新暦九九五年 九の月 その一
声が聞こえる。
誰かが誰かの名前を呼んでいる。
――イリス。
乳白色の霞の向こうにおぼろげな人影が見える。
――イリス。イリス。
どうやらその人影は自分の名前を呼んでいるようだ。
でも、違う。自分はそんな名前じゃない。そのことを告げるため、人影に近づこうとするが、まるで油の中を進んでいるみたいに足が前に進まない。
違う。
僕の名前は――。
そして、イリス・レーンは目を覚ました。
目の前に、少女の顔があった。
「もう。イリスったら」
横たわるイリスを覗き込むようにしてベッドのそばに立っている少女が、あきれ顔でいった。
「ちっとも起きないんだから」
「アマンダ。君はまた……」イリスはため息をついた。「勝手に入ってくるなって、何度いえば――」
「だって」イリスの言葉をさえぎって、アマンダはさらに顔を寄せた。「おじさまたち、もうとっくに朝食を済ませちゃったわよ」
かがみこむアマンダを避けるように、イリスはずるずるとベッドの上の方に体をずらした。
「わかってるよ」そういって、イリスはシーツを引き寄せた。「今日は特に用事はないから、昼まで寝かせてくれって、ハンナにもいってあるのに」
「知ってる」
「え?」
「だってここ、ハンナに開けてもらったんだもん」
イリスは再度ため息をついた。
「まったく。ハンナときたら、君にはめっぽう甘いんだから」
「ちょっと、ハンナを責めちゃだめよ」
「わかってるよ。だいたい、いつも彼女に叱られてるのは僕のほうじゃないか」
そういってイリスはシーツを目元まで引きずり上げた。
「それは、イリスがいつもだらしないからでしょ。えいっ」
アマンダはイリスの体を覆っているシーツを引きはがした。
「うわ。こら」
「いい加減、観念しなさい。こんなにいい天気なのに、もったいないわ」
シーツを抱えて、アマンダは窓の外を見た。
イリスも視線を窓の外に移すと、眩しそうに顔をしかめた。
「昼からシドルが町まで出かけるって。一緒に行きましょう。たまには、お姉さんのいうことを聞きなさい」
「たったひとつしか違わないくせに」
「年上は、年上よ」アマンダはシーツを抱えたままドアの方へ向かった。「これ、洗濯しておいてもらうわね。じゃあ、またあとで」
三度目のため息をつくと、イリスはのろのろと起き上がった。
「今日もお城へ行くのですか、ヴィレム」
フランカ・アッペルの言葉に、ヴィレム・レーンはカップを持つ手を止めた。
イリスは朝食の乗った皿から、ちらっとフランカに目を向けた。さっき、自分の部屋を出ていくときに見せたアマンダの表情が脳裏に浮かんだ。今日もフランカは若々しく、アマンダとは親子というよりもまるで姉妹のようだと、イリスは改めて思った。
ヴィレムは紅茶を一口飲むと、フランカに答えた。
「ああ。ここ最近、王弟派の動きが活発になってきているからね。陛下も不安がられているようだ」
「お体の具合はいかがなのですか」
視線だけ動かして、ヴィレムは向かいの席に座っているイリスの背後を見た。息子の遅い朝食を運び終えた女中のハンナが出ていき、扉が閉まったところだった。部屋はヴィレムとフランカ、そしてイリスの三人だけになった。
「正直にいって、あまり思わしくない。まあ、一進一退といったところだな」
「あなたもあまり無理はなさらないで」
「私は大丈夫だよ。それに、家のことは安心して任せられる立派な息子がいてくれるからね」
フランカはイリスに微笑んだ。
「ここの暮らしにもすっかり慣れたみたいですね、イリス」
「おかげさまで、マダム・アッペル」イリスは朝食を食べながら答えた。「アマンダにも感謝しています」
「あら。それはあの子に直接いってやってちょうだいな。きっと喜ぶわ」
一瞬返答に詰まったイリスに、ヴィレムが微笑んだ。
「イリスはああ見えて、どうやら奥手のようだよ、フランカ」
