エルンと灰色の路

Han Lu

第一章

新暦九九五年 六の月

 少年が異変に気付いたのは、目的地の町まであと数刻という頃合いだった。

 御者が頻繁に鞭を入れはじめ、速度が徐々に増していく。

 幌の隙間から御者台をうかがい、聞き耳を立てた少年の耳に御者たちの会話がかすかに聞こえてくる。

「奴は。護衛は、どこへ行った。まさか逃げやがったんじゃ」

「どのみち、一人じゃ無理だ」

 少年は体の向きを変えて側面の幌の隙間から外を覗いた。月明かりの下、過ぎ去っていく木々の向こうに複数の馬影が並走しているのが見えた。

「若」

 少年の隣に座っている中年の男が少年にささやく。少年は男にうなずくと、馬車の中を見渡した。

 速度はさらに上がり、激しい振動に荷台が揺れる。乗りあった人々も異変に気付き、不安そうに顔を見合わせている。

 外套の下に伸ばそうとした少年の腕を、男がそっとつかんだ。少年が口を開こうとしたそのとき、馬のいななきとともに馬車が急停止した。馬車の前と後ろに複数の馬の気配を少年は感じた。

 不気味な静寂が訪れた。乗客たちは身じろぎひとつせず、俯き、じっと座っている。ぶつぶつと祈りの言葉をつぶやいている者もいる。

 やがて御者台の方から、どさっと何かが地面に落ちる音が二つ。続けて、馬車の両側から聞こえてくる足音が後方へと移動し、バサッと幌が開けられた。ゴロン、と荷台に何か丸いものが二つ、放り込まれる。

 御者の首だった。

 かすれた悲鳴が上がる。

 男が二人、荷台へ足を踏み入れてきた。少年は素早く二人の人相風体を観察した。四十がらみの年かさの男と、若い男。年かさの男は腕が立つようだ。帯びている剣の柄の状態から見ると、相当使い込んでいるようだった。二人とも落ち着いている。

 若い男が乗客を見渡しながらいった。

「金目の物をすべて出しな。武器もな。下手な真似はするんじゃねえぞ。こうはなりたくねえだろ」

 若い男は御者の頭を足で転がした。

 乗客たちは所持金を床に置いた。武器の類を持っている者はいなかった。少年と連れの男も荷物の中から金の入った布袋を取り出した。男たちは集めた袋の中身をいちいち確認することなく、無造作に大きな袋に放り込むと口を縛って肩にかついだ。

「あとは」

 年かさの男がそういうと、男たちは乗客たちの顔を見渡していった。少年の前で年かさの男が止まり、顔を近づけてくる。男の衣服にしみついている汗臭いにおいが少年の鼻をついた。隣に座る連れの男からすっと殺気が立ちのぼるのを、少年は感じる。しかし、年かさの男はそれに気づかず「ふん」と鼻を鳴らすと少年から離れていった。

