したようで、カウンターからそっと体を離した。
「まあまあ。もうちょっとの間、つけといてくれや」ディックはイリスたちに手を振った。「そんじゃまあ、皆さん、ごきげんよう」
そそくさと店を出ていくディックを見送ったあと、アマンダは体を乗り出して、カウンターの端にいるシドルに話しかけた。
「ねえ、シドルのその技――っていうか、特性ってさ」
ジョッキを傾けながら、シドルはアマンダの方を見た。
「調節とかできないの?」
「ある程度はできる」シドルはいった。「でも、よほど気を付けていないと難しい。それに、私は調節する気はない」
「だったら、気配を消せばいいじゃないか」イリスがいった。「君はそういう特殊な能力も持っているんだから。そうすれば、相手はシドルのことを気にかけなくなるだろ」
「なんでそんなことしなくちゃならないのよ」シドルがジョッキをカウンターにドン、と置いた。「男どもが私をそういう目でみなければいいだけの話よ。それなのに、どうして私がこそこそと隠れなきゃならないわけ? ふん。冗談じゃないわよ」
シドルはとんとんと、指でカウンターを叩いた。
「じゃあ、男の人がシドルに、なんていうか、その……」
口ごもるアマンダのあとを、シドルが続けた。
「そう。男どもが私に欲情する限り、私の能力は発動し続けて、そいつらは私になぎ倒され続けるってわけ」
イリスはカウンターに押し付けられているシドルの豊満な胸を見て、ため息をついた。
「お代わりちょうだい」
シドルがジョッキをバルトに渡す。
「私ももらおう」それまで無言でシドルたちのやりとりを聞いていたレオも、ジョッキをバルトに手渡した。「それで、ここ最近はどうかね」
「ここのところずっと、野盗が出たって話は聞いてませんね。シドルさんのおかげですよ。それまでは安心して街道を行くことができなかったので」
新しく飲み物が注がれたジョッキを、バルトがシドルとレオに手渡した。
「護衛を雇うにも金がかかるし、そもそもその護衛だって信用できるかどうかわかったものじゃない」
バルトがカウンターに置いた手を開いたり閉じたりしている。
「だから、町のみんなはシドルさんに感謝してるんです。このあたりは穀物が豊かな土地ですからね。もしもその商流まで危うくなってしまったら、この町だけじゃなく、領内全域の問題に発展しかねません」
「まあ、そうなる前に私が派遣されたわけなんだけどね。ごちそうさま」空いたジョッキをカウンターに置いて、シドルが席を立った。「じゃあ、私はちょっと用事を済ませてくるわ」
「あ、私も一緒に行ってもいい?」
アマンダが声をかける。
「いいけど」シドルが肩をすくめる。「別に面白くないわよ」
「いいの」
「わかった、じゃあ、一緒に行こう」シドルはアマンダの顔を見てうなずき、イリスとレオを振り返った。「あなたたちは? もう少しゆっくりする?」
「僕たちも、もう少ししたら出るよ」イリスはいった。「ちょっと町を回ってみる。馬を留めてる『深緑停』で落ち合おう」
「わかった」
シドルとアマンダが店を出ていき、イリスとレオは再び杯を傾け始めた。
「シドル殿は刀鍛冶のところですか」
「ああ。剣を打ち直してもらっていたらしい」イリスはバルトに声をかけた。「有名な刀鍛冶がいるんだろ」
「ええ。エデュアルトの腕は領内で右に出る者はいませんよ。遠くからはるばる打ち直しに来る人もいるみたいです」
「なるほど」イリスはうなずいた。
「でも、ここのところ大きな戦がありませんから、エデュアルトは商売あがったりだと嘆いていますよ。もちろん、エデュアルト以外の町の人間はみな、戦なんてない方がいいと思っていますが。おっと」バルトは大げさに両手を広げた。「騎士さまの前でする話ではなかったですね」
「いや」レオは首を振った。「私たちとて、戦などないに越したことはないと思っているよ」