「でしたら、これからいろいろと教え甲斐がありますわね、お義兄様。それに、お義兄様だってまだまだお若いのですよ。公務も大事でしょうけど、そのあたり、もう少しお考えになってもよろしいのでは。姉が亡くなってもう十年になるのですから」
「まあ、それはまたそのうちに。そういえば」苦笑いを浮かべて、ヴィレムはイリスにいった。「今日はシドルが町まで行くといっていたな」
「ええ。僕とアマンダも一緒に行きます」
視線を向けたイリスに、フランカはうなずいた。
「シドルと一緒なら、安心ね」
「さすがはコルネリス・ティーレ最後の弟子だけのことはある」ヴィレムもうなずいた。「レオも相当な使い手だったが。シドルが来てから、ここらを荒らしまわっていた野盗たちが一掃されたからね」
「到着した早々、お手柄でしたものね。ところで」フランカがイリスをちらりと見た。「あの噂は本当なのかしら。シドルが――」
バタン、と先ほど女中が出ていったのと反対側の扉が開いて、アマンダが顔をのぞかせた。
「イリスったらまだこんなところに――」
「アマンダ! なんてお行儀の悪い」
フランカの言葉に、アマンダは部屋の中にいるヴィレムに気付いた。
「わ。ごめんなさい、おじさま」
ヴィレムは笑って首を振った。
「元気がよくて結構。イリスが待たせて悪かったね」
「いえ、そんな。私こそ急かしちゃって」
「それでは父さん、マダム・アッペル」イリスがいった。「僕はこれにて失礼します」
「気を付けて行ってらっしゃい」
「はい」
フランカにうなずき、イリスは立ち上がった。アマンダのいる出口へ向かう途中で、イリスとヴィレムは視線を交わした。イリスはかすかにうなずくと、扉のわきに立つアマンダを促して部屋を出た。
「もう、ふたりとも準備万端よ」
「すまない」廊下を歩きながら、イリスは首をかしげた。「ふたり?」
「レオも行くって」
「ふうん」
屋敷の外に出て、厩舎へ向かおうとしたイリスに、物陰から飛び出した人影が襲いかかった。
「ぐっ」
不意に腹部を殴られ、うずくまりかけたイリスは、かろうじて次の攻撃――足払いを避けると、アマンダをかばうようにして腰の短刀に手をやった。
「うん」フード付きのマントを羽織ったシドルが腕を組んで立っていた。「まあまあね」
「ずるいよ」イリスは腹を押さえながらいった。「気配を消すなんて」
「こういう敵がいるかもしれないじゃない。備えあれば憂いなしよ」
シドルはイリスに近寄ると、イリスの腹部をとんとんと叩いた。
「よしよし。だいぶ締まってきたわね」
三人が厩舎に着くと、馬装した三頭の馬とともに、レオが待っていた。
「またシドル殿に一本取られたようですな、若」
「まあね」
「それくらいで済んでいるのは、レオが鍛えてくれていたおかげよ」
シドルがアマンダに手を貸して馬に乗せ、その後ろに自分もまたがった。
「レオはもうイリスに稽古はつけないの?」
アマンダの問いに、馬にまたがりながら、レオが答える。
「私が教えられることはもうすべて教えてしまいました。それにできれば、若には戦ってもらいたくはないのです。それは私の役目ですから」
「そうもいってられないことだってあるさ」イリスが乗馬し、手綱を握った。「だろ」
「いずれにせよ、若がシドル殿に教えを乞うことは有益だといえましょう。なにせ、東の地最強とうたわれた騎士の愛弟子ですからな。私がもっと若ければ、私が自らお願いしているところです」
「あら。こちらはいつでも歓迎するわよ」
「いや、この体にはいささか荷が重い。しかし、いつかお手合わせ願いたいものですな」
「わかったわ」
シドルとレオは笑いあった。
「では、行きましょうか」
馬上のシドルがくっとふくらはぎに力を入れて、歩を進めた。
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