「来い」

 若いほうの男が、少年から少し離れた場所に座っていた乗客の腕をつかみ、引きずり上げていた。少年と同じくらいの歳の、十五、六歳の少女だった。

「待ってください」

 隣に座っていた男の乗客が立ち上がりかけたのを、男が殴った。バキっという音とともに乗客は倒れ、動かなくなった。鉄の小手をつけている、と少年は見て取った。

「お父さん!」

 少女が叫び、倒れた乗客に取りすがろうとするのを男が無理やり引き離した。

「若すぎるな」

 年かさの男がいうと、若い男が答えた。

「仕方ねえだろ。最近、女日照りが続いてんだからよ」

「生娘はうるさいし面倒なんだよ」

「そんじゃあ、まずは俺がたっぷりと慣らしといてやるよ」

「ほどほどにしとけよ」

 ため息交じりに年かさの男がいって、馬車を降りていく。若い男は父親に向かって叫び続けている少女を力ずくで引きずりながらその後に続く。乗客たちは誰も動こうとしない。

「いくぞ、レオ」

 そういって立ち上がりかけた少年の腕を、連れの男が押さえつけた。

「レオ」少年がささやく。「僕とお前となら、なんとかなる」

 レオと呼ばれた連れの男は首を振った。

「いけません。相手の人数もわかってないんです」

「手際がいい。奴ら、慣れてる。だから油断も生じる。実際、僕たちの体を調べもしなかった。向こうは丸腰だと思ってる」

「だめです、若。もしも万が一のことがあったら――」

 ダン。

 その足音にレオの言葉は途切れた。少年とレオのすぐそばから人影がゆっくりと立ち上がった。二人の目の前を横切り、その人物は馬車の後ろに向かって歩き出す。

 誰だ、こいつは。

 少年は戸惑った。乗客たちの人数と顔は把握していた。少年とレオを入れて十人。しかし、こんな客は見た覚えがない。いつの間に乗り込んだんだ。その客はフード付きの外套を頭からすっぽりとかぶっていて、顔が見えない。おそらくレオも少年と同じように戸惑っているのだろう、少年をつかんでいた力が抜けた。少年はレオの手を振りほどき、その不思議な乗客の後を追った。

 年かさの男と若い男は少女を連れて、すでに馬車を降りている。

 フードの乗客は荷台の際で立ち止まると、振り返えらずに少年に告げた。

「来るな」

 思わず少年は立ち止まった。女の声だった。

 そして、その乗客はためらうことなく、すとんと馬車を降りた。手には何も持たず、見たところ丸腰だった。

 少年は荷台の後ろに膝をつき、外を見た。レオも少年のすぐ後ろに控えている。

 年かさの男と若い男が金の入った袋を地面に置き、別の男が少女をロープで縛っているところだった。

 野盗たちは全部で六人。

 一人は松明を持っている。魔力結晶の練りこまれた松明だった。ということは、奴らは相当羽振りがいいはずだ、と少年は判断した。飢えてはいない。皆それなりに場数は踏んでいるようだが、手練れは年かさの男一人だけと少年はみた。この数ならなんとかなる。少年は振り返らずにレオにいった。

「ほかに気配は」

「ないようです」

「レオ。左側の四人は任せた」

「仕方ない」レオはため息をついた。「ただし、合図は私が出します」

「わかった」

 馬車を降りて野盗たちに近づいていくフードの乗客を見て、一番手前にいた野盗の二人が剣を抜いた。

「なんだ、お前」

 野盗の言葉に、フードの乗客が答えた。

「その子を離してやれ」

 声の主が女だということに驚いたのか、剣を抜いた二人が顔を見合わせた。 

「代わりに、私が相手をしてあげる」

 乗客はそういうとフードを外した。長い黒髪が両肩にこぼれる。そしてためらうことなく外套を脱ぐと、その下に着ている衣服をすべて脱ぎ捨てて、あっという間に一糸まとわぬ姿となった。