「そうですか。それを聞いて安心しました」バルトはうなずいた。「確かに、国同士の争いは、四年前『月が照らす国』を併合してからはありません。しかし最近、国内で王位をめぐる争いが起きるのではないかと、皆噂しています」
「そういう噂があるというのは聞いているよ」レオが答えた。
「領主様は昔から王兄派――現国王を支持されていますし、領民も皆同じです。ただ、陛下のお体の具合が心配です」
「うむ。しかし、こればかりは良くなるよう祈るしかあるまい」
「ええ。おっしゃる通りです」バルトはうなずいた。「もう一杯いかがですか」
イリスは首を振った。
「僕たちも、ちょっとエデュアルトのところを覗いてみることにするよ。どうかな、レオ」
「そうですな。では、そろそろ行きましょうか」
レオが飲み物代を支払い、ふたりは店を出た。
「どうだった」通りを歩きながら、イリスが声を落としてレオに尋ねた。
「符丁を使っていますな」レオも低い声で答える。「シドル殿がカウンターを指で叩き、バルトは手のひらを開けたり閉じたりして、情報を伝達しています」
「内容は」
「そこまではわかりません。それほど複雑な内容ではないでしょう」
「シドルは王弟派とつながっている」
「その可能性は高いと見てよいかと。どうします」レオはさらに声を落とした。「バルトを締め上げますか」
「いや。そこまでする必要はない」イリスは首を振った。「本国は今のところ王兄派を後押しする方針だが、今後どうなるかはわからない。様子を見よう」
「しょせんは他人の家の中、ということですか」
「僕だって個人的には王兄派に肩入れしたいさ。でも今はとても危うい状況だ。いつ均衡が破られてもおかしくはない。今晩、本国からの使いが来る。それを待って判断しよう」
「わかりました」
ふたりは刀鍛冶の工房の近くまで来ると歩を弱め、角からそっと入り口をうかがった。
工房の前の木箱に、シドルとアマンダが座っている。たぶんまだ剣は出来上がっていないのだろう。
イリスは目でレオに合図し、路地裏に入ると、工房のすぐ脇の狭い通路に身を潜めた。シドルとアマンダの会話が聞こえてくる。
「それで?」シドルがいった。「私に何か聞きたいことがあるんでしょ」
「ああ、ええと」珍しく、アマンダは言いよどんだ。「イリスのことなんだけど」
「うん」
「イリスはたまにすごくつらそうな顔をするの。ほんの一瞬、よく見てないとわからないくらいほんの一瞬だけど。それが私、すごく不安で」
「あなたはいい子だね、アマンダ・アッペル。よく気が付くし、よく人を見ている」
ぽん、ぽん、と体のどこかを軽く叩く音が聞こえる。
「確かに、イリスは何かを抱えているように見える。でも、いきなり環境が変わったんだから、それは仕方がないことなんじゃないかな。たぶんしばらくしたら、落ち着くと思うよ」
「うん。そうだよね」
しばらくの沈黙のあと、アマンダが続けた。
「ねえ、シドル。イリスのこと、どう思ってる」
立ち去ろうとするレオの手をイリスはそっと掴み、その場にとどまらせた。
「どう、とは?」
再び沈黙。
ため息のあと、シドルが口を開いた。
「あなたが考えているようなことは、たぶんないよ。だから安心して、アマンダ」
「でも……」
「あなたの心配が当たっているとしたら、それは私に向けられているものじゃない」
短い沈黙のあと、迷いを伴った声でシドルは続けた。
「イリスは私を通して、誰か別の人を見ている。それが誰なのかはわからないけど。そんな気がする」
「どういうこと?」
「ごめん、ごめん」慌てたような声でシドルはいった。「私にもよくわからないの。たぶん私の気のせい。今のは忘れて」
シドルの言葉に、イリスはスッと目を細めた。そして、レオの顔を見ず、俯いたままその場から離れると表通りに戻り、工房へと歩き出した。
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