 松明の明かりの前に、若く均整の取れた女性の美しい裸体が浮かび上がった。

 女は、脱いだ衣服の中から腰に巻いていた布を取り上げ、自ら目隠しをすると頭の後ろで縛った。

 思いがけない女の行動に、今にも飛び出そうとしていた少年はたじろいだ。

 野盗のひとりが口笛を鳴らした。

「こいつぁとんだ上玉だぜ」

 松明を持った男が裸の女に近寄って行った。

「おい、気をつけろ」

 年かさの男がいった。

「大丈夫だ」松明の男が地面を足で蹴りながらいった。「地中の魔力結晶も反応してない。どうやら魔術師でもなさそうだ」

 男は松明を女の顔に近づけた。

「それに、こんな状態ではなにもできまい」

 松明に照らされて、目隠しをした女の横顔が少年にはっきりと見て取れた。その顔を見て、少年は動揺した。と、同時に少年の背後からレオのつぶやく声が聞こえた。

「イリナ様」

「いや」少年は首を振った。「そんなはずはない。でも……確かにそっくりだ」

 松明を持った男の手が女の胸へと伸ばされた。

「まあでも念のためだ」男は舌なめずりをして、薄ら笑いを浮かべた。「まずは隅々まで調べさせてもらおうか」

 男の手が女の乳房に触れようとしたその瞬間、男の目の前から女の姿がかき消えた。

「え」と男が声を発するのと、男の足元に何かがゴロリと転がってくるのが同時だった。

 切り離された野盗の一人の頭部が無表情に男を見上げている。

「ひいっ」という少女の悲鳴に振り向いた松明の男の方へ、首から大量の血を吹き出している死体が倒れこんでいった。年かさの男だった。腰の剣が抜き取られている。

 思わず後ずさった松明の男の周囲で、野盗たちが首から血を流しながら声もなく次々と倒れていく。いずれも頸動脈を確実に切断されていた。

 一人残された松明の男を照らす明かりが上方へスッと消えた。

 男は茫然と自分の手を見つめている。さっきまで松明を持っていた左手の手首から先がない。

 手首から吹き出す血を見て大きく口を開けた男は、叫び声を上げる前に喉笛を切り裂かれて地面に転がった。

 上空から落ちてきた松明を、いつの間にか再び姿を現した女が頭上で無造作につかみとった。もう片方の手には奪った剣が握られている。まだ目隠しをしたままだ。

 少年はほとんど女の動きを追うことができなかった。かすかに残像のような人影を残して、あっという間に女は六人の人間を斬って捨てた。人間業とは思えなかった。

「なんだ。あれは」

 背後でレオの言葉を聞きながら、少年は茫然と女の姿を見つめていた。男たちの返り血を浴びて、白い肌が真っ赤に染まってしまったその体を。

 少女の体がぐらりと揺れた。女は、意識を無くして崩れ落ちる少女に駆け寄ると、少女の体を抱えてそっと地面に横たえた。女が手放した剣が地面に転がった。

「誰か」女は立ち上がり、馬車の方を振り返えると、目隠しを外した。「この近くで体を洗える場所を知らないか」


 女が小川に入って体から血を洗い流している間、少年は小川を背に周囲に目を配りながら立っていた。野盗がほかにいるとは思えなかったが、「誰か来たら知らせてくれ」という女の言葉を少年は守っていた。

「ありがとう」少年の背後で女の声がした。「助かったよ」

 振り返ると、川から上がった女が立っていた。体を隠そうともせず、まっすぐに少年を見下ろしている。かなりの長身で、頭一つ少年よりも高い。

 少年が無言で差し出した布を受け取り、体をふき始めた。

「君はいくつ?」女がいった。

「十五歳」少年が短く答えた。

「ふうん」女は体をふく手を止めて少年に近づくと、じっと相手の顔を覗き込んだ。「君はどうやらワケありみたいだね」

「どういうことだ」

「だって、十五歳といえばもういっぱしの男だよ。なのに私の体はぴくりとも反応しない。アレが発動する気配がない。どうしてかな」

 少年はどう答えていいかわからず、戸惑いの表情を見せた。

「同性が好きなタイプには見えないんだけどな」つぶやくように女はいうと、草むらの上に置かれた服を着始めて、ぴたりと手を止めた。「もしかして、君」

 女の顔が少年の間近に迫った。

「な、なんだよ」

「その年で、もう女は飽きるほど抱いちゃったの?」

「はあ?」少年はうろたえた。「あんた、さっきからいったい何を――」

「なわけないわよね。まあいいわ」女は服を着終えると、右手を差し出した。「私はシドル。シドル・アムスベルク。これも何かの縁よね。よろしく」

 少年はアムスベルクという言葉に、かすかに表情を動かした。しかし、女が――シドルがそれに気付いた様子は、少なくとも少年には感じられなかった。

「僕はレーン」少年はシドルの右手を握った。「イリス・レーンだ」

「レーンって」シドルは握手をといて、右手を腰に当てた。「あのハーレン領主の、レーン家のこと?」

 イリス・レーンと名乗った少年はうなずいた。

「でも、確かあそこはまだ跡取りが生まれてないって」

「だから僕が養子として迎えられた。僕がこれからその跡取りとやらになるんだ」

「へえ。なるほど」シドルが大仰にうなずいた。「じゃあ、行先は同じね」

「同じ?」

「私、しばらくレーン家にやっかいになることになっているの。いわゆる食客ってやつね」シドルは楽しそうに笑って、イリスの背中をたたいた。「でもよかった。しばらく君と一緒だと思うと、なんだか心強いわ」

 シドルから少し離れて、イリスは訝しげな表情を浮かべた。

「どうして」

「だって、あなたは」シドルは一瞬いいよどんでから、答えた。「あなたとは、なんだか運命的なものを感じるの」

 イリスは言葉を返さず、ただ複雑な表情を浮かべただけだった。

 そんなイリスの表情に気付いた素振りは見せず、シドルが明るくいった。

「これからもよろしくね、イリス・レーン」

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